サムエル記上18章~節
〔新共同訳〕
【ダビデに対するサウルの敵意】(3)
10次の日、神からの悪霊が激しくサウルに降り、家の中で彼をものに取りつかれた状態に陥れた。
ダビデは傍らでいつものように竪琴を奏でていた。
サウルは、槍を手にしていたが、 11ダビデを壁に突き刺そうとして、その槍を振りかざした。ダビデは二度とも、身をかわした。
12主はダビデと共におられ、サウルを離れ去られたので、サウルはダビデを恐れ、 13ダビデを遠ざけ、千人隊の長に任命した。
ダビデは兵士の先頭に立って出陣し、また帰還した。 14主は彼と共におられ、彼はどの戦いにおいても勝利を収めた。
15サウルは、ダビデが勝利を収めるのを見て、彼を恐れた。
16イスラエルもユダも、すべての人がダビデを愛した。彼が出陣するにも帰還するにも彼らの先頭に立ったからである。
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(聖句雑感)
「イスラエルもユダも凡ての人がダビデを愛した」
とあります。それは、
「出陣」の時も、「帰還」の時も、常に
ダビデは「先頭」に立っていたから、とあります。
「無敗」のダビデの姿。
強きリーダーの姿は、その国の民衆をどれほど勇気づけ、誇らしくさせたことかと思います。
実際、
「主は彼と共におられ、
彼はどの戦いにおいても勝利を収めた」とあります。
万軍の主が味方であるならば
なんとたのもしいことだろう。
「悪霊」に「とりつかれた」サウル王さまの姿は、とても哀れにも思えます。そして、残酷です。
サウル王は、何を恐れていたのか。
「王」という「位」にしがみつく。
イスラエルの前途より国民の安寧より、まず「自分」の立場を維持することに執着する。何のうま味があってだろう?「自分」をささえるモノを完全に見失っている状態。信じられるものが無い状態。そんな状態でも「王座」のみが彼の拠り所ということなのだろうか。「主に捨てられる」ということはこんなにも惨めなのかと思う。
サウル王の回復する道はもはや残されていなかったのだろうか。
「ダビデ」を認め、受け入れ、譲るという身の引き方はできなかったのだろうか。
一度「王」と言う「最高位」に上りつめた者の身の処し方というものは、どんな方法があってどんな有様がベストなのだろう。
イスラエルは「神」の治める共同体、ヤコブの12部族の国。
数々の異邦の国の歴史とは違い、主の御心に適うならば、決して、血生臭くはなく、平和裏に事がなるはずなのである。(と私には思えます)
サウル王さまがダビデを恐れた、とあります。
「悪霊」は「神の霊」を恐れるものなのだと教えられます。
彼らにとって「神の霊」は脅威そのものなのだと知ります。
我らは今、主イエス・キリストの御霊を頂いている。
なんという感謝だろう。
「我はすでに世に勝てり」と仰っているイエス様の霊が我らの内にある。尊き主イエスの御名が与えられている。感謝です。
ハレルヤ
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解説を見てみました。
■新実用聖書注解453p
神に逆らう者に悪い霊が侵入して来ることを、神が許される場合がある。サウルを捕らえた悪霊の働きは次第に力を増し、ついにダビデの琴でも鎮めることが出来なくなった(10)。サウルはちょうど手にしていた槍を、ダビデ目がけて2度のわたって投げ付けた。悪霊の働きと嫉妬心とが相乗作用を起こしたのであろう。主のあわれみにより、ダビデは2度共、素早く身をかわすことが出来た(11)。
ダビデに対するサウルの恐れは増幅した。主が彼と共におられ、自分からは去られたことを知ったからである(12)。ついにサウルは、ダビデをさばに置くことに耐えられない心理状態になってしまった。
そこでサウルは、ダビデを自分のもとから離し、千人隊長に任命して職場に送った(13)。敵の剣で彼を倒そうという意図があったのかもしれない。しかし、《ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた》(14)。主に深く根を下ろして生きる者は「何をしても栄える」(詩1:3)のである。
こうしてサウルはますますダビデを恐れるようになったが(15)、イスラエルとユダの人々はみな彼を愛した。彼が人をあごで使うような指導者ではなく、自ら先頭に立って、重荷を担おうとする隊長だったからである(16)。
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■BIBLEnavi263p
この苦しめる悪霊がどのようなものであったかについては16:14の注を参照。
参照:261p
この主から送られた、わざわいの霊とはどんなものだったのだろうか。おそらくサウルはうつ病になったのだろう。あるいは聖霊がサウルを離れ、神がサウルを「悪霊」(悪魔)による苦痛にゆだねることで、その不服従をさばかれた(これにより神の力が「霊の世界を支配されていること」を示す〔Ⅰ列王22:19-23〕)のだろう。いずれにしても、サウルは狂気に駆られた結果、ダビデを殺そうとした。
あなたも嫉妬されて何らかの方法で攻撃されたことがあるかもしれない。
あなたを嫉妬した人たちは、あなたの力におびえ、自分の不足を気にしていたのかもしれない。
攻撃し返したり、避けたりするのが当然かもしれない。
しかしより良い道は、ダビデがサウルを愛し続けたように、相手に親切にし(マタイ5:43-44)、愛し続ける力を神に求めることだ。
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■clay解説全文
槍の攻撃
悪霊による預言
神に背を向けて歩むサウルの状態は、ますます悪くなっていきました。かつてはダビデの琴の音によって静めることができた悪霊の攻撃も、もはや手がつけられない状態になりました。そしてついに、サウルは家の中で狂いわめき始めたのです。これは、サウルが悪霊によって預言したということです。
サウルとダビデの姿は対照的です。
(1)ダビデは立琴を手にして、サウルに仕えようとしていました。
(2)しかし、サウルは槍を手にして、ダビデを刺し殺そうとしています。
(3)ついにサウルは、その槍を投げつけましたが、ダビデは二度も身をかわしました。これは、ダビデの身のこなしが素早かったということですが、それ以上に、神の守りの御手が働いていたということです。
正しい動機で神に仕えているなら、私たちの上にも同じ神の守りがあります。
日々私たちを守ってくださる父なる神の御名をほめたたえましょう。
千人隊長ダビデ
サウルには、主が自分から去り、ダビデとともにおられるという自覚症状がありました。それが彼に恐怖心を与えました。
彼が取った方法は、ダビデを自分から遠ざけることでした。
(1)サウルは、ダビデを自分のもとから離し、千人隊長に任命して戦場に送りました。最も危険な場所に置き、敵の剣で彼を倒そうという意図が働いたのです。
(2)しかしダビデは、すべての戦いにおいて勝利を収めました。その理由は、「主が彼とともにおられた」からです。ここにも、神の御手の働きがあることがわかります。
(3)ダビデが大勝利を収めるのを見て、サウルはますますダビデを恐れるようになりました。
(4)しかし、民衆はみな彼を愛しました。ダビデが先頭に立って、良い指揮官として働いていたからです。
いつの時代でも、神に敵対する人は、神に仕える人が祝福されているのを見て恐れ、その人を迫害するようになります。
ダビデの姿勢から教訓を学びましょう。
彼は理不尽な扱いを受けても、決して復讐しようとはせず、置かれた場所で全力を尽くしました。
この姿勢は、ダビデの子イエスの内にも見られるものです。今、ダビデが歩んだように歩ませてくださいと祈りましょう。
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きょうの祈り
天の父なる神さま。復讐はあなたがなさることです。どうか私が、ダビデが歩んだように歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
士師記9~10、ルカの福音書15
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2024年5月12日(日)☀29℃
とても良い日曜のお天気です。
感謝です。
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clayさんの今回のお勧め。
「理不尽な扱いを受けても、決して復讐しようとはせず、置かれた場所で全力を尽くした」とあります。
「復讐するは我にあり」の神さま。
「復讐」という多大なる「負」のエネルギーを要するものに貴重な時間と体力を費やすよりは、公平な裁き主なる「主」におまかせすればよいのかもしれません。けれど…
聖書には「敵を愛せよ」とありますから、
ほんと、至難の業であるとつくづくおもってやみません。
できそうで、できない、できたようで、できてない。
むしろ、こんなことを考えなくてすむように逃げたいものです。
「忘れる」「考えない」ことに専念したいものですが、「逃げる」のでなく、「愛せよ」とあるのです。
ほんとうにそんなことができるのでしょうか…。
(._.)…。
イエスさまは、絶えず祈っておられた。
アノ、イエスさまですら、絶えず祈っておられた。
そのお姿を忘れてはいけないのだと ふと 思いました。
「悪霊」の侵入を許された、サウル王。
なんだか悲惨です。
どうにかならないものでしょうか。
逃げる道はなかったのでしょうか。
「判決」は下されてしまった。
「判決」が下される前こそが、猶予の時。
「今」この時、この時代、
イエスさまの「福音」を語る時代、
イエスさまの「福音」を生きる時代、
この時代に生かされていますこと
主イエス・キリストの御名によって
感謝いたします。
ハレルヤ
アーメン