サムエル記上17章48~58節
〔新共同訳〕
【ダビデとゴリアテ】(6)
48ペリシテ人は身構え、ダビデに近づいて来た。ダビデも急ぎ、ペリシテ人に立ち向かうため戦いの場に走った。
49ダビデは袋に手を入れて小石を取り出すと、石投げ紐を使って飛ばし、ペリシテ人の額を撃った。石はペリシテ人の額に食い込み、彼はうつ伏せに倒れた。
50ダビデは石投げ紐と石一つでこのペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した。ダビデの手には剣もなかった。
51ダビデは走り寄って、そのペリシテ人の上にまたがると、ペリシテ人の剣を取り、さやから引き抜いてとどめを刺し、首を切り落とした。ペリシテ軍は、自分たちの勇士が殺されたのを見て、逃げ出した。
52イスラエルとユダの兵は立って、鬨の声をあげ、ペリシテ軍を追撃して、ガイの境エクロンの門に至った。ペリシテ人は刺し殺され、ガトとエクロンに至るシャアライムの道に倒れていた。
53イスラエルの兵士はペリシテ軍追撃から帰ると、彼らの陣営を略奪した。 54ダビデはあのペリシテ人の首を取ってエルサレムに持ち帰り、その武具は自分の天幕に置いた。
55サウルは、ダビデがあのペリシテ人に立ち向かうのを見て、軍の司令官アブネルに聞いた。「アブネル、あの少年は誰の息子か。」「王様。誓って申し上げますが、全く存じません」とアブネルが答えると、 56サウルは命じた。「あの少年が誰の息子か調べてくれ。」
57ダビデがあのペリシテ人を討ち取って戻って来ると、アブネルは彼を連れてサウルの前に出た。ダビデはあのペリシテ人の首を手に持っていた。
58サウルは言った。
「少年よ、お前は誰の息子か。」
「王様の僕、ベツレヘムのエッサイの息子です」とダビデは答えた。
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(聖句雑感)
「少年よ、お前は誰の子か」
あれ?
サウル王様は「ダビデ」の素性について何も知らなかったのでしょうか?すでに音楽療法士として王様に仕えているのに?
サムエル記上16:14~27には、はっきりと「ベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です」とサウル王の家臣が答えています。さらに、エッサイに使いをおくって「ダビデをわたしに仕えさせるように。彼はわたしの心に適った。」と伝えさせています。
ここでなぜ?
サウル王様は「少年よ、お前は誰の子か」と尋ねたのでしょう?
その少年が「ダビデ」だと認識できなかったとしたら、なぜでしょう?サウル王にとって、一宮使いの名もなきその他大勢の僕の1人としての「ダビデ」をそれほど深く観察することもなかったということなのでしょうか?
戦士サウル王にとって
国をかけた戦いに勝利した者こそ
一目置くに値する者。
「少年よ、お前は誰の子か」
わたしたちも、大活躍する人をみると
「いったいあの人はだれ?」と秘かに思うものではあります。
まったく目立たない無名の者の中に
ほんとうに力ある業をなす人々が隠れている、
そんなものなのかもしれませんね。
だから、誰も 侮れませんね。
神さまの前に、誰も「自分」より劣っているなどと思うことはよろしくないことなのだ。むしろ「人」を「自分」よりも「優れたる者」と思うべし、とは、アーメンなり。
ハレルヤ
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解説を見てみました。
■新実用聖書注解454-455p
<サウルの驚嘆>
サウルはすでに、ゴリヤテを倒した者を婿にすることと、その父の家を自由にし、税を課さないこととを公約していた(25)。まずアブネルに、そして次にダビデ本人に、その父の名を尋ねたのはそのためであると言われる(L・E・ホーダー、D・F・ペイン、H・M・ウォルフ)。
ダビデはすでに音楽療法士として、また武器持ちとしてサウルに仕えていたので、サウルは彼の父エッサイの名を聞いたことはあったが(16:18)、余り印象に残っていなかったようである。
■BIBLEnavi262p
ダビデはサウルの目の前で何度も竪琴を弾いていたにもかかわらず、サウルはダビデのことをよく知らなかったようだ。あるいは、不安定な精神状態のため、サウルはダビデがそうとわからなかったのかもしれない。
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■clay解説全文
ダビデの戦略
驚くべき勝利
ダビデの戦略に注目しましょう。
(1)彼はすばやく戦場に走って行き、ゴリヤテに立ち向かいました。ここには、恐れのかけらも見えません。彼は先制攻撃を仕かけ、相手側の陣地に立ちました。
(2)ダビデは石でゴリヤテの額を打ち、その巨人を地に倒しました。完全武装したゴリヤテも、額だけは隠すことができなかったのです(あるいは、ダビデを軽蔑した彼が、顔の覆いを上げてダビデを見たのかもしれません)。
(3)地に倒れたゴリヤテは失神状態にありました。そこでダビデはゴリヤテに走り寄り、彼の剣を奪ってそれでとどめを刺し、首を切り離しました。ゴリヤテの剣が彼の首を胴体から切り離したのです。これほどの屈辱はないでしょう。
(4)これを見たペリシテの軍勢は、総崩れの状態で逃げ出しました。その日、多くのペリシテ人が、追撃したイスラエルの兵士たちに打たれ、倒れて空の鳥や野の獣のえじきとなりました。ダビデが預言したとおりです。
(5)ダビデはゴリヤテの首をエルサレムに運び、その武具は自分の天幕に運び入れました。
サウルの驚嘆(55‐58)
サウルは将軍アブネルに、ダビデの出自を尋ねています。その理由は、すでに、ゴリヤテを倒した者には娘を与え、その父の家には税を課さないと約束していたからです。彼は自分の将来の婿がどのような人物であるか、知ろうとしたのです。
しかし、アブネルはダビデが誰なのか知りませんでした。そこでサウルは直接ダビデに訊き、彼がベツレヘム人エッサイの子であることを発見します。
これまでにもサウルはダビデを知っていましたが、それは単に音楽療法士として知っていたというだけで、さほどの関心を示さなかったものと思われます。
新約聖書では、ナザレの人たちがイエスにつまずいています。それは、イエスがあまりにも近くにいたからです。サウルもそれと同じで、ダビデがあまりにも近くにいたために、その賜物と人物とを見抜くことができなかったのです。
私たちも、主のみわざがあまりにも近くで行なわれているために、その祝福が見えなくなるというようなことが起こらないように、注意しましょう。
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きょうの祈り
天の父なる神さま。日々あなたの恵みに感動して生きる者となれますように、私を助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
士師記3~4、ルカの福音書12
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2024年5月9日(木)☀23℃
さて、日も暮れてまいりました。
猫ちゃんは元気で、よく食べています。
感謝です。
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今回のclayさんのお勧め、
主のみわざがあまりにも近くで行なわれているために、その祝福が見えなくなるというようなことが起こらないように、注意しましょう。
人それぞれの受け取り方だとは思うのですが、
私も思うところがあるのです。
やはり「教会」の「礼拝」には
「恵み」が隠されていると思うのです。
「隠されている」というのは語弊があるかもしれません。
それは、集うのを「止めて」みて
わかることが多いのであります。
極端な話し、
集わなくなってみるとわかること、
今までいかに「普通」に「守られていた」ことか。
あまりに「普通」になってしまっている「恵み」。
だから、「好き嫌い」にかかわらず、
集うべきところが備えられている以上、
そこに「集う」ことをやめてはいけないのです。
あきらかに「別もの」の「集い」であると
「霊」に感じるのであれば話しは違いますが、
試練はあれど、
なにかしらの「確信」がある以上
その「霊」の集いを否定することはできません。
「裁き」は「神の家」から、と言われます。
ほんとそうかもしれません。
わたしは、何よりも
「聖霊」で思い切り祈ることのできる場所があり「礼拝」があることの幸いを思い、感謝する次第です。
完ぺきな「教会」は「地」にはない、
と知れば、
「聖書」から大きく逸脱しない所をもって
主のゆるしのうちの集いなのだと思えます。
願わくは、
我らの集いの
主より清められ喜ばれるものとなりますこと
改善されていきますこと
一人一人が引き上げられていきますこと
望んでやみません。
それぞれがそれぞれに証しし
輝いている、そんな光景を見続けたいです。
そんなこと思いました。
イエスさまは、
イエス様を慕うそれぞれに
「あなたの名は何か」
なんて お聞きにならないよね??
ハレルヤ
主イエスの御名によって
感謝いたします。
(^-^)