序詩・森の若葉

 

なつめにしまっておきたいほど
いたいけな孫むすめがうまれた

新緑のころにうまれてきたので
「わかば」という 名をつけた

へたにさわったらこわれそうだ
神も 悪魔も手がつけようない

小さなあくびと 小さなくさめ
それに小さなしゃっくりもする

君が 年ごろといわれる頃には
も少しいい日本だったらいいが

なにしろいまの日本といっはら
あんぽんたんとくるまばかりだ

しょうひちりきで泣きわめいて
それから 小さなおならもする

森の若葉よ 小さなまごむすめ
生れたからにはのびずばなるまい

 


 ・・・(金子光晴「若葉のうた」より)

 

1975/7/1 中日新聞

 

「若葉のうた」という詩集を開いたら、

新聞の切り抜きが はさんであった。

自分がはさんだのは まちがいないけど、

すっかり忘れていた。

 

ボクが金子光晴を読んだのは、

反戦詩からだった。

当時は ベトナム戦争が活発で

そんな流れに乗っかっていた

戦争を知らない世代のボクだった。

 

 


この「若葉のうた」は、
そんな反戦とは 無関係な
ただただ 孫娘・わかば のことが
可愛くて仕方のない おじいちゃんの心情ばかり。

 

 

生れたからにはのびずばなるまい

 

でも、

最後の一行からは、そんな詩人の思いが伝わる。

 

 

 

鹿

 

今は秋

わたしの春は秋だから

 

角をはずした鹿たちの

秋の瞳に

音もなく沈んで行く

はるかな春

はなやかな春

 

・・・(薩摩忠「愛する者たちへ」より)

 

 

今は秋

というから 季節は秋

と思ったら

わたしの春は秋

だという。

 

どういうこと?

わたしは 詩人?

いや、鹿のこと?

 

角をはずした鹿たちの

で、

季節は春だと 気づく。

実りの秋のように、

鹿の角も実って 生え替わる

と いうことか?

 

いずれにしても、今は春の季節だ。

それも

はるかな春

はるかな という表現で、

心は奈良に飛ぶ。

はるか昔 はなやかな 奈良の都。

 

秋の瞳に

音もなく沈んで行く

のは、

詩人の感傷にちがいない。

 

 

雲の息子だから 彼は

どこからともなく あらわれ

どこへともなく 去って行く

 

呼び止めようとしても無理だ が

気が向けば 同じところで

いつまでも 眠り続けている

 

怒らせると

風の神の口真似をして

相手と自分を吹き飛ばす

 

時折 彼の方から近付いてきて

喉に飼っている雷を鳴らす

 

 

・・・(薩摩忠「愛するものたちへ」より)

 

東京出張中に

猫のテレビを見ていたら、

内田百閒の「ノラや」という本を開きたくなって、

帰宅してすぐに、

本棚をガソゴソしたのだけれど、

見つからない。

内田百閒さんが、ノラをさがしまわったように、

時間をかけて さがしてみたけど、

出てこない。

本を処分したときに

いっしょに 捨ててしまったんやろか?

いや、お気に入りの本だから、

そんなことは ないはずだ。

 

またさがす。

見つからない。

 

そんな時に

薩摩忠さんの この詩を見つけた。

まだ 著作権が切れていないから

ちょっと迷ったけど、

取り上げた。

 

 

どこからともなく

なんて聞くと

月光仮面だね。

相手だけじゃなくて、自分も吹き飛ばすぞ。

 

ああ「ノラや」

「ノラや」はどこへ行ったのか?

内田百閒さんのように、英字の張り紙でも してみようか?

 

 


川をかんがへると
きっと きもちがよくなる
みるより
かんがへたほうがいい
いまに
かんがへるように
みることができてこよう
そうなれば ありがたい

 

 

・・・(八木重吉「鞠とぶりきの独楽」より)

 

八木重吉の頭の中は どうなっているんだろう。

川をかんがへると

と言いながら、

実は 川を考えないでいよう と

言っているように思う。

 

こういった詩を目にすると

思考が止まってしまう。

 

川とは何か?

と言うのでは ない。

川そのものを 考える。

それは なんだろう?

思う のでも ない。

川を考えるんだ。

 

で、詩人は、考えているのでもない。

それは きっときもちがよくなる

と 書かれていることで 知ることができる。

きっと と言っているんだ。

きっと なんだ。

つまり 想像だ。

 

そうして、

かんがへるように
みることができてこよう

と続く。

もはや、見る ということが

眼でとらえる ことではなくなっている。

 

川をかんがへる

ひと晩で、一気に書き綴ったという

「鞠とぶりきの独楽」は、

詩人を 別世界に連れて行ってしまった。

 

むずかしい言葉なんて ひとつもない詩なのに、

この世界にとどまっている自分の頭では

追いつかない。

 

かんがへるように
みることができてこよう

詩人は

川になろうとしているのかもしれない。

 

説明はできない。

できないけれど、漠然と伝わってくる。

 

理解はできない。

できないけれど、

この詩に出会えたことに 感謝するだけ。

 

ボクが死ぬとき、

この詩の意味がひらめくかもしれない。

 

 


いいもの
みつけた
あった あった
まりがあった


まわるものは
みんな いいのかな
こまも まわるし
まりも まわるし

 

・・・(八木重吉「鞠とぶりきの独楽」より)

 

ひとり、六本木のホテルにいて、

しずかな時間をすごしています。

 

2時間ほど前まで、

明日からの打ち合わせをしていたのに、

重吉の詩を読みだしたら、

気持ちは 別世界に入る。

 

あった あった

まりがあった

 

なんやねん。

そっか、まりか。

まわるものは みんな いいのかな

って、

めずらしいね、詩人が疑問形なんて。

宗教がなんなのかはわからなくても、

重吉に接していたら、

気持ちは穏やかになる。

 

もうちょっとしたら

MLB中継がはじまる。

おだやかな気持ちが

また 別世界に行くんだな。