サムエル記上18章5~9節
〔新共同訳〕
【ダビデに対するサウルの敵意】(2)
5ダビデは、サウルが派遣するたびに出陣して勝利を収めた。サウルは彼を戦士の長に任命した。このことは、すべての兵士にも、サウルの家臣にも喜ばれた。
6皆が戻り、あのペリシテ人を討ったダビデも帰って来ると、イスラエルのあらゆる町から女たちが出て来て、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、三絃琴を奏で、歌い踊りながらサウル王を迎えた。
7女たちは楽を奏し、歌い交わした。
「サウルは千を討ち
ダビデは万を討った。」
8サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。「ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。」
9この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。
****************************
(聖句雑感)
「妬み」
箴言27:4(新共同訳)にあります。
憤りは残忍、怒りは洪水。
ねたみの前に誰が耐ええようか。
さらにこうあります。
箴言14:30(新共同訳)
穏やかな心は肉体を生かし
激情(ねたみ)は骨を腐らせる。
"wiblo"を見てみました。
「妬み嫉み=ねたみそねみ」とは、
他人を羨ましく思い、その分だけ憎らしいと思う感情。「嫉妬」と同義。「妬み」と「嫉み」はいずれも羨望と憎しみの入り混じった感情を表す。「妬み」は羨ましく口惜しい、腹立たしいといった意味あいが若干強い。「嫉み」は羨ましくて憎い、呪わしいといった意味合いが若干強い。
「すぐれている相手を憎らしく思う気持ち」
「嫉妬心」、この感情は自身をも他者をも深く傷つけてしまう激しい感情であることはまちがいなさそうで、害あって一利無し」といえそうですネ。
このような感情が芽生えた日には、早々に片づけなくてはいけませんが、問題は、どうやって速やかに処理できるのか、具体的な方法(論)でありますネ…。さらに、確実に実践できるかどうか、でありますネ。信仰の戦いもここにありますヨネ…。
聖書には、「人=他者」を「己」より優れた者とみなさい、と教えています。さて、どれだけの人がこれを、自身の性質として勝ち取っているでしょか…。
ロマ書12:10(新共同訳)
兄弟愛をもって互いに愛し、
尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
ピリピ2:3-4(新共同訳)
何事も虚栄心からするのではなく、
へりくだって、
互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
めいめい自分のことだけでなく、
他人のことにも注意を払いなさい。
「自我」との戦いはある面、壮絶。
「骨」を腐らせるほどの激情をかかえて、
人生の大半を過ごしてしまえば、
「病」んでしまうのは当然かもしれません。
自分が「病」んでいると
自覚できたなら、幸い。
「病」んでいる根本の原因を
探ることができましたら、なお幸い。
「心」の「病」を完全に治してくれる方がいらっしゃることを信じて、その方が「イエスさま」であることに目が開かれ、聖書のみことばと聖霊の導きを信じ従って、自身の心と相対峙していくことができましたら、幸い。一切の「ごまかし」は通用しないことも覚えます。
耐え難いようにみえる孤独な戦い。
されど、
これによって得られる勝利の一つ一つは、
後に豊かな「御霊の実」結ばせてくれるのだと信じて感謝せん。
神の峻厳と慈愛を見せられるごとに、
神を「畏れる」道の扉が開かれるのだと信じます。
詩篇118:5(新共同訳)
苦難のはざまから主を呼び求めると
主は答えてわたしを解き放たれた。
さまざまな、いろんな「苦難」がやってくる。
「主を呼び求めよ」とありますから、感謝です。
「主を呼び求める」者に、
主は答えて「解き放つ」と、
約束してくださっていますから、感謝です。
臆さず躊躇せず、まずは、素直になって
「主を呼び求め」ようではないか!
信仰の初めの頃のように
まずは、ただひたむきになって
「主を呼び求める」ことへと回帰したい。
そんなこと思いました。
ハレルヤ
~~~~~~~~~~~~~~
解説を見てみました。
■新実用聖書注解455p
<女たちの歌>
イスラエルの民が紅海を渡り、エジプト人が海の藻屑となって滅びた時、ミリヤムを初め多くの女たちがタンバリンを手にして踊りながら喜び、主をほめたたえたように(出15:20-14)、ゴリヤテとペリシテ軍とを打って帰って来たイスラエル人を、町々の女たちは楽器と歌と踊りで喜び迎えた(6)。
しかしその時の祝歌《サウルは千を打ち、ダビデは万を打った》(7)がサウルを激怒させた。女たちとしては、サウルとダビデが共に敵の幾千万をうち破ったと歌ったのであろうが、サウルにとっては、その言葉の配列が気にくわなかった(8)。
ダビデに王位を奪われるのではないかと疑心暗鬼になったサウルは、もはや平静な心でダビデを見ることが出来なくなってしまった(9)。
■BIBLEnavi263p
サウルのダビデに対する好感は、民がダビデの快挙を称賛し始めるにつれて、嫉妬に変わった。
嫉妬は大きな罪に見えないかもしれないが、実際は殺人とほとんど変わらない。
相手がいなくなればよいと思うようになり、やがて言動となって姿を表す。
嫉妬があなたの人生に入り込まないよう気をつけよう。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
■clay解説全文
サウルのねたみ
王位を脅かすライバル
ヨナタンはダビデの活躍を喜びましたが、サウルはそうではありませんでした。
(1)最初はサウルも、ダビデのような勇士が与えられていることを誇りとし、喜びました。しかし残念ながら、彼はねたみ心を起こし、ダビデを自分の王位を脅かすライバルとして見るようになります。
(2)そのきっかけになったのが、女たちの歌です。当時ダビデは、勝利に勝利を重ね、戦士たちの長に抜擢されていました。あるとき、ペリシテ人との戦い(ゴリヤテに勝利した戦いとも取れます)に勝利して帰って来たダビデと戦士たちを、女たちが歌と踊りで迎えました。その歌の歌詞は、2行詩でした。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」。
(3)それを聞いてサウルは不快に感じ、非常に怒りました。彼の理屈はこうです。「ダビデがこのように自分よりも上に置かれているとするなら、彼にないのは王位だけだ」。ここには論理の飛躍が見られますが、それは罪人の特徴でもあります。
聖霊が去ったサウルは、客観的に物事を見られなくなっていました。
疑心と恐れが彼を支配していました。
疑いの目
その日から、サウルはダビデに王位を奪われるのではないかと疑心暗鬼になります。
何かにつけて、ダビデを疑いの目で見るようになります。恐らく、サムエルが語った預言が彼の心の中にあったのだと思われます。
サムエルは彼に、「あなたが主のことばを退けたので、主もあなたをイスラエルの王位から退けたからです」(15:26)と通告していました。
ねたみは私たちから平常心を奪います。
ねたみが起こってくる原因は、私たちが神のみわざよりも自分の成功に関心があるからです。
伝道者(ソロモン)は、こう語っています。
「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ」(伝道者4:4)。
主に用いられている器に対してねたみを起こすことのないように、祈りましょう。
また、ひとりひとりがその賜物にふさわしく用いられるように祈りましょう。
サウルの心ではなく、ヨナタンの心が与えられるように祈りましょう。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
きょうの祈り
天の父なる神さま。どうか私をねたみから解放し、あなたに用いられている器のために祈る者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
年間聖書通読
士師記7~8、ルカの福音書14
******************************************
2024年5月11日(土)☀26℃
「サウルの心ではなく、
ヨナタンの心が与えられるように」
「ひとりひとりが
その賜物にふさわしく用いられるように」
「ねたみが起こってくる原因は、
私たちが、神のみわざよりも自分の成功に感心があるからです」
(アーメン)
SNSと呼ばれる情報発信ツールは、或は
この「ねたみ」を助長してしまっているのかもしれませんネ。
(ジョセフ・プリンスさんが、
これは「他人を覗き見る」ことなのだと
おっしゃっていましたネ。印象深いです…)
人の心には、何が「きっかけ」となって「妬み」が巣くうかわかりません。自分の心は自分で守るしかないのでしょう。
他者を「羨む」という小さな種が
そのうち、骨を腐らすほどの「ねたみ」へと変貌することを覚えておかなくてはいけませんネ。
そのためにも絶えず「神のみわざ」に目が向けられますようにと、思わされましたこと、感謝です。
常に喜び絶えず祈り凡てのこと
主イエスに御名によりて感謝いたします。
ハレルヤ アーメン