サムエル記上24章8~16節
〔新共同訳〕
【エン・ゲディにおけるダビデとサウル】(2)
8ダビデはこう言って兵を説得し、サウルを襲うことを許さなかった。サウルは洞窟を出て先に進んだ。
9ダビデも続いて洞窟を出ると、サウルの背後から声をかけた。「わが主君、王よ。」サウルが振り返ると、ダビデは顔を地に伏せ、礼をして、10サウルに言った。
「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。 11今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。そのとき、あなたを殺せと言う者もいましたが、あなたをかばって、『わたしの主人に手をかけることはしない。主が油を注がれた方だ』と言い聞かせました。
12わが父よ、
よく御覧ください。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。
御覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした。それにもかかわらず、あなたはわたしの命を奪おうと追い回されるのです。
13主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。
14古いことわざに、『悪は悪人から出る』と言います。わたしは手を下しません。
15イスラエルの王は、誰を追って出て来られたのでしょう。あなたは誰を追跡されるのですか。死んだ犬、一匹の蚤ではありませんか。
16主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように。」
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(聖句雑感)
自分と敵対している者、
自分を憎んでいる者、
自分を殺そうとしている者、
たとえそれが「王」であったとしても
そのような人の前で
「顔を地に伏せ、礼をして」話すこと、
そんなこと容易にはできないことのような気がします。
ダビデさんは、なぜ、
わざわざ危険をおかしてまで
サウル王の前に姿をあらわしたのだろう。
ヘタをすれば、命がけの訴えです。
印象深い言葉です。
「主があなたとわたしの間を裁き、
わたしのために主があなたに報復されますように。」
「主が裁き手となって、
わたしとあなたの間を裁き、
わたしの訴えを弁護し、
あなたの手からわたしを救ってくださいますように。」
「復讐するは我にあり」とは主の言葉。
実際の世界の史実の多くには、
「謀反」の歴史が並べられる。
「王朝」は争いの果てにできあがる。
そう考えると、
日本の「王朝」はただ一系を2千年以上も続けていることになり、これだけをもってしても希少ものだな、と思えてきます。
日本の王朝とて「争い」がなかったとは言えないけれど、されど、一つの「血統」が続いているということが驚きなのです。
さて、日本はこれを守っていけるのかしら?やがて必ず終りがくるのかしら?…そんなこと思いました。
ダビデさんは、
「わたしとあなたの間」を主の裁きにゆだねる。
それぞれがそれぞれに主に訴え、主のさばきを待ち受け入れる、そんな信仰の高嶺の内にある人の心は、どれほどの平安が保証されてあるのだろう。そんなこと思いました。
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解説を見てみました。
■新実用聖書注解460p
サウルの後からダビデも洞穴を出て、いきなり呼びかけ、謙遜に臣下としてひれ伏した(8)。更に証拠としての上着の裾を示しながら、自分には反逆心が全くないことを弁明した(9-11)。復讐やさばきについて、ダビデはもはや、主の御手にそれらを全くゆだねたのである(12,ロマ12:19)。ダビデは、自分を卑下して《死んだ犬》《一匹の蚤》(14)と呼び、サウルの追跡にも値しない存在である、と主張している。
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■clay解説全文
ダビデの弁明
ひれ伏すダビデ
サウルがほら穴から出てから、ダビデもそこを出て、うしろからサウルに呼びかけます。ダビデは「王よ」と呼びかけ、謙遜に臣下として地にひれ伏しています。ダビデは依然としてサウルをイスラエルの王と認めていたのです。そしてダビデは、感動的な弁明をサウルの前に展開します。以下、その弁明の内容です。
(1)ダビデは、自分には反逆心が全くないと弁明します。ダビデがサウルを殺そうとしているというのは全くのうわさだというのです。(2)ついいましがた、ダビデにはサウルを殺す機会が与えられたのですが、彼はそうはしませんでした。それどころか、サウルを殺そうと主張する部下たちを説き伏せました。
(3)ダビデは証拠として上着のすそをサウルに示しながら、自分には殺意がないことを証明します。
(4)そして、反逆の意思も殺意もない自分をなぜサウルはつけねらうのかと問いかけます。
主が裁かれるように
次にダビデは、主の介入と助けを求めています。
(1)ダビデは、主が自分とサウルの間に立って、どちらに否があるかを判定してくださるようにと願っています。また、もしサウルがなおもダビデを追いかけて来るなら、主がサウルを裁かれますようにと願っています。
(2)ダビデは昔から知られている格言を引用しています。『悪は悪者から出る』。その意味は、もしダビデが悪者であるなら、サウルを殺していたはずである。そうはしなかったのだから、ダビデが悪者ではないことが証明されたということです。
(3)最後にダビデは、自分を卑下して「死んだ犬」、「1匹の蚤」と呼んでいます。つまり、サウルの追跡にも値しない存在であるというのです。
ダビデの姿勢は一貫しています。
彼は、裁きは主にゆだね、自分に関しては「悪に悪を報いない」ということを生活の原則にしていたのです。
使徒パウロは、次のように命じていますが、これはダビデの生き方そのものでした。
「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい」(ローマ12:17)。
私たちも、裁きは主にゆだね、悪に善を報いるような生活を志そうではありませんか。
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きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。私の役目は、すべての人が良いと思うことを図ることです。どうか私の判断力と行動力とを高めてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
サムエル記第一30~31、使徒の働き6
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2024年6月4日(火)☀26℃
晴天です。
湿度は低く過ごしやすいです。
梅雨の晴れ間も気持ちのよいものです。
以前に在東京の姉妹から葉書を頂きました。
その内の一枚が、私の常用の聖書に挟まれていました。
何気に目を落とした先には「聖句」がありました。
我を強くし給う者によりて
すべてのことをなしうるなり。
---ピリピ4:13---
その日から、この「言葉」を繰り返し、繰り返し 口にするようになりました。そしてこの御言葉から実際に「励み」を頂いています。以前はそうではありませんでした。「頭でっかち」でした。だから、よけいに不思議です。
今回のお勧めの
「主にゆだねる」ということが、ほんとうに肉となり骨となり血となるとき、信仰によって歩む人生の奥深さを味わい知れるのかもしれません。そんなこと思いました。
ハレルヤ
主イエスの御名により
常に喜び絶えず祈り
凡てのこと感謝できますように。
アーメン