サムエル記上23章1~6節
〔新共同訳〕
【ケイラとジフにおけるダビデ】(1)
1ペリシテ人がケイラを襲い、麦打ち場を略奪している、という知らせがあったので、2ダビデは主に託宣を求めた。
「行って、このペリシテ人を討つべきでしょうか。」主はダビデに言われた。
「行け、ペリシテ人を討って、ケイラを救え。」
3だが、ダビデの兵は言った。
「我々はここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラまで行ってペリシテ人の戦列と相対したらどうなるでしょうか。」
4ダビデは再び主に託宣を求めた。
主は答えられた。
「立て、ケイラに下って行け。ペリシテ人をあなたの手に渡す。」
5ダビデとその兵はケイラに行ってペリシテ軍と戦い、その家畜を奪い、彼らに大打撃を与え、ケイラの住民を救った。
6アヒメレクの子アビアタルが、ケイラのダビデのもとに逃げて来たとき、彼はエフォドを携えていた。
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(聖句雑感)
「託宣」
詩篇16篇を思い出します。
「我常に我が前に主を置けり」
兵士達の言い分にも
ダビデさんは 丁寧に 「託宣」を求める。
とても慎重です。
そして、この「託宣」は「エフォド」が保証します。
再びコロサイ書のみ言葉を思います。
「また爲す所の凡ての事、あるいは言葉あるいは行い、みな主イエスの名に頼りて爲し、彼によりて父なる神に感謝せよ」(コロサイ3:17)アーメン
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解説を見てみました。
■新実用聖書注解459p
ハレテの森の西方約10kmの所にある穀物の山地ケイラをペリシテ人が略奪しているというニュースがダビデのもとに届いた(1)。ダビデが主の御旨を問うと、ケイラを救いに行くようにという答えがあった(2)。ところが部下たちは、自ら逃亡の身でありながらペリシテの陣地に攻め入るのは無謀ではないかと反対した(3)。部下の意見をも重んじて、ダビデはもう一度主に伺いを立てたが、答えは以前と全く同じであり、勝利の約束がそれに付け加えられた(4)。
部下も納得し、勇気を出してペリシテの陣地に攻め入ったところ、主はダビデ軍に大勝利を与えて下さり、家畜の分捕り物までが彼らのものとなった(5)。これは、放浪生活にとって、大きな祝福となった。
■BIBLEnavi266p
打ち場とは、穀物の中身を殻と分ける広場であった。打ち場を略奪することで、ペリシテ人はケイラ市民の食糧を盗んでいたのである(脱穀についてはルツ3:2の注を参照)。
祭司エブヤタル/アビアタルが持って来たウリムとトンミム(23:6)によって、ダビデは「行動を起こす前に」主の導きを求めた。神のご指示に耳を傾け、それに従って事を進めた。状況だけでなく、他者の助言、神のみことば、心に与えられる聖霊のお導きを通しても神の語られることを聞くことができる。
エポデとは、祭司が身に着けた麻の袖なし服であった。大祭司のエポデは鮮やかに彩られ、イスラエルの12部族を表す12個の宝石がついた胸当てが付いていた(エポデの詳細は2:18の注を参照)。
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■clay解説全文
ケイラの救出
ペリシテ人の攻撃
ダビデは依然として、あてのない逃亡生活を続けています。その生活がいかに不安なものであったかは、想像に難くありません。
しかし、そのような生活の中にも神の導きは確実に与えられていました。
(1)ダビデのもとに、ケイラがペリシテ人に襲われているという知らせが入ります。ケイラはユダ族の領地にある町で、穀物の産地として知られていました。ペリシテ人たちは、収獲物を略奪するために攻撃していたのです。これは全面戦争ではなく、一時的な略奪戦です。
(2)こういう場合、普通ならイスラエルの王であるサウルのもとに知らせが届けられるはずですが、それがダビデのもとに来ています。この時点で、ダビデはすでに王としての信頼を受けています。特に、ユダ族の間ではその傾向が強かったのです。
(3)ダビデはケイラの救出に向かうべきかどうか、思案します。なぜなら、彼はそれまではサウル王の命令によって動いてきたのですが、今はその状況が変わったからです。また、自分が抱えている兵士の数があまりにも少なかったので、不安もありました。
主のみこころ
そこでダビデは主にお伺いを立てます。
(1)ダビデのもとに祭司エブヤタルが逃げて来ていました。彼はエポデを携えていました。エブヤタルは、エポデの中にあったウリムとトンミムを使って、主のみこころを求めました。すると、ペリシテ人を打ってケイラを救えという答がありました。
(2)ところが部下たちは、少数の兵士をもってペリシテ人に戦いを挑むのは無謀ではないかと反対しました。
(3)そこでダビデは、再度主にお伺いを立てました。主からの答は以前と全く同じであり、勝利の約束まで付け加えられていました。
(4)全員が納得したところで、ダビデはケイラに行き、ペリシテの陣地を攻撃しました。結果は大勝利に終わりました。ダビデの軍はケイラの住民を救い、ペリシテ人の家畜を分捕り物にしました。これは、それ以降の放浪生活にとって大きな助けとなりました。
不遇な生活の中にも、主の導きがあることに注目しましょう。
祭司エブヤタルは、ダビデにとっては大きな祝福となりました。
主に信頼し続けるなら、必ず道が開けます。
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きょうの祈り
全知全能の神よ。放浪生活の中にも、あなたの守りの御手があります。どうか、あなたに信頼することを学ばせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
サムエル記第一20~21、箴言19
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2024年6月1日(土)☔&☁23℃
安息日礼拝、集うことができました。
(遅刻でしたけどネ)
感謝でした。
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「あてのない○○生活」
そんな時代、
ほんとに苦しいものです。
目標を明確に持てる人はなんと幸いだろう。
信じて進むのみです。
されど、「あてなき」者は
なんと こころもとない一日一時間一秒だろう。
ダビデさんの場合、
自らの失敗によって生じた結果が
結局 自らの(+)へと転じた。
マイナスがプラスとなって戻って来る。
神さまを味方にするってこういうことなんだな、とも思います。
常に神の御心を問う。
この姿勢、一見、「自分」が無いようにも見える。
されど、この「自分」は「神に従う」という「自分」なのだ。
そこには強い強い自分の「意志」がある。
そしてその強い強い「意志」はただに「信仰」の賜物。
神から愛されているという確信と
神がすべてという信仰と信頼。
神さまは決して見捨ててはくださらないという確信。
これほど強いものはないのだろうなと思いました。
ハレルヤ
尊き主イエスの御名により
常に喜び絶えず祈り
凡てのこと感謝させ給え。
アーメン