サムエル記上23章7~13節
【ケイラとジフにおけるダビデ】(2)
7ダビデがケイラに来たと知らされたサウルは、「神がダビデをわたしの手に渡されたのだ。彼は、扉とかんぬきのある町に入って、自分を閉じ込めてしまったのだ」と言った。
8彼は兵士全員を戦いに向けて召集し、ケイラに下ってダビデとその兵を包囲しようとした。
9ダビデはサウルが自分に危害を加えようと計画しているのを知って、祭司アビアタルに、エフォドを持って来るように頼んだ。
10ダビデは主に尋ねた。
「イスラエルの神、主よ、サウルがケイラに進んで来て、わたしゆえにこの町を滅ぼそうとしていることを僕は確かに知りました。
11ケイラの有力者らは、サウルの手にわたしを引き渡すでしょうか。僕が聞いているように、サウルはケイラに下って来るでしょうか。イスラエルの神、主よ、どうか僕にお示しください。」主は「彼は下って来る」と言われた。
12ダビデが、「ケイラの有力者らは、わたしと兵をサウルの手に引き渡すでしょうか」と尋ねると、主は「引き渡す」と言われた。
13ダビデとその兵およそ六百人は立ち上がって、ケイラを去り、あちこちをさまよった。
サウルはダビデがケイラから避難したと知らされて、出陣するのをやめた。
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(聖句雑感)
おかしな話しです。
サウル王にとっても「ケイラ」の事件は、サウルのための「神の御手」という。
なんだか、ここに
”ご都合主義”の信仰 の見本を見るようです。
サウルさんの「信仰」はすべて
自分の都合を第一として働かせてきました。
自分の都合を「神さま」に押し付けてきたような感じです。
幼児のような信仰にも思えます。
「神さま」は「自分」のためにある…。
それが「信仰」と呼べるかどうか。
神さまの本意を無視っ…ばかりのサウルさんです。
私にはそんな風にうつってしまいます。
サウル王が「ケイラ」にやってくる。
町の長老たちはダビデをサウル王に引き渡す。
そんな「託宣」を聞いたダビデさん、
どんな行動をとるのかなと思いきや、
部下600人を引き連-れて、
あちらこちらと彷徨った、)とあります。
なるほど、即逃げ出した、というわけですね。
部下たちのうちには
「ほれみたことか」と思った者もいたのでしょうか??
「ケイラ」の住人を巻き込むよりも
この地を後にする方を選んだダビデさんでした。
逃亡の果ての放浪生活。
厳しいです。
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解説を見てみました。
■新実用聖書注解459-460p
エブヤタルは逃亡に際し(22:20)、エポデを携えて来た(6)。これを身に着けて、神の御旨を伺うためである。
サウルは、ダビデとその一家がケイラ救出に出陣し、その町にいるというニュースを聞いて、喜んだ(7)。そのほうが荒野よりもずっと攻めやすかったからである。彼はダビデを「袋のねずみ」のように町に閉じ込めて捕らえようと思い、部下を率いてそこに向かおうとした(8)。
一方ダビデは、サウルが噂通り攻めて来るかどうか、またケイラの住民は救いの恩人ダビデを裏切りサウルの手に渡すかどうかについて神の御旨を知ろうとし、祭司エブヤタルを通して、その導きを求めた(9-12)。
悲しいことに、その両者に「その通り」という肯定の答えを得たので、ダビデは、このときにはすでに600人に増えていた部下たちと共にケイラを離れ、《そこここと、さまよった》(13)。
こうして、この時も、そしてその他の時も、ダビデは神の御守りをいただいて、サウルの手を逃れることが出来た(14)。
■BIBLEnavi266-267p
サウルは神がダビデを自分の手にゆだねたと考えた。サウルはダビデを殺したいと願うあまり、この状況によって神が自分の計画を承認されたと解釈したのかもしれない。神をもっと深く知っていたなら、神が求めておられることを理解し、状況を読み間違えて神が殺人を承認されたと思ったりはしなかっただろう。
私たちは何かを欲しがるあまり、それを手に入れるチャンスはすべて神から来るものだと思い込む場合がある。しかし、サウルの場合からわかるように、それが真実ではない可能性がある。
神のご意志に反して何かをするチャンスは、神から決して来ることはない。なぜなら神は私たちを誘惑などなさらないからだ。
目の前にチャンスが来たときは、自分の動機が正しいかどうか十分に確認しよう。
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■clay解説全文
ケイラの住民の裏切り
サウルの誤った霊性
サウルのもとに、ダビデとその軍がケイラに出陣し、その町に留まっているという知らせが届けられます。この情報をもたらしたのは、ケイラの住民か、サウルのスパイでしょう。
(1)その知らせを聞いて、サウルは喜んでいます。サウルは、「神は彼(ダビデ)を私の手に渡された」と叫んでいますが、これは誤った霊性です。サウルは霊的に盲目になっており、何事も自分に都合のよいように解釈してしまうのです。私たちも同じ間違いを犯すことがあります。心したいものです。
(2)サウルの戦略は、ダビデを町に閉じ込めて捕らえるというものでした。
(3)ダビデのもとに、サウルが攻撃の準備をしているという知らせが届けられます。そこでダビデは、再び祭司エブヤタルを通して主の導きを求めます。
主からの答
ダビデは主に対して二つの質問をしています。
(1)ケイラの住民は、恩人であるダビデを裏切り、サウルの手に自分を渡すだろうか。
(2)サウルはうわさどおりにケイラを攻めて来るだろうか。
祭司エブヤタルはウリムとトンミムを使って主からの答を求めました。ウリムとトンミムは、「イエス」か「ノー」かの答しか与えてくれません。そのため、最後の質問に対する答だけしか返ってきていないのです。
サウルが攻めて来るかどうかという問いには、「イエス」という答がありました。そこでダビデは、ケイラの住民が裏切るかどうかという最初の質問を再度しています。それに対する答もまた、「イエス」でした。
主からの回答を得たダビデは、サウルが攻め上って来る前にケイラを離れ、ジフの荒野に向かいます。当時、ダビデの軍勢はおよそ600人になっていました。
岐路に立たされたとき、ダビデは祭司エブヤタルを呼んで、彼が持っていたウリムとトンミムによって主のみこころを確かめました。
私たちには、ウリムとトンミム以上のものが与えられています。
聖書と聖霊の導きがそれです。
私たちも人生の岐路に立たされることがあります。
そのような時、神のみことばである聖書から導きを求めましょう。
心に語りかけてくださる聖霊に信頼しましょう。
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きょうの祈り
天の父よ。どの方向に進むべきか迷ったとき、私に導きを与えてください。聖書が与えられていることと、聖霊が語りかけてくださることを感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
サムエル記第一22~23、使徒の働き2
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2024年6月1日(土)☔23℃
そういえば、
テニスのグランドスラムフレンチOP。
赤土の王者ラファエル・ナダルさんが
1回戦で負けました。
相手は、ズベレフ選手でした。
納得の「敗退」に感じました。
「やりつくした」、
これ以上もこれ以下もない、
というようなそんな気がしました。
事実上の引退試合のような気がしました。
気持ちのよい幕引きだったなぁと思いました。
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「岐路に立たされたとき」
最善の選択ができたらどんなにいいだろう。
「ウリム」と「トンミム」以上のもの。
今の私たちには、
「聖書」と「聖霊」が与えられているとのお勧めです。
「誤った霊性」が「神の御心」を誤解させる。
自分の都合のよい「思い込み」を優先させる。
「願望」の強弱に左右されないようにするにはどうしたらよいのでしょう。人生の「経験」という「訓練」も必要なのかもしれませんね。(私の場合、もう時間はありません…)💦
素直に謙遜に謙虚な思いが与えられますようにと祈るばかりです。自分ご都合主義に勝利できますように。
ハレルヤ
尊き主イエスの御名により
常に喜び絶えず祈り
凡てのこと感謝できますように。
アーメン