サム上30章①1~8【神のショック療法】…偽善的な生き方への報い…懲らしめのムチと二重の恵み | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

サムエル記上30章1~8節

〔新共同訳〕

アマレク人に対するダビデの出撃】(1)

1三日目、ダビデとその兵がツィクラグに戻る前に、アマレク人ネゲブとツィクラグに侵入した

 

彼らはツィクラグを攻撃して、町に火をかけ、 2そこにいた女たち、年若い者から年寄りまで、一人も殺さずに捕らえて引いて行った。 

 

3ダビデとその兵が町に戻ってみると、町は焼け落ち、妻や息子、娘たちは連れ去られていた。 

 

4ダビデも彼と共にいた兵士も、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。 

 

5ダビデの二人の妻、イズレエルのアヒノアムとカルメルのナバルの妻であったアビガイルも連れ去られていた。 

 

6兵士は皆、息子、娘のことで悩み、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したので、ダビデは苦しんだ。だが、ダビデはその神、主によって力を奮い起こした。 

 

7ダビデは、アヒメレクの子、祭司アビアタルに命じた。「エフォドを持って来なさい。」アビアタルがダビデにエフォドを持って来ると、 

 

8ダビデは主に託宣を求めた

 

この略奪隊を追跡すべきでしょうか

追いつけるでしょうか。」

 

追跡せよ必ず追いつき、救出できる。」

という答えであった。 

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(聖句雑感)

一難去ってまた一難。

ダビデ軍の危機は去りません。

 

「アマレク人」とは、

ヤコブの双子の兄エサウの系図を継ぐ者たち。

「イスラエル」とは関わりも深いものの、

「アマレク」に対する主の「裁き」は下される。

 

申命記25:17-19(新共同訳)

17あなたたちがエジプトを出たとき、旅路でアマレクがしたことを思い起こしなさい。18彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった19あなたの神、主があなたに嗣業の土地として得させるために与えられる土地で、あなたの神、主が周囲のすべての敵からあなたを守って安らぎを与えられるとき、忘れずに、アマレクの記憶を天の下からぬぐい去らねばならない

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「しんがり」という言葉が妙に響いてきます。

 

イスラエルを撃つためにペリシテ軍の「しんがり」となったダビデたち。「しんがり」として行軍し、神の憐れみの采配を受けて領地に引き戻る最中の出来事であった。

3ダビデとその兵が町に戻ってみると、町は焼け落ち、妻や息子、娘たちは連れ去られていた。

4ダビデも彼と共にいた兵士も、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。

幸いに、連れ去られた者で「殺された」者はいなかったという。

これもまた、主の憐れみ、主の助けなのだろうかと思う。

 

ダビデ軍の兵士たちの矛先は、ダビデへと向かう。

 

人は、極度の不幸に遭遇すると、不幸の原因探しをするようだ。

今回のアマレク人の襲撃は、同胞のイスラエルを撃たんとするペリシテ人の行軍に追従し、自らの村を空っぽにしてしまったがゆえに起きたことだったのだとも思えます。ダビデの部下たちは、その責任をすべて「ダビデ」に負わせようとしています。

 

かつては「ダビデ」を慕い、サウル体制から逃れて「ダビデ」のもとにやってきた人々ですが、家族を連れ去られるという悲劇の前に「泣く力もなくなった」ほどの衝撃と悲しみで、冷静な判断を見失いつつあります。ダビデ自身も被害者です。

 

「ダビデ」がそこで行ったことは、「主に伺う」ことでした。

 

主の御心、それは、アマレクの絶滅。

それは、サウル王の使命でもありました。

イスラエルに課せられた主の御命令です。

 

「アマレクの記憶を天の下からぬぐい去らねばならない」

とは、主の御心。

 

なんだか悲しくなりますネ。

主の「さばき」を受けることの悲しみ。

容赦のない、神の「さばき」。

 

主の慈しみ給う者を害する者への

主の報復は なんと容赦」のないことだろうかと思いました。

 

されど、

「弱き者」「力なき者」への

神の深き憐れみもまた感ずる思いであります。

 

神の正義を信じて

神の御心に適う生き方ができますようにと

願いをあらたにできればと思いました。

 

ハレルヤ

 

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解説を見てみました。

 

新実用聖書注解465p

ペリシテ人の首長たちに疑われ、戦陣から送り返されたことの背後に、実は二重の恵みが隠されていた

 

1つは祖国と戦うことを免れたことであり、もう1つは、この章に見られるように、アマレク人の捕虜となった家族たちを取り戻すことが出来たことである。

 

彼らは、神の不思議な導きにより異変を知らされたばかりでなく、行方を突き止め、戦いに勝って家族を救うことが出来た。

 

そしてダビデは、神の恵みにあずかった者として、弱い者たちやこれまで世話になった人々に報いたのである。

 

長く偽善的に生きていたダビデに、神の愛による懲らしめのむちが加えられた

 

ダビデとその一行がツィケラグに帰ってみると、町はアマレク人の攻撃を受けて焼き払われ、家族は、妻も子もひとり残らず捕虜にされ、引いて行かれた後であった(1-3)誰も殺されていないことは神のあわれみであった

 

疲れて帰った一行は、この惨状を見て泣き叫び、精も根も尽き果て(4)、その責任をダビデに帰し、彼を石で打ち殺そうと言い出した(6)

 

ダビデは、自分自身の2人の妻アヒノアムとアビガイルを失った身として(5)、悲しみの極みにいたところに、部下たちのこの仕打ちが加わり、最低の状況にまで落ち込んだが、《彼の神、主によって奮い立った》(6)

 

この事件は、長らく神から離れ、暗黒の道を歩んでいたダビデに対する、神の「ショック療法」であった

BIBLEnavi270p

ダビデは神に力を見いだし、解決方法を探し始めた。

問題に直面している時は、責めたり批判したりする相手を探しても無駄だ。誰かを責める代わりに、どうしたら解決方法を見つけられるかを考えてみよう

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clay解説全文

略奪されたツィケラグ

アマレク人の攻撃

普通、私たちは出張に出かけるとき、留守宅が主によって守られることを信じて出て行きます。ダビデもそのような思いで、出陣して行ったことと思います。ところが、三日目にツィケラグに帰ってみると、大変なことになっていました。アマレク人がそこを攻撃し、町を焼き払い、そこにいた女も子どももすべて連れ去っていたからです。

 

(1)ダビデとその部下は、町が略奪されたのを見て、声を上げて泣きました。この時点では、彼らは自分たちの家族が殺されたと感じていたのでしょう。最後は、泣く力もないほどになりました。

 

(2)ダビデの妻であるアヒノアムとアビガイルもまた、連れ去られていました。

 

(3)悲しみに打ちひしがれた民は、いっさいの責任はダビデにあると考えたようです。彼らは、ダビデを石で打ち殺そうと言い出しました。


ダビデにとっては、予期せぬ方法で危険が襲ってきました

 

しかし彼は、主によって力を得ました。そのことを聖書は、「しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った」と表現しています。

 

ダビデが約束の地を離れてペリシテ人の地に下ったのは、信仰が後退したからでした

 

そして今、彼はその不信仰の刈り取りをしています

 

窮地に立たされたダビデは、我に返って主に対する信頼を再び回復します

 

主への信仰こそ、力の源です

 

エポデ

(1)ダビデは祭司エブヤタルに命じて、エポデを持って来させます。その中に入っているウリムとトンミムによって主にお伺いを立てるためです。本来であれば、ダビデはペリシテ人の地に下るという決定をする前に、主にお伺いを立てていなければならなかったのですが、それをしなかったために、今回のような危機を招いたのです

 

(2)主からの答は、略奪隊を追えということでした。「必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる」という約束まで付いていました。このときになって初めて、ダビデとその民は、家族の者たちが死んでいないという確信を得ました。


人々が絶望して不平不満をぶちまけているとき、あなたはどのような態度を取りますか

 

ダビデのように、主の恵みによりすがり、そこから力を得ることを学びましょう

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きょうの祈り

全知全能の神よ。私はあなたの恵みにより頼みますどうかきょうも、私と私の家族とをお守りください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

列王記第一13~14、使徒の働き19

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2024年6月24日(月)☀29℃

 

陽が室内を照らし始めました。

今日もまた暑い一日が始まりそうです。

 

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clayさんの問いかけ。

人々が絶望して不平不満をぶちまけているとき、あなたはどのような態度を取りますか。」

 

私なら、

皆と同調して、

皆と同じような言葉や態度をとりそうです。

 

「絶望」や「不平不満」の引力はけっこう強いです。

 

「主の恵みによりすがり、そこから力を得ることを学びましょう」とあります。

 

「不信仰」には ちゃんと「刈り取り」が待っているものなのですね、ヤハリ…。(>_<)

 

ダビデさんはそこで、

「我に立ち返り」、

「主への信頼」を回復していったのですネ。

 

「主への信頼こそ、力の源」

アーメン

 

幼子のような信仰に立ち戻りたいです。

ハレルヤ

 

尊き主イエスの御名によりて

常に喜び絶えず祈り

凡てのこと感謝できますように。

アーメン