「意識を内側に向けるとタクシーが止まる」
先日リブログさせてもらった旺季志ずかさんのブログの2日前の部分が、下です。
「世界は自分の反映だ」の入り口に立ったとき、最初に使えるワザは、たとえばタクシーをつかまえること。
これで思い出すことが少し。
関野あやこさんのアンフィニ・セミナー(※)の場面で、参加者の体験談シェアのなかで、タクシーを引き寄せた話がありました。
「雨降ってるし、ぜったいタクシー来ないような場所なんですが、「ごろごろ」(アンフィニの統合メソッドで、不安とかイライラを物質的な球体にして転がし落とすというワザ)をやったら、あっというまに来たんです」
参加者はみんな、わー!と湧きました。そうか、困ったときには、ポパイのほうれん草じゃなくて、「ごろごろ」がある。どんな現実も動かせる万能ツールなんだ。
「宇宙の法則」を知る前は、世界と自分の意識が連動しているのを知らずに、「世界は偶然の集積・人間の意志はそれと無関係で無力」と思っていたわたしたちが、
突然
「世界は自分でコントロールできる!」という広々としたところへ出るわけです。
そして世界は「自分の望むようにスケジューリングでき、思い通りのことを起こせる」という方向に理解していってしまう。つまり世界は自分が意志すれば「コントロールできる!」と。そしてアファーメーションとかイメージコントロールとか、力でがんばって念じる方向へ向かい、「ごろごろ」も、現実をうまく行かせるためのツールだと思って使いつづけ、そのうちに
アレ、なんか現実がうまくいかない、効かない
というふうになります。
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あやこさんはその第一の関門を見越していて、「現実をうまく行かせるために、統合をするのではない」「現実から自由になって、高い意識のところへ出るためにやる」(そうすれば逆に、万事如意というか、ただの映像である現実にこだわらなくなった地点で、逆にかなう)と言っていましたが、当時、やっぱり私もそのパラドックスがつかみきれなかったと思います。
「外の現実を見て」「外の現実をねじふせ」「それを突破する」ために自己啓発系のワザを使いはじめると、けっきょく内側の「創造の源点」に立ち戻るという原点から外れ、「外に映し出された現実のスクリーン」に顔ごとめりこんで「スクリーンをむなしく書き換えようとする」方向に行ってしまう。
なんです。
★
タクシーを今朝、私は止めようと思いました。タクシー乗り場では前に会社員がふたり並んでいて、なかなかタクシーがこないので、時計を見、会社に電話をし、相談して、もうダメーと諦めた顔で乗り場を去りました。
そして私が前に並びました。
そのとき上に書いた「タクシーを止める「ごろごろ」」のシェアを思い出したのです。
あれをやるとタクシーも来るし、なんでもかなう、とみんな思っていたなあ、と。
いまでは、少しわかったので、やれば来るのはわかっています。でもやる心構えにこつがある。
来るか来ないか、どうでもいい。まっ、いいか。
この捨てる、手を放すことを、球体転がしと同時にやり、つまり「期待」を転がして忘れさることです。
(思えばバシャールもよく、「その時点でもっともワクワクすることを、いっさいの期待なくやりなさい」と言っていました。その結果、最初に願ったとおりになることも多いので、つい、現実は自分でコントロールできるぞ、という外向きの意識になってしまうのですが)
タクシーは1分ほどで来ました。「よいも悪いもリモコンしだい」(鉄人二十八号)です。
うまく書けませんが、「来い」と念じるのではなく、「来ることがわかっている」意識にすべりこむと、すぐ来るのです。
(「来い」と命じて、そのとおりになる「ワンコマンド」という優れたメソッドもありますが、これも、まったき信頼の上で成り立ちます。)
★ そして、改めてはっとしました。
いまでも「(意識のいろんなワザを使えば)現実はコントロールできる!」と思っていたなと。
つまり「コントロールしたい」(「コントロールしないと、どこへ外れていくかわからない」「管理ができて安心」)という態度で、現実に向かっていたな、と。
ここがまちがえやすいところで、「宝地図」とか「ヴィジュアライズ」とか「いつまでに達成」とスケジューリングするとか、自分で計画し、世界をコントロールしようとするワザが、自己啓発の世界ではいくつも示されてきました。でも、大多数の人はとちゅうで挫折する。
それは、意識が外向きになり、現実とがっぷり四つに組んで戦うから(そこは創造のパワースポットではない)。
なので数年前から、こんどはエイブラハム理論の主導のもと「引き寄せ」がブームとなり、「何を達成するか」にフォーカスするのではなく、「達成したときの感情・喜び」にフォーカスしないとだめだ、と指摘されるようになりました。
「引き寄せ」は自分がきちんと自分の位置に立っていて、そこへものを引き寄せる、という点では、現実のほうへ走っていって山をのぼり、急流を泳ぎ、猛獣と戦って課題をクリア、という従来のやり方よりは「創造のゼロ地点」に立っていると思います。
それでも、「結果や成果を出さないと」と思って、そのために無理にはしゃいでみたり、その気になろうとしてみたりして、けっきょくは、自分の「外のものをコントロール」するスタンスになってしまうことがあります。だから「引き寄せ難民」とか言う言葉も出てきたり・・・
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「外界を心でコントロールできる」と初めて知った段階は、すごくワクワクして嬉しい感情ものっていて、いろいろなことがかなうのでしょう。でもこの「コントロールできる!」で止まると、けっきょく昔と同じように、「努力でまわりをコントロール(できるはず)」となり、コンピュータ・プログラマーの全能感(やや魅力的)はあっても、そこでふと間違え、とちゅうから、スクリーンのほうをいじりはじめてしまう。結果……効きません。
今朝あらためて、
「コントロール」という言葉がくせもの、と気がつきました。「コントロール」は既製の成功や業績や理想の鋳型に、ぜんぶを入れて、万全にしていこうとする姿勢。安心したい、これを得たい、これも要る、と思います。どんどん新手の「不安材料」を見つけ、もぐらたたきを推奨する「保険」のCMのように、現実の破れをカバーしようとするのです。
そしてそんなふうに、これで大丈夫なはずの「安全管理」(これがしばしば願望のメインになってしまう)にだんだん心が疲れていきます。
「生命感情」もひからびるし、「結果であるスクリーン」を切り貼りする、という本末転倒した努力のせいで、コントロール自体が効かなくなり、けっきょく一番最初の「外界を動かしたいが、自分は無力」のところへ戻ってしまう。そして・・・・・・やっぱりすべては偶然で混沌だ、と。
大きなパラドックスです。
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では「無力感→世界はコントロールできる!」と知ったさきは?
信仰深い人なら宇宙に「おまかせする」でしょうし、あるいは能動的に「創造の波にのる」
言葉だとそれもやや窮屈な感じです・・・・・コントロールしたい人間のさがの向こうへ抜ける?
(ほんとうに禅問答のように、自分対世界の二項対立を消すのです。)
コントロールせずして、コントロールの根源にいるためには、
スクリーンがただの映写幕の平面であることに気付くためには、
やっぱり(全存在でもって)「後ろに下がる」こと、と改めて思います。
そこへ下がると、何か、ここに書いたような悶々とした論理のいっさいが不要になる、信頼の地点にホールインワンするのです。(これがうまく書ければ・・・・・・)
自分から自分が幽体離脱するような感じで、とりあえず50センチうしろへ抜け出てみる。
「ごろごろ」はそもそもそのために創られた、そして相当に効力のあるメソッドだと思います。
(大嶋信頼さんにも「幽体離脱」という呪文があります!)
★22日のブログにも説明をのせましたが、
※関野あやこさんは、バシャールの日本人チャネラー第一号。フルトランスだと、ふわふわなふだんの語り口とは違う、ドスのきいた魅力的なバシャールに変身。そののち、「アンフィニ」というメソッドを立ち上げ、youtubeにもいくつかそのセッションが上がっています。
日常に出てくるすべての「違和感」を、好悪を離れた、ただの球体イメージにかえて統合してゆく。
このあたりはいま、旺季さんやHappyさんがもう少し現実的なモチベーションをこめて、見直してくれていて、多くの人が(スピ的な秘儀ではない)自分の必然的な問題として、心に落とし込むことができる段階に来ているな、と感じます。