サム上24章①1~7【山羊の岩の洞窟】…悪に悪を報いるようなことはせず、むしろ悪に善を報いる | 聖書と私とコーヒーと+ワン

聖書と私とコーヒーと+ワン

~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

サムエル記上24章1~7節

〔新共同訳〕

エン・ゲディにおけるダビデとサウル】(1)

1ダビデはそこから上って行って、エン・ゲディの要害にとどまった。 

 

2ペリシテ人を追い払って帰還したサウルに、「ダビデはエン・ゲディの荒れ野にいる」と伝える者があった。 

 

3サウルはイスラエルの全軍からえりすぐった三千の兵を率い、ダビデとその兵を追って「山羊の岩」の付近に向かった。 

 

4途中、羊の囲い場の辺りにさしかかると、そこに洞窟があったので、サウルは用を足すために入ったが、その奥にはダビデとその兵たちが座っていた。 

 

5ダビデの兵は言った

主があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と約束されたのは、この時のことです。」

 

ダビデは立って行き、サウルの上着の端をひそかに切り取った6しかしダビデは、サウルの上着の端を切ったことを後悔し、 7兵に言った

 

わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない彼は主が油を注がれた方なのだ。」

*********************************

(聖句雑感)

「山羊の岩の洞窟」

まるで、映画のワンシーンのようです。

息詰まる展開です。

 

ダビデさんに絶好の機会がおとずれた。

警護もなく無防備なサウル王を一発で仕留めることもできる。

されど、ダビデさんは「サウルの上着の端をひそかに切り取った」だけで、さらにすぐに後悔の弁を開く。

 

「主が油注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。」

 

ダビデさん自身もサムエルさんからすでに主の油注ぎを受けています。主から油を注がれるということがどういうことなのか、彼自身が重々承知していることなのでしょう。

 

「神を恐れ、敬う」ということがどういうことか、この時のダビデさんの行いと発言によって学びます。

 

それとも、この「機会」は、ある意味、神さまからのダビデさんへの「試し」だったのでしょうか??このときの選択によっては、ダビデさんへの後の「祝福」に大きく影響したのでしょうか??

 

そんなこと思いました。

 

ダビデさんに付き従う兵士たちは

「山羊の岩の洞窟」でみせたダビデさんの姿に何を見たのでしょう。

 

**********************************

解説を見てみました。

 

新実用聖書注解460p

 サウルはペリシテ人を打った後、ダビデが死海西岸のエン・ゲディの荒野にいるというニュースを聞いて、直ちに3千人の精兵を率いて、再びダビデ追跡に向かった(1-2)目指す地点に着き、用を足したくなったサウルは、ただひとり、近所の洞穴に入って行ったが、その奥には、ちょうどダビデとその部下たちが隠れていた(3)

 

「またとない機会を主が与えてくださったのだから、王の命を奪うように」と部下は勧め、ダビデも多少その気になってひそかに近付いたが、サウル王の上着の裾を切るだけにとどめた(4)そして、直ちに、その行動を恥じ、良心の呵責を覚えた(5)

 

主が油注がれた王に対し、少しでも殺意に似たものを覚えたことを悔い改めたダビデは、部下をも説き伏せ(6)《サウルに襲いかかるのを許さなかった》(7)

BIBLEnavi267p

 ダビデと600人の兵士たちは、エン・ゲディの荒野に良い隠れ場所を見つけた。そこには多くの洞穴があったためである。洞穴は現地住民の住居、墓穴として使用されていた。ダビデの兵士たちにとって、そこは避難所であった。これらの洞穴は現在でも見ることができる。中には、数千の人々を避難させることができるほど大きな洞穴もあった。

 

 聖書には、神がダビデにも兵士たちにもそのように語られた記録は一切残っていない。

 

(-----ダビデの兵は言った。主があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と約束されたのは、この時のことです。-----)

 

 部下たちはおそらく、ダビデが油を注がれたこと(16:13)やヨナタンが次に王位を継ぐのはダビデだと予告していたこと(23:17)などを、自分たちなりに解釈していたのだろう。ダビデの兵士たち洞穴に入るサウルの姿を見たとき、神が自分たちに行動を起こせと言われているのだと思い違いをした

 

 サウルから命を狙われていたにもかかわらず、ダビデはサウルを非常に尊敬していた。サウルは罪を犯し神に逆らい続けていたが、ダビデは神の油注がれた王としてのサウルの立場を尊重したのである。ダビデはいつか自分が王になることを知っていたが、神が王座につけた人物を打倒することが正しくないことも知っていたサウルを暗殺していたら、ダビデは自身が作った先例にならって政敵に殺される破目になったことだろう

 

 ローマ13:1-7には、神が政府とその指導者を置かれたことを教えている。私たちには理由がわからないが、ダビデのように、神が権威を与えた人々の地位や役割を尊重すべきである。ただし例外が1つある神は私たちにとって最高の権威であるから、指導者が私たちに神のおきてを破るよう圧力をかけることを許してはならない

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

clay解説全文

サウルのいのちを救うダビデ

エン・ゲディにて

エン・ゲディの荒野は死海西岸にありますが、滝から流れ落ちる水が豊富にあるため、逃亡者が身を隠して暮らすには最適な環境となっています。ダビデはおよそ600人の部下を連れて、そこに身を隠します。


(1)ペリシテ人討伐から帰還したサウルは、ダビデがエン・ゲディの荒野にいるというニュースを聞いて、3,000人の精兵を率いてそこに向かいます。600人を討つためにその数倍の兵士が動員されたのです。

 

(2)エン・ゲディに着いたサウルは、用を足したくなってひとりでほら穴に入って行きます。この洞窟は、夜間に羊の群を入れておくためのものです

 

(3)ダビデの部下たちは、付近一帯のほら穴に分散して隠れていましたサウルが入って行ったほら穴は、ダビデとその部下数人が隠れていたものでした。彼らは一番奥のほう、つまり、一番暗いところにいたので、サウルにはその姿が見えませんでした

上着のすそを切る

(1)ダビデの部下たちは、この出来事を、神がサウルをダビデの手に渡したのだと解釈しました彼らはダビデに、サウルを殺害するようにと進言します

 

(2)ダビデは立ち上がり、しゃがんで用をたしているサウルの上着のすそをこっそり切り取りました。これは、殺す機会はあったがそうはしなかったということを証明する証拠となりました

 

(3)その後ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことで心を痛めました。つまり、良心の呵責を覚えたということです。

 

(4)部下たちはなおもサウルを殺すことを主張しましたが、ダビデは彼らを説き伏せ、そうはさせませんでした


ダビデはなぜ良心の痛みを感じたのでしょうか

 

この時点では、サウルは完全に神のみこころから外れたところを歩んでいました。しかし、だからと言って、それが油注ぎを受けて王となっているサウルを殺してもよいという理由にはなりません

 

サウルを裁くのは神ご自身です

 

サウルの上着のすそを切り取る行為は、不遜で無礼な行為です。それで、ダビデは心を痛めたのです

 

ダビデは、悪に悪を報いるようなことはせず、むしろ、悪に善を報いています

 

ダビデのこの姿勢からあなたは何を学びますか

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

きょうの祈り

天の父よ。私もまた、裁きはあなたにゆだね、悪に対して善で報いるような歩みをしたいと願いますどうか私をお助けください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

*-*-*-*-*-*--*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

年間聖書通読

サムエル記第一28~29、使徒の働き5

**************************************

2024年6月2日(日)☔21℃

 

終日雨のようです。

湿気がこもってしまいますが、

気温は低くまぁまぁな過ごしやすさです。

こんな時は猫ちゃんもおとなし目で

助かります。

 

さて、これから外出です。

がんばって出かけてこようと思います。

たったこのことすらも「気力」が必要であります。

だから、感謝して祈って出かけるようにします。

ハレルヤ

 

~~~~~~~~~~~~~~

今回のお勧めにあります

「サウルを裁くのは神ご自身」。

 

これを、当該者たちは、

どの程度信仰をもって見守れることでしょうか。

 

相手は、まさに自分たちを殺そうと息巻いている輩です。

絶好の機会を逃さず相手を倒そうと思うのは当然のことです。

ダビデの部下たちは、この出来事を、神がサウルをダビデの手に渡したのだと解釈しました彼らはダビデに、サウルを殺害するようにと進言します

と解説しています。

 

兵士たちの神のご意志の「解釈」の仕方は、サウル王のそれと似た性質をもっているようにも思えます。自分たちの都合のよいように神の御心を思い込む。そのような思い込みによる「確信」には「危険」が潜んでいるのだと知ります。コワいなぁ。

 

「思い込み」による「確信」。

自分では気づきません。

「確信」の域に入っているのですから。

 

これが「最善」だと「思い込む」。

これを逃れる道はあるものでしょうか。

 

お勧めにあります。

「ダビデのこの姿勢からあなたは何を学びますか」

 

「ダビデの姿勢」。

ゆえに、旧約聖書として「ダビデ物語」が語り綴られているのでしょう。「ダビデ」から学ぶ。

 

神さまが愛した「ダビデ王」。

彼の信仰と預言は、「詩篇」という珠玉の詩に残されて、神の御心を私たちに教えてくれている。感謝です。

 

ハレルヤ

尊き主イエスの御名により

常に喜び絶えず祈り

凡てのこと感謝できますように。

アーメン