サムエル記上23章14~18節
〔新共同訳〕
【ケイラとジフにおけるダビデ】(3)
14ダビデは荒れ野のあちこちの要害にとどまり、またジフの荒れ野の山地にとどまった。
サウルは絶え間なくダビデをねらったが、神は彼をサウルの手に渡されなかった。
15ジフの荒れ野のホレシャにとどまっていたダビデは、サウルが自分の命をねらって出陣したことを知った。
16そのとき、サウルの子ヨナタンがホレシャにいるダビデのもとに来て、神に頼るようにとダビデを励まして、17言った。
「恐れることはない。父サウルの手があなたに及ぶことはない。イスラエルの王となるのはあなただ。わたしはあなたの次に立つ者となるだろう。父サウルも、そうなることを知っている。」
18二人は主の御前で契約を結んだ。ダビデはホレシャに残り、ヨナタンは自分の館に帰って行った。
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(聖句雑感)
「ホレシャ」=「樹木の茂った丘」。
ジフの野にあった要害で、ヘブロンの南9-10キロほどの所にあるキルベト・クレーサーと同定される(新聖書辞典1291p)、とあります。
ユダの荒れ野までやってきたヨナタン。
「神に頼るように」と励ますためだけに、来た。
このような「友」がいる「ダビデ」。
なんと幸いなのだろう。
「ヨナタン」の目は「ダビデ」に注がれる。
「神の器」に注がれる。
ヨナタンこそ、神の御心を知る人。
その御心に従って歩もうとする人。
彼はなぜ死ななければならなかったのだろう。
悲しすぎる。
そんなこと思いました。
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解説を見てみました。
■新実用聖書注解460p
サウルとその一隊が必死になってダビデの居場所を捜したにもかかわらず見付けることが出来なかったのに、ヨナタンは難なく見付けてしまった。これは「劇的アイロニー」(ペイン)と言える。
彼は、ヘブロンの南東約10kmの所にあったと思われるホレシュに来て、《神の御名によってダビデを力づけた》(16)。時として恐れに沈んでしまうダビデにとって、この訪問はなんという励ましになったであろうか。ヨナタンは、ダビデが必ず王位に就き、自分はその次席に位置するようになることを保証し、そのことはサウルも心の底では認めていると述べた。彼らは契約を更新し(参照18:3,20:16)、ヨナタンはその住まいに帰って行った(18)。
■BIBLEnavi267p
これはダビデとヨナタンが共に過ごす最後の時であったのかもしれない。真実の友として、2人は単に交流を楽しむ仲間以上の存在だった。彼らは互いに神への信仰を励まし合い、心の最奥にある思いと強い信頼で結び合っていた。これらが真の友情のあかしである。
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■clay解説全文
友情契約の更新
ジフの荒野
ダビデはサウルに復讐を企ててはいません。
彼は神の時と方法に身をゆだねていました。
これは、すべてのクリスチャンが採用すべき最善の方法です。
(1)当時彼は、ジフの荒野に留まっていました。そこは、交通の要衝の地で、さらに遠くまで見通しのきく戦略的地でもありました。
(2)そこに、ダビデを励ますためにヨナタンがやって来ます。サウルは必死になってダビデの居場所を捜していましたが、見付けることはできませんでした。しかしヨナタンは、難なく見付けています。不思議なことです。
神のみこころに沿って行動する者には、道が開かれるのです。
契約の更新
ヨナタンは、神の御名によってダビデを力づけています。ここで行なわれているのは、友情契約の更新です。
(1)ヨナタンは、ダビデがイスラエルの王になることを知っていました。そして、神の計画が成就する前にダビデが死ぬようなことはないと確信していました。それゆえ彼は、「恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです」と語ることができたのです。
(2)さらにヨナタンは、自分がダビデの僕となることも知っていました。つまり彼は、神の計画を完全に受け入れていたということです。
(3)サウルもまた、ダビデがイスラエルの王になることを知っていたのですが、彼の場合はその神の計画に反抗していました。
(4)ヨナタンの訪問は、ダビデにとっては大いなる励ましとなりました。彼らはすでに結んでいた友情契約を更新し、ヨナタンはその住いに帰って行きました。
箴言には、次のようなことばがあります。「滅びに至らせる友人たちもあれば、兄弟よりも親密な者もいる」(箴言18:24)。まさにヨナタンは、この聖句どおりの友人でした。
ヨナタンとサウルの違いは、神の計画を受け入れているかどうかにありました。
ダビデがイスラエルの王になるという計画を受け入れていたヨナタンは、真の友情を示し、平安の内に日々を過ごすことができました。
一方、サウルは神の計画に対抗していたために、安らぎのない日々を過ごしていました。
あなたは、ヨナタンのようですか、あるいはサウルのようですか。
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きょうの祈り
全知全能の神よ。あなたの計画は最善のものです。どうかあなたのみこころを受け入れ、平安な日々を歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
サムエル記第一24~25、使徒の働き3
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2024年6月2日(日)☁22℃
ヨナタンとサウルの違い。
「神の計画を受け入れているかどうか」
私たちは常に、日常との戦い。
「日常」の中で、どうやって
「神の計画」を知る事ができるのだろう?
いまだによくわかりません。
わたしはまさに「茨」の中に蒔かれた種のようです。
正直、信仰生活が苦しいと感じる時が多いです。
正直、私は自分が「幸せ」だとは思えません。
されど、感謝だと思う。
イエスさまに出会えた。
イエスさまを見上げる機会は常に与えられている。
だから、感謝だ、とつい込み上げる。
主イエスさまがいらっしゃる。
永遠不滅のお方。
良き地に蒔かれた種は、100倍の実を結ぶという。
どんな荒地だって開墾して
よき地に変えることはできるのだとの希望も芽生える。
今回のお勧めのように、
「平安」とは「神の計画を受け入れる」こと、とあります。
「安らぎのない日々」とは「神の計画に反抗する」日々。
逆に、「平安」の内にあるならば、
それが「神の御心」なのだといえるのかもしれない?
「神の御心」を探る日常が、クリスチャン生活とその生涯?
また、「神の御心」はすでに「聖書」によって明らかにされている、ゆえに、「神の御心」を知ってそれに「従う」生活とその生涯が、クリスチャン人生なのだろう。その実はどれほどのものだろうか。100倍の実を結ぶ人生でありたいものです。
「信仰の友」もまた得たいものです。
ハレルヤ
主イエス・キリストの御名により
常に喜び絶えず祈り
凡てのこと感謝できますように。
アーメン