サムエル記上28章20~25節
〔新共同訳〕
【サウル、口寄せの女を訪れる】(4)
20サウルはたちまち地面に倒れ伏してしまった。サムエルの言葉におびえたからである。また彼はこの日、何も食べていなかったため、力が尽きていたのである。
21その女はサウルに近づき、サウルがおびえきっているのを見て、言った。
「はしためはあなたの声に聞き従いました。命をかけて、あなたが言った言葉に聞き従ったのです。
22今度は、あなたがはしための声に聞き従ってください。ささやかな食事をあなたに差し上げますから、それを召し上がり、力をつけてお帰りください。」
23サウルは拒み、食べたくないと言った。しかし、家臣もその女も強く勧めたので、彼らの勧めに従い、地面から起き上がって、床の上に座った。
24女の家には肥えた子牛がいたので急いで屠り、小麦粉を取ってこね、種なしパンを焼いた。
25女が、サウルと家臣にそれを差し出すと、彼らは食べて、その夜のうちに立ち去った。
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(聖句雑感)
サウルのショックはいかほどだろか。
これまで彼を支えていた「気力」も
彼の「絶望」にはかなわない。
「肥えた小牛と種無しパン」
主を礼拝しているかのようです。
エン・ドルの霊媒師の女。
通常は 悪霊とおつきあいしている人。
されど、今回は、「主」の働きに用いられた。
一時であろうけれど、
「主」がおくられた「霊」と交わる。
それは、「潔め」にも似ているように思えます。
彼女は、サウルによって
貴重な体験をしたのかもしれません。
そんなこと思いました。
神の油そそがれた人へ
持てるものを差し出す。
「恵み」だと思いました。
そして、彼女は、彼らの「最後」を知っています。
命の尽きる前に 食事を提供した。
なんだか、
十字架にかかる前のイエスさまを思い出します。
種無しパンを裂きました。
「命のパン」であると弟子たちに与えました。
そんなこと思い出しました。
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解説を見てみました。
■新実用聖書注解464p
余りの恐ろしさと心身の消耗のため、サウルはその場に倒れ、完全に伸びてしまった(20)。それには、昼夜全然食事もとらずに来ていたこともあった。
霊媒の女は、神に背き、神から最も遠い存在であった(21-22)。彼女及び2人の部下の強い勧めにより、やっとのことで気を取り直したサウルは、女の用意した精一杯の御馳走に手をつけ、その夜、希望の少しも見えない戦場へ戻って行った(23-25)。
■牧師の書斎(web)
リンク☞位打ちされ、ノックアウトされたサウル - 牧師の書斎 (meigata-bokushin.secret.jp)
はじめに
- 「位打ち」ということばがあります。力量のない人がトップに立った結果、その地位そのものがその人を打ってくると意味です。サウル王はペリシテ人との戦いのために、イスラエルの人々が求め、そして神がその求めを許容されて選ばれた王でした。しかしその終わりはまことに惨めな姿をさらしています。
- 王とならなければ、そんな惨めな生涯を送ることはなかったのかもしれません。神の代理者という普通の世俗の王とは異なるあり方が厳しく問われました。そのあり方とは「主の御声に聞き従う」ということです。サウルはこのあり方に合格することができませんでした。「位打ち」された気の毒な王でした。
1. はじめて「主に伺った」サウル
- 本格的なペリシテ人との戦いを余儀なくされ、そのためにサウルはイスラエルを集結させて陣を張りました。しかし、敵の軍勢を目の当たりにしたサウルは「恐れ、その心はひどくわなないた」とあります。その時、サウルははじめて主に伺いを立てました(28:6)。サウルの生涯で「主に伺った」とあるのは、後にも先にもここだけです。しかし主からの答えはありませんでした。
- そのために、彼は女の霊媒師のところへ赴き、サムエルを呼び出させます。呼び出されたサムエルはサウルに対して言ったことは、「あなたは主の御声に聞き従わず・・」と指摘されます。この指摘は、すでにサムエルが15章22節で語ったことばー「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。・・あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」と同様でした。
- 「踏んだり、蹴ったり」とはこのことです。ますます悪いことになっていきます。そもそも「サウル」という名前の語源は「シャーアル」(שָׁאַל)で、「尋ねる、求める、頼む」という意味です。そうした意味を持った名前が「サウル」(原語では「シャーウール」(שָׁאוּל)でした。「サウルが主に伺った」という原文には「シャーアル」と「シャーウール」が並んでいます。まことに皮肉ですが、はじめてサウルが自分の名前の如く「主の御旨を尋ね求めた」のですが、なんの答えもなかったのです。そのために占い師によってサムエルを呼び出しましたが、そのサムエルから「なぜ私に尋ねる(シャーアル)のか」と言われ、「もう主はあなたを離れた」と言われてしまったのです。さらに皮肉なことに、サウルが死んだあと、ダビデがしたことはなんと「主に伺った」ことでした(Ⅱサムエル2:1)。ダビデは、本来サウルがしなければならなかったことをした人物としてここに描かれています。「主に伺う」―これこそ、他国の専制君主とは一線を帰すイスラエルの王制の理念です。
2. ノックアウトされたサウル
- 20節以降には、ショックのあまり、生きる意欲を失ったサウルが描かれています。聖書はその様子を「突然、倒れて地上に棒のようになった」と記しています。原文では「彼の背丈いっぱいに倒れた」となっています。面白い表現です。おそらくボクシングなどでノックアウトされて倒れて伸びてしまった姿を思い起こさせます。
- このときサウルは完全にノックアウトされたのです。食欲もなく、すっかりおびえきっているサウルの姿が見えます。王がこのような状態では戦うことは出来ません。かといって、代わりに先頭に立って戦う王も他にはいません。まことに霊媒する女さえもが、サウルのことを気の毒に思い、食事を賄ってあげたほどでした。
おわりに
- 28章から教えられることは、「主の御声を聞く」という姿勢の大切さです。これは優しいようでとても難しいことなのです。日々の雑用で忙しいと理由をいくら並べて誰かから同情されたとしても、主は同情してくれるでしょうか。
- 主イエスはマリヤが選んだ姿勢を「良い方を選んだ」とマルタに言いました。それはイエスの生き方そのものでした。たとえ同情されたとしても、神とのかかわりが建て上げられることはありません。むしろ、このことが建て上げられなければすべてを失っていくという現実も有りうるのです。日々の生活をよりシンプルにして、主の前に静まり、主の御声を聞くというライフスタイルを築いていく必要があるのです。
2012.7.6
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■clay解説全文
サウルの最後の食事
おびえながらの食事
サムエルから恐ろしい託宣を受けたサウルは、その場に倒れます。「倒れて地上に棒のようになった」とありますが、長身のサウルが完全に伸びてしまった様子が目に見えるようです。
(1)サウルが倒れたのは、その託宣によって恐怖を感じたからですが、それだけではありません。彼は、まる1日、何の食事もしていなかったのです。
(2)霊媒の女は、サウルを部屋に残して去っていたようですが、再びそこに戻って来て、サウルが非常におびえているのを発見します。
(3)女は、押し問答の末に、サウルに食事を食べることに同意させます。彼女が食事を用意した理由は、サウルの哀れな姿を見てかわいそうに思ったからですが、それだけではありません。食事を与えてサウルを元気づけることは、彼女自身のためでもありました。もしサウルが彼女の家で死んだとなれば、大変なことになります。彼女は、霊媒をしたことを追求され、死刑になってしまうでしょう。
(4)彼女は、かなり豪華な食事を用意しています。サウルとその家来たちはそれを食べ、肉体的な力を得てから戦場へ戻って行きました。
私たちへの教訓
サウルの態度から、教訓を学びましょう。絶望的な託宣を聞いて、サウルは大きな衝撃を感じました。しかし、彼は悔い改めることも、神のあわれみを求めることも、また、犠牲のいけにえを捧げることもしていません。さらに、自分とともに死ぬことになる息子たちのことや、ペリシテ人に征服されることになる民のことは、気にかけていません。サウルは最後まで利己的な人物だったようです。
神は、どんな罪人の祈りでも聞いてくださいます。
イエスに赦しを求めた十字架上の罪人のことを思い出しましょう。
神のあわれみにすがりましょう。
熱心に悔い改めましょう。
愛と恵みに富んだ神は、必ずその祈りを聞いてくださいます。
「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇51:17)。
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きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。どうか罪人の私をあわれんでください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
列王記第一7~8、箴言22
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2024年6月23日(日)☀33℃
昨日の土曜日、
朝早くからの「お葬式」でした。
小さな「お葬式」です。
午前7時15分集合、でした。
8年間寝たきりだった「従妹」。
がんばったと思います。
亡くなったという知らせは、
その前の日曜の夜でした。
「火葬場」が空かないとのことで、
その遺体は約1週間の保管となったそうです。
(これもご時世?なのでしょか)
棺の中に納められた従妹のお顔は
それでも
生きているかのように綺麗でした。
いざ”出棺”となると
なにかしらとても淋しいものを感じました。
肉体が無くなる、ということ。
言いようなく、
物悲しさを感じてしまいました。
仏式の小さなお葬式でしたけど、
親類縁者だけのお葬式。
とてもいいなぁ、と思いました。
(もちろん”お焼香”は致しません。
献花とお祈りのみをさせて頂きました。)
久しぶりに見るお顔たち。
一つの「死」によって
一つの場所に集められ
普段は別々に生きていても
それぞれの「命」を
確認しあうかのようにも感じます。
幸い、午後の「礼拝」には影響せず、
今週もまた
土曜日の礼拝に集うことができました。
感謝でした。
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さて、Ⅰサムエル記28章です。
clayさんの解説によりますと、
女霊媒師は自己保身のために
サウル王に食事を与えた、のですね。
精一杯のおもてなし、
小牛と種無しパン。
サウル王と2人の従者は
それらを食べてその日のうちに
彼女の家を後にしました。
希望のない戦場に向かった、とあります。
これもまた悲しく切ないことです。
でも、
「食べる」ということ。
「食事」を振舞う、ということ。
とても大切なことなのだと思えます。
わたしも
喜んで食事を振舞える者になれたら、と
思いました。
ハレルヤ
尊き主イエスの御名によりて
常に喜び絶えず祈り
凡てのこと感謝できますように。
アーメン