サム上29章①1~5【しんがりの奇妙な一隊】…「このヘブル人はだれか?」…板挟みからの解放 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

サムエル記上29章1~5節

〔新共同訳〕

ダビデ、ペリシテ軍から離脱する】(1)

1ペリシテ人は、その軍勢をすべてアフェクに集結させた。イスラエル軍は、イズレエルにある一つの泉の傍らに陣を敷いた。 

 

2ペリシテの武将たちはおのおの百人隊、千人隊を率いて進み、ダビデとその兵はアキシュと共にしんがりを進んだ。 

 

3ペリシテの武将たちは尋ねた。

「このヘブライ人らは何者だ。」

 

アキシュがペリシテの武将たちに答えた。

イスラエルの王サウルの僕であったダビデだ。彼はこの一、二年、わたしのもとにいるが、身を寄せて来たときから今日まで、わたしは彼に何の欠点も見いだせない。」 

 

4だが、ペリシテの武将たちはいらだってアキシュに言った。

 

この男は帰らせるべきだ。彼をもともと配置した所に戻せ。我々と共に戦いに向かわせるな戦いの最中に裏切られてはならない

 

この男が元の主人に再び迎え入れられるには、ここにいる兵士たちの首を差し出すだけで十分ではないか。 

 

5『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と人々が歌い踊ったあのダビデではないか。」

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(聖句雑感)

ペリシテの武将たちの言い分はもっともです。

敵方の元武将を抱え込んでの戦闘は高リスク。

 

「この男は帰らせるべきだ」

「我々と共に戦いに向かわせるな」

「戦いの最中に裏切られてはならない」

ほんとうに、ごもっとも!

 

ガテの王、アキシュさん、

すっかり「ダビデ」フアンです。

「ダビデ」の魅力は相当なもののよう。

 

ここまで「アキシュ」の懐に入り込んだダビデさん。

やっぱり凄い人なのだなぁ、と感心してしまいます。

 

アフェク

※新聖書辞典56p※

パレスチナ中西部の町

ヨッパ(旧約のヤフォ、現在のテル・アビブ)の東北東約18kの地点にあって、ヤルコン川の源流に近く、エジプトとフェニキヤを結ぶ街道に面していた(ヨシ12:18)

 

新約ではアンテパトリスと呼ばれ(参照 使徒23:31)、ギリシヤ名ペガイ(「泉」という意味)を与えられた現在のラース・エル・アインと同定される。

 

ペリシテ人はここに陣を敷き、エベン・エゼルに結集したイスラエル人に攻撃をしかけた(Ⅰサム4:1,29:1)。アッシリヤ王エサル・ハドンの碑文に「サマリヤのアフェク」と言及されるのは、この地であろう。

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解説を見てみました。

 

新実用聖書注解464-465p

1節の《アフェク》が4:1のアフェクと同一だとするなら、この29章全体の出来事はペリシテ軍がシュネムに到着する以前の話と見なければならないと思われる(参照 28:4)。なぜなら、アフェクはペリシテの都市ガテやエクロンからシュネムに至る途中の場所だからである。

 

ペリシテ連合軍のしんがりに、奇妙な一隊がついて来たので、ペリシテの首長たちは、その一隊を率いているアキシュに、《このヘブル人は何者ですか(3)と質問した(2-3)それがイスラエルの王サウルの家来ダビデとその部下たちであると聞いて、彼らはアキシュに対しいらだちを覚えた

 

人のいいアキシュは、ダビデを信用し何の疑念も抱かなかったが、他の首長たちはそうはいかなかった。これまでイスラエルの裏切りも経験してきたし(参照 14:21)、いつもダビデと交際していたわけではなかったので、彼に対して当然の疑惑を感じたし、また、それは当を得ていたと言うことが出来る。

 

彼らのほうがもっと客観的な判断をすることが出来たのである

 

ペリシテ軍に手痛い敗北を被らせ、歌にまでなった、サウルに勝るイスラエルの勇将を、ここで連れて行くほどの危険はほかにない」という思いを、ペリシテの首長たちは抱いたようである。

BIBLEnavi270p

神は司令官たちの疑いを用いて、ダビデがサウルやその軍隊と戦う必要がないよう守られた

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clay解説全文

拒否されたダビデ

このヘブル人はだれか?

話は再び、ダビデに戻ります。きょうの箇所は、サムエル記第一28:2に続くものです。

 

(1)ペリシテ人は、アフェクに全軍を召集し、イスラエル人はイズレエルにある泉のほとりに陣を敷きました。

 

(2)ペリシテ人の軍勢は、5大都市国家の連合軍から成っていました。各都市には首長(王)がいて、その首長たちが自軍を率いて行進をしていました。

 

(3)5人の首長のひとりがガテのアキシュですが、アキシュの軍勢の最後にダビデとその部下とが付き従っていました

 

(4)それを見た他の首長たちは、「このヘブル人は何者ですか」と質問します。「ヘブル人」ということばは、異邦人がイスラエル人を指す場合によく使ったことばです。

 

(5)アキシュは、「確かにこれは、イスラエルの王サウルの家来ダビデであるが、この1、2年、私のところにいて、‥‥今日まで、私は彼に何のあやまちも見つけなかった」と弁解しています。ダビデがアキシュとともにいたのは、1年4ヶ月で、2年にはなっていません。アキシュは、説得力を増すために誇張して言っているのです。アキシュのことばから、ダビデがいかに巧妙に振る舞っていたかがわかります

 

首長たちの反対

4人の首長たちは、アキシュのことばを聞いて、猛反対します彼らは、ダビデが戦いの最中に寝返って戦功を立て、それによって主君サウルと和解する可能性があると判断したのです

 

確かに、ダビデにはイスラエル人と戦うつもりはありませんでした。むしろ、いつこの状況からのがれられるだろうかと、思案していたのです。


この状況から、教訓を学びましょう。

(1)ダビデは約束の地から離れたために、自分を危険な場所に置いてしまったのです。ここでは、ダビデは人を恐れ過ぎているように感じます。ダビデは、大きな罪を犯す寸前のところまで行っていました

 

(2)ペリシテ人の4人の首長たちは、ダビデの敵でありながら、ダビデの親友のような祝福をもたらしています。ダビデを、板挟みの状態から解放したのです。

 

(3)この出来事の背後には、主の御手があります

 

主は敵の手を通して、ダビデを解放したのです

 

日々の生活の中で、主の御手を見ることのできる人は幸いです

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きょうの祈り

全知全能の神よ。きょうも私の盾となり、とりでとなって、私を守ってください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

列王記第一9~10、使徒の働き17

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2024年6月23日(日)☀31℃

 

よいお天気です。

梅雨明け直後の晴天の気持ちよさ。

 

いっぱい洗濯させて頂きました。

掛け布団とシーツ、枕。タオル。

普段着と外出着。

掛け布団のみはお外で天干しデス。

 

南国の午後3時後は湿気のぶり返し。

早めにとりこまなくちゃいけません。

ここは何しろ東向き。

 

猫ちゃんの3カ月検診も終り、

ヤレヤレでありました。

猫ちゃん現状維持で元気です。

感謝。

(^.^)

 

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今日のclayさんの解説。

「主は敵の手を通してダビデを解放した」とありました。敵将たちのダビデに対する疑念がかえって窮地のダビデを救った。

 

「約束の地」を離れざるを得なかったダビデの心境も理解できます。「窮地」のとき、どこまで「信仰」を働かせることができるものなのでしょう。

 

サウル王もそうでした。

もう少し「待つ」ということができていれば、

欲を出さず徹底的な「聖絶」をおこなっていれば、

タラレバの世界ですが、悔やまれるところです。

 

窮するときも、好調なときも

「信仰を働かせる」ことの難しさ?

 

「我常に我が前に主を置けり」

と詩篇を書いたダビデさんさえも

自分の思いのみで動いてしまう時がある。

 

聖書に登場する人物たちは

ことごとく

「失敗」をしてくれています。

後世の私たちを教えてくれています。

 

いついかなるときも

「主をおそれる」者でありたいと

願うところです。

 

ハレルヤ

尊き主イエスの御名により

常に喜び絶えず祈り

凡てのこと感謝できますように。

アーメン