サムエル記上25章9~13節
〔新共同訳〕
【サムエルの死】(2)
9ダビデの従者は到着すると、教えられたとおりダビデの名によってナバルに告げ、答えを待った。
10ナバルはダビデの部下に答えて言った。
「ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。
11わたしのパン、わたしの水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか。」
12ダビデの従者は道を引き返して帰り着くと、言われたままをダビデに報告した。
13ダビデは兵に、「各自、剣を帯びよ」と命じ、おのおの剣を帯び、ダビデも剣を帯びた。四百人ほどがダビデに従って進み、二百人は荷物のところにとどまった。
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(聖句雑感)
「わたしのパン、わたしの水」!
そうなんですよね。
みな、
「わたしのパン、わたしの水」なんです。
生きてきた年月、
今「わたし」が手にしているものはみな
「わたしのもの」なのだと人は思う。
けれど、神さまはおっしゃっている。
イザヤ66:1
天はわが位、地はわが足台なり。
イザヤ45:12
大地を造り、その上に人間を創造したのはわたし。自分の手で天を広げ、その万象を指揮するもの。
詩篇24:1
地とそこに満ちるもの
世界とそこに住むものはみな主のもの。
「自分のもの」「わたしのもの」と思っているもの、それはすべて、実は、「主のもの」。実際には、わたしたちは、主のものを頂き、使用させて頂いているに過ぎない。実は、主によって養われている私たち。
「わたしのパン、わたしの水」と
思っているものも実はみな、
万物の支配者たる主の御意によっては、
「災いのパンと苦しみの水」(イザヤ30:20)となってしまう。
そんなことを思いました。
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解説を見てみました。
■新実用聖書注解461p
(ナバルが刈り取りの祝いをしていることを聞いたダビデは、直ちに10人の若者を使者として遣わし、これまでナバルの群れを守るために労した自分たちに祝儀をお願い出来ないかと申し入れた)
それに対しナバルは、口汚くダビデを侮辱し、何も与えないで使者たちを追い返した(9-11)。これまで、ゴリヤテを倒した名声を初め、多くのよい噂はナバルにも届いていたはずであり、自分の家畜の群れがダビデとその部下によって略奪から守られていることも知らないはずはなかったのに、ナバルはあえてダビデを脱走奴隷呼ばわりし、吝嗇(リンショク)にもダビデたちの労に少しも報いようとしなかったのである。その報告を受けたダビデは激怒し、直ちに4百人の部下を連れてナバルを攻撃しようと出発した(12-13)。
■BIBLEnavi268p
ナバルは、兵士600名に食糧を与えてほしいというダビデの依頼を荒々しくはねのけた。ナバルに同情するなら、それは現在の習慣が全く違うためである。まず、単純なもてなしの作法では旅人には---たとえ何人いても---食事を与えなければならなかった。ナバルは非常に裕福であり、ダビデの願いをかなえることはたやすっかっただろう。第2に、ダビデは施しを求めていたわけではない。彼と部下たちは、ナバルの働き手を保護した。従って、ナバルが得た富の一部は、ダビデの警護によるものであった。
私たちを保護し、繁栄するよう助けてくれる人たちには、たとえ法律や習慣で強制されていなくとも気前よくすべきである。
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■clay解説全文
ダビデへの侮辱
ダビデからの伝言
ダビデの若者たちは、ダビデから言われたとおりのことをナバルに伝えました。
ダビデの部下たちは、ひもじい状態の中でもナバルの羊飼いたちを攻撃したり、物を盗んだりすることはありませんでした。それどころか、彼らを外敵から守っていたのです。
もしナバルが道理のわかる人間であるなら、ダビデの苦境を察知して、必要以上のものを差し出していたはずです。しかし、ナバルは愚か者であり、そうはしませんでした。
(1)ナバルはダビデについて、良いうわさを聞いていたはずです。それにもかかわらず、彼はダビデを侮辱しました。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ」。
(2)さらにナバルは、ダビデの部下を辱めました。「このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている」という言葉はダビデにはあてはまりませんでしたが、ダビデの部下の中にはそのような者が多くいました。
(3)ナバルは申し出を断わっただけではありません。彼は、ダビデとその部下たちを侮辱して追い返したのです。ここに彼の愚かさがあります。
彼は、「私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか」と、大口をたたきました。
ダビデの怒り
若者たちの報告を受けたダビデは激怒し、ただちにナバルの討伐に立ち上がります。彼は、200人を本営の守りのために後に残し、400人を連れて出陣します。ナバルの滅亡は、もはや時間の問題です。
なぜナバルは、自らの身に滅びを招くようなことをしたのでしょうか。
すでに確認したように、彼には主への恐れがありませんでした。また、自分の持ち物は自分の自由に処分できると考えていたのです。
クリスチャンにとっては、地上の富は神からゆだねられたものです。
良き管理者として、富を神の国のために用いる責任があります。
富はナバルを盲目にしました。
いくら富を蓄積しても、その用い方を知らないなら、貧しい時よりも不幸になります。
私たちの回りには、現代のナバルがたくさんいるのではないでしょうか。
もう一度、自分と富の関係について黙想してみましょう。
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きょうの祈り
天地創造の神よ。私が持っているものは、すべてあなたからいただいたものです。どうか、良き管理者として地上の富を運用させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
サムエル記第二5~6、使徒の働き7
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2024年6月5日(水)☀26℃
気持ちよいほどの晴天。
(^.^)
今日の「聖句雑感」でイザヤ書のみ言葉を思い出し、開いたところでまた御言葉を頂くことができたように思い、感謝です。
イザヤ書30:15
まことに、イスラエルの聖なる方
わが主なる神は、こう言われた。
「お前たちは、立ち帰って
静かにしているならば救われる。
安らかに信頼していることにこそ力がある」と。
この章のタイトルは「エジプトとの同盟」とあります。当時の歴史的背景には、アッシリヤのセナケリブ王のユダへの攻勢があったようです。より力の強い者へ頼ろうとするのはいつの世も変わらない人心。
主への信頼によって安んじていろ、と
主御自身がお勧めしてくださっている。
「安らかに信頼していることにこそ力がある」
この御言葉は、
ピリピ4:13に共通するものを感じます。
「我を強くし給う者によりて
すべてのことをなしうるなり」
(新共同訳)
「わたしを強めてくださる方のお陰で、
わたしにはすべてが可能です」
そしてさらに
コロサイ3:17の御言葉に通ずるものを感じます。
「何を話すにせよ、行うにせよ、
すべてを主イエスの名によって行い、
イエスによって、父である神に感謝しなさい。」
そしてそれは、さらに
詩篇16:8のダビデ王の告白に通ずるものを感じます。
「われ常に主をわが前におけり
主わが右にいませば
われ動かさるることなかるべし」
主への信頼、
これを勝ち取り養うべく日々の日常を歩みたし。
ハレルヤ
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今回のお勧め。
「用い方を知らない富の蓄積」
これは、「貧しさ」よりも「不幸」だと。
「お金」崇拝の世です。
たしかに、なにもかも「お金」で動きます。
「お金」で「寝て、食べて」を繰り返す人生です。
人生の基本的な生活は「お金」が保障する。
「お金」「お金」「お金」「お金」!
「お金」!「お金」!
そうなんです。「お金」!
人は「お金」で何がしたいのでしょう…。
「お金」で出来ることすべてを欲しがるのでしょうか。
あるいはそうかもしれない。
そういう方は気づくときはあるのだろうか。
「お金」では解決できない問題があるとしたら、
どうするのだろうか。
地上の富を全部握りしめて
やがて「死」をむかえるとき
その方は 何を思うのだろう。
ある意味、極めた人生で
凡人にはわからぬ境地をお持ちになれることだろう。
「お金」は 必要なものです。
「生きる」に欠かせないもの。
そのシステムで世は回っている。
「天はわが位、地は我が足台」と
おっしゃってくださる方は
主に信頼する者に約束してくださっている。
あなたがの必要は
あなたがたが願わぬ先より
にわたしは知っている、と。
マタイ6:31-32
だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。
ハレルヤ
尊き主イエスの御名により
常に喜び絶えず祈り
凡てのこと感謝できますように。
アーメン
