この続き 最終回です。

二つ目の「応答」は雅亮会@拠点が実家

に対して。


本書の最後に

「先輩諸師への御恩報謝の思い」を

示すために置かれた

司馬遼太郎のエッセイ集『十六の話』

に収められた

「大阪の原形ーー日本におけるもっとも

市民的な都市」からの引用。


それは、140年来、

この会を運営してきた先祖や先輩達に対する、

リレーのバトンをしっかり受け取りましたよ

という「応答」であると思います。


☟司馬遼太郎『十六の話』(文庫版)より


私自身は、

昨年、この司馬遼太郎の文章を読んで

この団体が守ってきたものは

単なる日本の伝統芸能の技術にとどまらない

もっと大きな普遍的な価値であって

日本の外においても、今日的にも、

大きな意義があるものだという確信を持ちました。


(それについて書いた昨年の記事☟)


そして

かつて司馬遼太郎が言っていたことは

今も変わっていないんですネ。


「雅亮会のメンバーは、まずは生計を立てる

仕事を確保したうえで、残された時間と

エネルギーを天王寺舞楽の伝承に注ぎます。

もちろん、演奏だけではなく、運営や

事務仕事にも分担してあたります。そして、

それらに対して十分な報酬があるわけでも

ありません。このことは一見、

舞楽伝承にとってデメリットのようにも

思えます。しかし、お金のためでも、

家名のためでも、社会的地位のためでもない

営みですので、かえって、自分たちの

伝承事業に対する不断の内省を

もたらしてくれます。現代においては、

天王寺舞楽は、その純粋な

文化財的価値に確信を持つに至った者が

継承する、聖徳太子や諸々の如来とともに

仏教と民衆を繋ぐ芸能であり、事業なのです。」

(『天王寺舞楽』276頁)


ここで言われている

「不断の内省」について、ささやかながら

外部から思い巡らすと。


伝統とは、ただ流れていった長い時間のこと

ではなく、

人の意志が繋いでいくものであるということ。


それは

ただ上に向かって自然に

ぐんぐん伸びていく木のイメージ

ではなく

枯れたり折れたところに「接木」しても

生きながらえる木のイメージ。


そして

伝承とは

時流に合わせた勝手な自己表現ではなく

受け継いだものをそのまま

次の世代に渡すというささやかな役割に

全力を投じるという営為であって、

価値のあるものを我有するのではなく

一時期お借りしているだけだという

謙虚さに基づくものだということ。


(しかし奇妙なもので、そういう無私の

取り組みの只中にこそ、控えめにしてても

秀でた人間の仕事がどうしようもなく

際立ったり、

パフォーマンスの優劣というのが

あらわれる、

そういうところが伝統芸能の醍醐味。)


伝承の精神は

誰もがこの一回きりの人生楽しみたい、

思うままに生きたいが最高原則の

今の世では、最も理解されにくいものかも。


それは

自身の生を超える時間性の理解を

必要とするから。


何でも簡単に所望して所有して

気分が変われば断捨離、

ご自愛や自己実現が一番大切、

消費の果てに自分の終わりよければ全てよし

という考えとは対極にあると思います。


ただし、環境保全やら

持続可能性やらのスローガンが叫ばれ

いよいよさまざまな局面で

地球資源の枯渇が顕になるこの時代、


はたまた際限のない資本主義の我有の強欲が

合法的に地上の富の配分をかくも歪にしている

この時代に、


本当に次世代のこと、未来のことを

考えるのであれば、

付け焼き刃の素人目線で

未来を慮るのではなく

そもそもこのような伝承の姿勢や

考え方から学ぶところは大きいはず。

(伝統芸能に限らず、どんな分野であっても。)


今年ちょうど140周年を迎える雅亮会🎉


大阪万博開催を契機として

全国の、そして世界の方々に

その価値を是非知っていただきたいと思います。