下記の続き



 聖霊会は無事終了しましたが

 本書は別件でも面白い🎵

 (注 書評でもなんでもない

 一種の説法@布教活動なのであらかじめご了承下さい)

 

 さて、

 天王寺舞楽にある「民アピール」問題の

 続きです。


 そもそも

 民にアピールって何でするんでしょうね?

 最終目標は民を正しく教え導くこと。


 でもそれって容易じゃない。


 だって誰もウザい説教なんか真面目に

 聞きたくないから〜 


 ある例外的状況を除いて。


 例えば、例の横川先生@推し活の専門家は

 「上司の朝礼スピーチは2分と

 聞いてられないけど

 推しのインスタライブなら300時間でも

 視聴していられる」とか

 「この人のようにありたいなんて

 おこがましくて言えませんが、推しのいいところ

 を少しずついただいて、ひとかどの人物に

 なれたらと思う次第です」とか

 仰ってたと思いますが


 理想的な「教化」というのは

 そういう状態だと思います😆


 かっこいいは正義、推しのいうことは

 頼まれなくても聞くのが下劣な衆生の性w


   大乗仏教の菩薩道は

 そんなこととっくにお見通しで、

 それを民を導く「方便」として説明してた、と。

 (あくまで手段であって目的ではないんですが)


 以上は私のバイアスかかりまくりの解釈ですが、


 本書は真面目に正面から

 『大樹緊那羅王所問経』(所問経)を取り上げて、

 そこに

 「音楽や芸能によって、なんとしても

 多くの人を仏道へと誘い、ともに悟りへ

 赴かしめんとする、大乗仏教の音楽・芸能に

 対する思想の極まり」を見ています。


 この経典にあらわれる音楽、芸能の力は

 民を何が何でも教化するための方便。


 それは

 単に綺麗だとか耳触りのいいとか

 気分がいいって話ではなくて、

 ほとんど抗いたくても抗えないような

 強烈な魅力の顕現のことで。


 上品なBGMで上から目線で教化というより

 「悪魔的な」何かにもかかわらずダイナミックに

 それを教化に転じるって感じでしょうか。


 (言い換えると、

 必ずしもハイソで趣味のいいものに

 靡くわけではない

 アホで移り気なパンピーに対して、かなり周到に

 カスタマイズされた執念のファンサとも言える。)


 ゆえに

 本書でもっとも

 「コレは例のアレだ😆」と歓喜した箇所☟


 「…この経典は、一見仏道修行者が忌避すべき 

 事柄であっても、民衆を導くための手段として

 敢えてそのことを行う振る舞いも方便波羅蜜の

 射程であることを例示しています。例えば、

 下劣な衆生を教化するために敢えて

 下劣な振る舞いをしたり、

 淫欲に執着する衆生を教化するために、

 淫女や妙女に姿を変えるといったような例までが

 挙げられています。」(226頁)


 師匠〜ここの箇所の外道の罰当たり女共、

 コレ私たちみたいな仮象のことですよ〜🤭

 出演料いただきたいですね😙 (主役じゃないですけどね?)

 

 (あいにく手元に1932年版の出典がないので

 東大のデータベースで検索したんですがこの辺?

 英訳で読んだダメな私に誰か書き下し文ください)




雅楽ってお上品過ぎて眠たくなる音楽かと思いきや
思想的に掘り下げていくと
こんな激しさも辞さない内容を含む経典に
結びつくんですね😳という衝撃です。

大乗仏教、スケールでかっ、懐深っ!!

(読解に際しての個人的な限界は
肝心要である仏教の空論というのが
私には正直全然ピンとこないってこと😅
この救いようのない罰当たり者を
誰か助けてって感じ😅
…まあ、このブログ自体、特に嘘はついてませんが
リアルであるとも言いがたいので、空と言えば空。)

さて。

本書より前に出版された
天王寺舞楽の他の解説書には
見受けられないこの『所問経』への洞察。

本書では先行研究や参考文献の類が一切記されて
いません。だから、一読後は正直驚いたけど。

本当は、
ずっと前(17年とか前、しかも初出ドイツ語)に、
著者自身がちゃんとした研究論文の形にしてて、
それを引用した他の研究書さえ存在するような
(東儀道子『雅楽の心性・精神性、理想的音空間』
2016年)、長くあたためられ追求されてきた
テーマだってこと。

でも本書には
いちいち注とかにそういう情報は載ってない。

こういうとこ、ひとつとっても〜

本当に、私の推しらしい😌
その辺の凡百の大学人がしばしば欠いている
「わきまえ」というか「おくゆかしさ」というか。

この本が装丁だけではなく内容も
スタイリッシュな所以なのよね。

この本は、
あるテーマについて
自分が無邪気に調べたこと全部盛り込んだり
素人が見つけにくいとか
十分に咀嚼できないレア情報詰め込んだりした、
一般読者が正直勘弁して欲しいと思う自己満の
研究業績報告本の類ではないってことです。

人文学の分野で
いわゆる専門書とか研究論文を読むのは慣れっこで
若い時から「権威ある」学者も国内外で
いっぱいみてきた私ですが、

前著『雅楽のコスモロジー』(法蔵館)のときから、
こんなテーマなのに
ここまで記述や見取り図がクリアで、
何よりもエッジのきいた瀟洒な著作を書く人間は、
どういう研究歴と思考回路と
そもそもモチベーションを持ってるのか、
今まで見たこともなくて
どうにも不思議で心惹かれて仕方がなかった。

去年の衝撃☟
きっと皆さまはテーマ自体がニッチなので
難しそうとかわかりにくそうとか硬そうみたいな
先入観持つと思うんですけど、

全然違うんだな〜😙

(この明晰さって
著者の外国語の運用能力の高さのせいもあると思う。
どんなにレアな古語文献読みこなしても、
現代ではそれを
西洋近代ベースの思考の枠組みや
メジャーな外国語で
アーティキュレートしたことがない人が書く
日本語って、国際感覚に照らすと
どうも埃かぶっててクリアじゃないんで)。

色々な物事に対する俯瞰力、つまり
自分が何を求められてて、どう動けばいいか、
動いてる自分が上から見えてるっていうか、
(昔ヒデ中田は
そういうサッカーするって誰か言ってたけど)
その種の離見が効いてる、
平たく言うと、頭がいい人が書いてるってこと。

(余談ですが
推しの場合は、身体表現にもホントそーいうとこが
あったよなあって。
俯瞰的な解釈や思念で統御されてる所作としての舞。
それがなければ走舞は
ビリーBoot Campのエクササイズっぽくなる
危険があってとても難しい。
推しの猪突猛進は、がむしゃらとは違う)。

著作についても同じで
情報レベルでは
止めるとこは止めて踏み込むとこは踏み込んで、
伝えたいメッセージの方を際立たせた本だ、
というのが私の理解です。

何か珍しいテーマについて
面白いから無邪気に集めた調べた見て見て〜
っていうより、
自らに投げかけられたものに
「応えなくてはならない」という責任感が
そもそものこの本の執筆動機。

その動機は
こればっかりは自分ではどうしようもない
「宿命」から来るもの。

(自分の関心の追求を生業にする以上
それを制度に乗せることに人生終始しがちな
「大学内存在(Sein in der Universität)」
には普通そういう高尚なモンはないんです。)

ですから、
私はこの本を

天王寺舞楽というニッチなトピックの
研究書や解説書というより、

天王寺舞楽の伝承の中心を担うことを
生まれる前から定められていた著者が
自らの宿命を引き受ける中で
真心を込めて行った
二つの応答の物語として
読みました。

この先はエモい話なんで〜
皆さまにもゆっくり
ご理解いただきたいと思いますから
また出直します。

(その3に続きます)