サムエル記上18章1~4節
〔新共同訳〕
【ダビデに対するサウルの敵意】(1)
1ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。
2サウルはその日、ダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許さなかった。
3ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、 4着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた。
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(聖句雑感)
ヨナタンの魂の躍動。
「ダビデ少年」の存在に打ち震えたヨナタン。
「一目惚れ」って言葉があるけれど、
案外それに近かったのかな?
一瞬にして「ダビデ」に「魅了」されたヨナタン。
それは、「ダビデ」の持つ「神の霊」からくるものだったのだと思えます。「ヨナタンの魂」は「神の霊」に共鳴し、愛さずにはいられない者として「ダビデ」に圧倒される。とともに、共通の霊の高さを持ち合わせている者に出会えたヨナタンの喜びは、自身の上着、装束、剣、弓、帯を与えるに至るほど。
「自分自身のように愛し」とあります。
これは、「聖書」の究極の教えにつながります。
サウル王さまには「ヨナタン」という息子が与えられていた、というより、備えられていた、のですね。サウル王様は結局失敗しましたが、「ヨナタン」という存在を知るにつけ、ダビデに至る神の深い摂理を思わずにはいられません。
「愛さずにはいられない」「友」を持てる人生は、なんて素晴らしいのだろう。そんなことを思いました。
ハレルヤ
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解説を見てみました。
■新実用聖書注解455p
サウルの子ヨナタンは、以前ペリシテ人との戦いで、信仰による勝利の糸口を開いた勇士であった(14:6)。彼の心がダビデの心と固く結び付いたのも不思議ではない。2人の信仰の波長はぴったり一致したのである(1)。
これまでのように、ダビデは父の家とサウルの王宮とを往復する生活を終え(参照 17:15)、サウルの側近として生活するようになった(2)。そればかりでなく、戦士長という重職に任ぜられた。この昇進は、民の目にも、サウルの家来の目にも好意的に映った(5)。
ここから、ダビデとヨナタンの歴史的に有名な友情が始まる。2人は心から愛し合い、ヨナタンはダビデと契約を結び(3)、大切にしていた武具一式をダビデに与えた(4)。武器と名の付くものが非常にまれであった時代に(参照 13:22)、これは愛と敬意のしるしそのものであった。
■BIBLEnavi262-263p
ダビデとヨナタンの友情は聖書に記されている中で最も深く親密な友情の1つである。2人は友情をお互いだけでなく、神への忠誠の上に育んだ。友情が試されたとき、絆が深まった。最後まで2人は友であり続けた。
イスラエルの王子であったヨナタンは、後に自分でなくダビデが次の王となると悟った(23:17)。しかし、それでもダビデへの愛は変わらなかった。ヨナタンは親友を失うよりもイスラエルの王座を失うほうを選んだ。
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■clay解説全文
兄弟契約
ヨナタンとの契約
サウルの子ヨナタンもまた、ダビデのような勇者でした。彼は以前、ペリシテ人との戦いでイスラエルに勝利をもたらすきっかけを作った人でした(14:6参照)。
(1)ヨナタンの心は、ダビデの心と固く結び付きました。ダビデの行動を見、言葉を聞き、心に感動を感じたのでしょう。
(2)その日サウルは、ダビデを職業軍人として召し抱え、王宮に住まわせる決定を下しました。大昇進です。これ以降、ダビデはサウルの側近として生活するようになります。
(3)ヨナタンはダビデを自分と同じほどに愛しました。その結果、彼はダビデと契約を結ぶようになります。これは、兄弟契約です。そのしるしとして、ヨナタンはダビデに、自分の上着を与えました。その上に、武具一式まで与えたのです。
(4)ダビデはヨナタンの武具や上着を着けて行動を開始しました。それを見た民は、ヨナタンがダビデを愛し、兄弟契約を結んだことを理解しました。
私たちへの教訓
この兄弟契約から教訓を学んでみましょう。
(1)ヨナタンはダビデよりも年長でした。
しかし彼は、ダビデの成功や人気をねたむどころか、ともに喜ぶことのできる人物でした。
言い換えれば、彼は主がダビデの人生を通して行なっておられることを喜ぶことができたのです。
これは、バプテスマのヨハネの内にも見られる性質です。彼はこう語っています。
「あの方(イエス)は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハネ3:30)。
あなたの内側に、神が行なっておられることを喜ぶ信仰がありますか。
(2)ダビデはヨナタンから非常に高い評価と栄誉を受けました。普通なら、傲慢になってもおかしくないところですが、彼はそうはなっていません。
傲慢になることなしに、人の評価を正しく受け止めることができるのは、主の憐れみがあるからです。
ダビデの姿は、主イエスの内にも見出せるものです。
主は弟子たちに、「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」(ヨハネ13:14)と言われました。
あなたは、傲慢にならずに、人からの評価を正しく受け止めることができますか。
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きょうの祈り
全知全能の神よ。あなたは私の弱さも、強さも、すべてご存知です。どうか恵みによって私を傲慢の罪から救ってください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
士師記5~6、ルカの福音書13
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2024年5月10日(金)☀27℃
今日は朝からバタバタです。
よいお天気で感謝です。
コロサイ書3:17
何を話すにせよ、行うにせよ、
すべてを主イエスの名によって行い、
イエスによって、父である神に感謝しなさい。
何を話すにせよ、
何を行うにせよ、
とあります。
この頃はなんだか抵抗なく
そのようにしはじめていること
気が付きます。
習慣的なこと、
朝起きて 顔を洗う、手洗うなど以外には
ほぼ、主イエスの名によってはじめます。
すると、「楽」になります。
感謝です。
気持ちが入っても入っていなくても
主イエスの名によって事をはじめ、
人と会い、事をおさめます。
このような「祈り」が
主イエスの御名が
与えられています事はなんと幸いでしょうか。
ハレルヤ
これはあきらかに
「みだりに主の名をとなえる」とは
ちがう次元のことなのですネ。
せっかちな私は
まだまだ忘れること多いですけどネ。
感謝です。
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今回のclayさんのお勧め。
「あなたは、傲慢にならずに、
人からの評価を正しく受け止めることができますか。」
評価を正しく受け止めることは
「謙遜」に至る道なのですね。
良きにつけ
悪しきにつけ
冷静に受け止めることができますように。
ハレルヤ
常に喜び絶えず祈り凡てのこと
感謝できますように。
主イエスの御名に感謝せん。