サム上15章①【アマレク人との戦い】「聖絶」…「義のために下される主の判断」…アブラハム契約 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

サム上15章1~3節

〔新共同訳〕

アマレク人との戦い】(1)

1サムエルサウルに言った。

主はわたしを遣わして、あなたに油を注ぎ、主の民イスラエルの王とされた

 

今、主が語られる御言葉を聞きなさい。 

 

2万軍の主はこう言われる。

イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした。 

 

3行けアマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ容赦してはならない。」

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(聖句雑感)

「滅ぼし尽くせ」

「男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも」

「容赦してはならない」

 

そう…。

これが「イスラエルの神」

我らの慕う「イエスさま」、

「聖書の神」。

 

「命」も「死」も主の御手の内にある。

 

わたしは驚いたものでした。

「聖絶」ということばに出会ったとき。

こんな概念があるのだと恐怖を覚えました。

 

新約聖書から旧約聖書へページをめくると

まるっきり違う世界を見ているようでした。

 

初期の頃は、

新約の神と旧約の神は

全く違うお方ではないのかと思うほどでした。

 

「聖絶」の神、

わたし(たち)の信じている「神」。

 

新聖書辞典を開いてみました。

823-824p

聖絶(せいぜつ)

 「ヘ」ヘーレムあるいはハーラムの訳語として、レビ記、申命記、ヨシュア記などに用いられる。原語は「閉じる」を意味するところから、一般的な用途に当てることを禁じ、神のために聖別すること、あるいは、そのささげられたものを意味した。

 

すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである(レビ27:28)

 

 申7:1-6において、7つの異邦の民の聖絶が命じられている。それは、主の聖なる民が入植地カナンの宗教によって腐敗させられないためである

したがって、神への奉納物は、ここでは、

 

忌みきらうべきもの(申:26)のろわれるべきもの滅ぼし尽くされるべきもの根絶やしにして除くべきものを意味している。

 

 カナンに入って最初の町エリコを聖絶すべき戦いにおいて、アカンは主のために聖絶し……聖絶のものに手を出すな(ヨシ6:17-18)との命令に背き、全イスラエルに災いをもたらした。そして彼自身が聖絶のものとなった(参照申7:26)

 

 このような聖絶の目的は、先住民が「その神々に行っていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主に対して罪を犯すことのないため」と説明されている(申20:18)

 

 「ヘ」ヘーレムに70人訳当てた「ギ」アナセーマは、新約聖書において、強いのろいの表現、共同体からの除名を意味する用語として用いられている(Ⅰコリ16:22,ガラ1:8-9)。このことばは、誓約において、その誓いを破った場合、どのようなのろいが降りかかってもよいという固い誓いを意味している(使23:14)

 

新約時代のもとでは、旧約のような聖絶の戦いはあり得ないが、キリスト者は聖なる神の民として聖なる者となるべきであるという聖別の生活原理は使徒たちによってしばしば勧告されている(

Ⅰテサ4:3-7,Ⅱテモ2:19-21,Ⅰペテ1:15-16等)

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「殺す」ということは、

神の掟「十戒」にも規定されている。

「汝、殺すなかれ」

「殺すな」…です。

 

「十戒(十のことば)」の第6のことば。

「殺してはならない」。

 

一見、「聖絶」も「殺す」も

いっしょくたに思えてしまう。

 

「聖絶」は「ヘ」ヘーレム。

十戒の「殺す」は「ヘ」ラーツァフ。

 

新実用聖書注解213pで説明しています。

<第6戒「殺してはならない」>

この戒めを理解する上で大切なのは、<殺>すという語の意味である。「ヘ」ラーツァフは、血の報復を求めるような殺人という意味から、憎しみや悪意といった個人の感情に基づいて加えられる暴力的行為という広い意味まであるが、動物を殺害することや戦争における殺人には用いられない。また、殺人に用いられる手段は問わない。

 

大切なことは、この戒めも他のものと同じように、ヤハウェとの契約の法であることである。

 

つまり、ヤハウェとの契約に基づいて形成される共同体の中での犯罪が問題となるのである。殺意の有無、あるいは報復的なものか否かということは関係なく、主であるヤハウェが契約共同体に与えた命が損なわれることが、この戒めの禁止の対象となる

 

戦争と死刑は契約共同体の法としてヤハウェによって認められており、合法である故に、第6戒の禁止の対象とはならない。戦争と死刑については、第6戒の言語の狭い含意からだけでなく、聖書の全体から考えなければならない。

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新聖書辞典990pの説明。

第6のことば

人命の尊重を命じることばで、ここで使われている「ヘ」ラーツァフ(出20:2-17,約45回)の用例は、不法な反共同体的な殺人、私刑からの人命保護を意図していると考えられる。動機づけの句がないということは、命の尊さが自明の理だからである。

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なんとなく、

見えてくるのは…、

私(たち)は「被造物」ということ。

あらためて認識させられる感じです。

 

「ヤハウェの契約の共同体」、

そこに置かれている「命」をこんなにも

ヤハウェは愛されているのか、という風にも思えました。

 

多分、「世」の人々には理解しがたいかもしれない。

「神」じゃない!と敬遠されてしまうのかもしれない。

でも、

「聖絶」は聖書の神の論理。

 

そもそも「ノアの箱舟」の時代、

地上の人命は、ノアの家族8人のみを残して全滅させられた。

そもそも、「人類」は滅びる運命にあった。

 

「人」の前に、ではなく、

「神」の前に「尊し」とされる「命」となるために、一つの道が用意された。イエス・キリスト。

 

「聖絶」の意味を今一度探ると、

そこには神の峻厳と慈愛が垣間見えてくるようにも感じます。

 

「聖絶」の目的は、「あなたがたが、あなたがたの神、主に対して罪を犯すことのないため」とあります。「死」も「命」もすべては主の御手の中にあることを覚えるとき、我らをいかにもして救わんとする主の憐れみと慈しみに慰められるように思います。

 

実際、主イエスは、陰(ヨミ)に下ってくださった。

ノアの時代、地上から「聖絶」された霊魂のもとに下ってくださった、と聖書にはあります。これ、どういうことだろうと思う。

 

「聖書」の神の「人」に対するご計画と御心の深く測り知れないことを思い、いつまでもその深遠を思い巡らし、浸っていたい気になります。

 

神の峻厳と慈愛を見よ。

ロマ書にパウロ先生が残された言葉。

 

「峻厳」の極み、

「慈愛」の極み。

だれも、それを知り得ることなどできやしない。

だからこそ、願い慕い追い求めてしまう。

 

最高の存在、われらの「神」。

ばんざい、ハレルヤ…。

と、勝手に感激して雑感。

 

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解説を見てみました。

 

新実用聖書注解450p

遊牧の民アマレク人は、エサウの子孫であった(創36:12)

 

この民は神を畏れることをせず、出エジプトの祭、疲れて弱っていたイスラエルの民を背後から襲い、落後者を切り倒すという卑劣な行為に出た(出17:8-16,申25:17-19)

 

その事件から、すでに2百年ほど経過していたが、ここで万軍の主は、その刑罰としての<聖絶>(3)サウルに命じられた。つまり、神へのささげ物として、容赦なく滅ぼし尽くす命令を与えられたのである。

 

これは、イスラエルの民が、カナンの地に侵入する前夜に、その地に住む7つの民に対して、神が命じられたものと同様であった(申7:1-6)

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BIBLEnavi258p

神はなぜこのように完全な破壊を命じられたのだろうか。

アマレク人は、奇襲を行うテロリストの一味だった彼らは他民族を攻撃し、その富と家族を奪うことによって生活していた。アマレク人はイスラエル人が約束の地に入るとき最初にイスラエル人を攻撃した民族であり、その後もあらゆる機会に乗じてイスラエルを襲撃し続けた。

 

神はアマレク人が存在する限り、イスラエル人は約束の地で平和に暮らすことができないと知っておられたまた、彼らの腐敗した偶像礼拝によってイスラエル人とご自分との関係が脅威にさらされることも知っておられたイスラエル人の身体と魂を守る唯一の方法は。この好戦的な民族と、偶像を含めたその所有物を滅ぼし尽くすことだけであった

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clay解説全文

万軍の主の命令

特権に伴う責務

サムエル記第一15章は、なぜサウルが決定的に王としての資格を奪われることになったのかを解説した章です

 

サウルはすでに、13:8~14最初の失敗を犯していましたが、この章に出てくる第二の失敗は、彼が王としてふさわしくないことを決定的に証明するものとなりました。


サムエルはサウルに主の命令を伝えます。「主は私を遣わして、あなたに油をそそぎ、その民イスラエルの王とされた。今、主の言われることを聞きなさい」。

 

この命令は主から特権と祝福を受けた者には、それに伴う責務があることを教えています

 

王としての油注ぎを受けたのだから、主の命令を忠実に実行せよというのがそれです

 

あなたは、祝福に伴う責務について考えたことがありますか

 

アマレクを聖絶せよ

主はサウルに、アマレクを聖絶せよとお命じになりました。つまり、人間も家畜も生かしておいてはならないというのです。

 

(1)この命令は、アブラハム契約を前提に考えなければ理解できないものです

 

契約の民イスラエルを祝福する者は祝福を受け、イスラエルをのろう者はのろわれるというのが、その契約の中の一条項です。

 

(2)遊牧の民アマレク人は、エサウの子孫でした(創世記36:12)。彼らは、エジプトを出て荒野を旅するイスラエルの民を背後から襲い、落伍者を切り崩すという卑劣な行為に出ました(出エジプト記17:8~16、申命記25:17~19)。これは、大いに主を怒らせました

 

(3)その事件から、すでに400年ほど経過していましたが、主はそれを記憶しておられました。そして、アマレク人への罰として、彼らを聖絶することをサウルに命じられたのです。

 

この命令は、アブラハム契約の条項とアマレク人たちの悪行を前提にしなければ、容認しがたいことです


アマレク人が滅ぼされるまでに400年の時間が経過しています主はアマレク人たちの罪が満ちるのを待っておられたのです

 

主の裁きは不可解で不完全なものだと思う人がいるなら、その人は主の愛と忍耐とを誤解しています

 

主が下される判断は完全で、義の行為以外の何ものでもありません

 

主の命令に従うことを、特にイスラエルを祝福することを学びましょう

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きょうの祈り

天の父なる神さま。祝福を受けた者には、責任が伴いますどうか私が使命を全うできますように、知恵と力で満たしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

申命記31~32、ルカの福音書1

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2024年4月2日(火)☁26℃湿度75%

 

「聖絶」が「アブラハム契約」が前提!

ありがとうございます。そうだったのですね。

「アマレク人たちの罪が満ちるまで」時を待つ。

その時間は「悔い改め」を選択することもできたのですよね。

実際には、「悪」はどんどんエスカレートするのみですね。

 

今の世も昔の世も変わらない。

歴史が教えてくれる。

 

clayさんのお勧め。

主の裁きは不可解で不完全なものだと思う人がいるなら、その人は主の愛と忍耐とを誤解しています

アーメンです。

主が下される判断は完全で、

義の行為以外の何ものでもありません

(アーメン)

 

ハレルヤ

常に喜び絶えず祈り

凡てのこと感謝できますように。

主イエス・キリストの御名によって

祈ります。アーメン

(^-^)