川をかんがへると
きっと きもちがよくなる
みるより
かんがへたほうがいい
いまに
かんがへるように
みることができてこよう
そうなれば ありがたい

 

 

・・・(八木重吉「鞠とぶりきの独楽」より)

 

八木重吉の頭の中は どうなっているんだろう。

川をかんがへると

と言いながら、

実は 川を考えないでいよう と

言っているように思う。

 

こういった詩を目にすると

思考が止まってしまう。

 

川とは何か?

と言うのでは ない。

川そのものを 考える。

それは なんだろう?

思う のでも ない。

川を考えるんだ。

 

で、詩人は、考えているのでもない。

それは きっときもちがよくなる

と 書かれていることで 知ることができる。

きっと と言っているんだ。

きっと なんだ。

つまり 想像だ。

 

そうして、

かんがへるように
みることができてこよう

と続く。

もはや、見る ということが

眼でとらえる ことではなくなっている。

 

川をかんがへる

ひと晩で、一気に書き綴ったという

「鞠とぶりきの独楽」は、

詩人を 別世界に連れて行ってしまった。

 

むずかしい言葉なんて ひとつもない詩なのに、

この世界にとどまっている自分の頭では

追いつかない。

 

かんがへるように
みることができてこよう

詩人は

川になろうとしているのかもしれない。

 

説明はできない。

できないけれど、漠然と伝わってくる。

 

理解はできない。

できないけれど、

この詩に出会えたことに 感謝するだけ。

 

ボクが死ぬとき、

この詩の意味がひらめくかもしれない。