サムエル記上10章9~16節
〔新共同訳〕
【サウル 油を注がれて王となる】(6)
9サウルがサムエルと別れて帰途についたとき、神はサウルの心を新たにされた。
以上のしるしはすべてその日に起こった。
10ギブアに入ると、預言者の一団が彼を迎え、神の霊が彼に激しく降り、サウルは彼らのただ中で預言する状態になった。
11以前からサウルを知っていた者はだれでも、彼が預言者と一緒になって預言するのを見て、互いに言った。
「キシュの息子に何が起こったのだ。
サウルもまた預言者の仲間か。」
12そこにいた一人がそれを受けて言った。
「この人たちの父は一体誰だろう。」こうしてそれは、「サウルもまた預言者の仲間か」ということわざになった。
13サウルは預言する状態からさめると、聖なる高台へ行った。
14サウルのおじがサウルと従者に言った。
「お前たちはどこへ行っていたのだ。」
サウルは答えた。
「ろばを捜しに行きましたが、見つからなかったので、サムエルのもとに行きました。」
15サウルのおじは言った。
「サムエルがお前たちに何と言ったか、話しなさい。」
16サウルはおじに答えた。
「ろばは見つかったと教えてくれました。」
だがサウルは、
サムエルの語った王位のことについては、
おじに話さなかった。
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(聖句雑感)
「神の霊が彼に激しく降り、
サウルは彼らのただ中で預言する状態になった」
とあります。また
「サウルは預言する状態からさめると」
ともあります。
「預言する」「神の霊」は
一方的に降ってきて、
酔わせるような状態になるようです。
神の預言の霊は「さめる」。
海の波が満ちては引いていくように、
「さめる」のですネ。
それゆえにこそ
抗い得ない”力”のようなものを感じます。
キリスト者も主の臨在に「酔う」。
満たされる、という経験をしていきます。
それとはまた「別」のものなのでしょうか?
新聖書辞典を開いてみました。
とても長くなりますが、
抜粋して記録させて頂きました。
■新聖書辞典1455-1456p
<預言>
(1)聖書における預言は、聖霊によって示された神の啓示を意味する。
新約聖書では、預言はすべてのキリスト者が求めるべき聖霊の賜物の一つに教えられている(Ⅰコリ14:1,5.39)。
預言は常に人が器として用いられるが、
啓示された事柄はキリスト者の心に神の働きとして受け止められる。
したがって、単純に、次のように表現されている。
「聖霊が……言われた」(使徒13:2)
「聖霊が……私にはっきりとあかしされて」(使徒20:23)
「御霊が諸教会に言われること……」(黙2:29)等である。
しかし、預言は人間性を排除する恍惚状態ではなく、思考力を働かせた秩序だったことばである(Ⅰコリ14:31)。
旧約時代には、一般に預言者と言われる特定の人だけに預言の賜物が与えられたが、新約時代には、預言の霊はすべての人に約束され(ヨエ2:28-29/3:1-2,使2:16-18)。事実、教会の中にそのことが起こった(使21:9,Ⅰコリ12-14章)。
(2)預言の形態は、
●神のことばの直接的啓示である場合(ゼカ1:1)、また、
●夢や幻(民12:6)、
●夜の幻(創46:2,ダニ2:19)の中で示される場合、
●預言に結びついた幻(イザ1:1,エレ:11-19)、また
●説明的ことばに伴う比喩的振舞い(イザ20:2,エレ27:2,エゼ12:3-7,ホセ1:2-9,使21:11)として示される場合、また、
●使信を書き記せと命じられる場合(イザ8:1,30:8,エレ30:2)などがある。
(3)預言の範囲は、過去・現在・未来に及ぶ。
創造の記事(創1章)は預言的回顧として受け止められる。現在のこととしては、預言は人の心のうちを明らかにし(参照Ⅰコリ14:24-25)、他者の心を見抜くことを可能にする(参照ルカ7:39,ヨハネ4:17-19)。また、霊が神からのものかどうかを見分ける(参照Ⅰコリ14:29,Ⅰヨハ4:1)。未来は預言のおもな領域である。ただ単に旧約の預言が新約で明らかになったことだけでなく、新約の預言にも未来に関するものがある(使11:27-28,20:23)。
(4)預言の使命は、そのために召された教師が神の真理を知識として伝えることにある。
すなわち、キリスト者たちに、今求められている行動、決断のために具体的な指導を与えることであり、その場合、同時に神の意志に従うことが求められる。そして、それは聖霊の権威によってなされる(ヨハ16:13)。
パウロは、預言の目的は、教会の徳を高め、勧めをなし、慰めることとしている(Ⅰコリ14:3,31)。
しかし、本物に見える偽の預言もあることが警告されている。
私たちはそれが神からの霊であるかどうかを試し、見分けなければならない(Ⅰヨハ4:1-3)。
確かに、預言には限界がある。
私たちは神の知識の一部分しか知り得ないし語り得ないのである(Ⅰコリ13:9)。
<預言者>
1.「預言者」の用語と意味
預言者は「予見者」(「ヘ」ローエ、Ⅰサム9:9)、「先見者」(「ヘ」ホーゼ、アモ7:12)とも呼ばれるが、「預言者」(「ヘ」ナービー)という言い方が一般的である。
(略)
本質的には、旧約聖書に関するかぎり「(神の)代言者」という基本概念を持っていると考えるのが妥当である。すなわち、神のことばを「預かる者」という意味が第一義的であり、「予告者」という意味はあくまでも第二義的である。(略)
2.聖書的「預言者」理解
最も基本的には、モーセの例から理解することができる。神がモーセをその兄アロンと共に神のことばの代言者とされたこと(出4:10-17)、神に召されて預言者となったモーセが預言的に真の預言者としてのキリストを示して語ったこと(申18:18,参照使3:22,7:37)、および申34:10の証言は、モーセが預言者の「ひな型」的存在であることを示している。その点からすれば、申18:18は「預言者」の定義とも言える。
※申命記18:18(新共同訳)※
わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。
すなわち、預言者とは、
(1)「わたし」と言われる神によって立てられ、用いられる者
(2)「同胞のうちから」とあるようにその民の中から召される者
(3)「彼らのため」すなわちその民を導くために起こされる者
(4)「ことばを授けよう」とあるように、神から預けられた神のことばを語る代言者
(5)「命じることをみな、彼らに告げる」とあるように、何をも恐れず神から命じられたことばすべてを、そのまま民に語る者である。
3.預言者と歴史的背景(略)
4.預言者の霊的経験
すでに述べたように、預言者職における主導権は、預言者自身にあるのではない。預言者は召された者、呼び出された者、選び分かたれた者であり、その主権はあくまで神御自身にある。それゆえ、預言者の意識、または霊的経験の中には、何らかの意味でその職責についての神意識があると言わなければならない。その意識を巡って、一般に2つの見解がある。
(1)預言者意識(prophetic consciousnessまたはprophetic identification)と呼ばれる見解であり、神の霊の働きかけにより、自分は預言者とされたのであるという自覚、自意識であり、職業意識とも言えるものである。それゆえ預言者たちは、正常な個人的性格を喪失することなく行動し得るとの見解である。
(2)異常的恍惚狂信的心理状態(abnormal ecstatic experience)と呼ばれる見解である。心理学、精神医学、特に深層心理学の観点から、宗教経験としての心理現象面から預言者の意識と行動を理解しようとする。それゆえ、預言者たちは、正常な心理状態ではなく、異常で狂信的で、あまり関連性のない断片的なことばを発すると主張する。端的に言えば、心理学的預言者理解である。
5.偽預言者の問題
宗教には常に真の奉仕者と偽りの奉仕者があるようで、旧約聖書においても、神に召されたことを自覚して神の代言者として活躍した真の預言者のほかに、偽預言者と呼ばれる人々がいたことを否定することはできない。彼らは自分勝手に人の喜ぶようなことばかり語り、そのことばに真実はないのである。彼らは主の御名を使ってさえ偽りを預言した(エレ23:15-40)。
偽預言者への警告は、彼らに惑わされないようにと、古くはモーセを通して与えられている(参照申13:1-5/13:2-6)。
新約聖書においても偽預言者は、人を惑わす者として警告されている(マタ7:15-16,22-23,Ⅱペテ2:1)。
6.預言者とメシヤ預言(略)
7.新約聖書における預言者
聖書神学的観点からすれば、「預言者」は旧約聖書において理解されるのが妥当と考えられる。それゆえ、旧約聖書の啓示内容の成就と考えられる新約聖書における「預言者」の概念は、メシヤ預言の成就としてのイエス・キリストとの関連において表されている。
一般には、バプテスマのヨハネが、旧約における預言者に似た存在として、特にメシヤ来臨の最後の道備えをする者として理解されている(マラ4:5-6/3:23-24,マタ1:9-14,マコ:2-8,ルカ:76)。
キリスト御自身は、旧約における預言を成就するために来られたことを明示された(マタ5:17)。新約聖書はその証言でもある(参照ロマ16:25-26)。
職責としての「預言者」の位置は、教会に仕えるものとして新約聖書において維持されている(使13:1,Ⅰコリ12:28,エペ:20,3:5,4:11,黙18:20,24等)。
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(雑感つづき…)
「預言者の霊的経験」の項で紹介された「異常的恍惚狂信的心理状態(abnormal ecstatic experience)」と解釈する頭の良い人々も多くいらっしゃるのですね。こればかりは、まさに「経験」しなければわからないことですね。美味しいカレーも食べてみなければわからないし、美味しいコヒー☕も飲まなければその味も香りも楽しめません。だからこそ、「賜物」と言われるゆえんですね、きっと。
聖書の中でも、
ハンナさんも使徒たちも
「酔っぱらい」に間違われています。
はたからみれば、
神を求めて、或は神の霊によって
祈らされる状態は、
”正常”な状態には見えないのかもしれませんね。
そういえば、
先日の礼拝で読まれた箇所がありました。
エレミヤ書20:9(新共同訳)
主の名を口にすまい
もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、わたしの心の中
骨の中に閉じ込められて
火のように燃え上がります。
押さえつけておこうとして
わたしは疲れ果てました、
わたしの負けです。
主のことばは「閉じ込められて」はおけない。
「火のように燃え上がり」骨をもきしらせる。
なんとすごい表現でしょうかと思いました。
神さまはおっしゃいました。
わたしは「熱情の神」。
神に熱情によって解き放たれる。
それが「預言」の状態なのかもしれません。
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「預言の霊」を得たサウルさんは、神さまによって「心を新たにされた」。なんと素晴らしいことでしょう。そして、賢い「知恵」と「分別」も与えられています。
サウルさんは、「サムエルはなんと言ったんだい?」なんて興味深気に執拗な感じ?で尋ねてくる「おじ」をうまくかわしました。「ろばは見つかったと教えてくれました。」「だがサウルは、サムエルの語った王位のことについては、おじに話さなかった。」賢くて慎重で知恵ある姿に感じます。
今、私たちは、主イエスさまが来られた後の時代を生きている。それぞれに主イエスの「御霊」を与えられていますから幸いです。
そして、再臨を待つ世代。
ヨエルの預言の成就を見る時代に置かれている。
ヨエル書3章(新共同訳)
【神の霊の降臨】
1その後
わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し
老人は夢を見、若者は幻を見る。
2その日、わたしは
奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。
3天と地に、しるしを示す。
それは、血と水と煙の柱である。
4主の日、大いなる恐るべき日が来る前に
太陽は闇に、月は血に変わる。
5しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。
主が言われたように
シオンの山、エルサレムには逃れ場があり
主が呼ばれる残りの者はそこにいる。
「主の日」は「恐るべき日」、
されど「主の御名を呼ぶ者はすべて救われる」とありますから感謝です。
ルカ福音書11:13
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。
(アーメン)
臆することなく、
この故に我らは憐れみを受けんが爲
また機に合ふ助けとなる恵みを得んがために、
憚らずして恵みの御座に来るべし
(ヘブル4:16)
われらの前に置かれている
恵みにあずかるために
はばかることなく
「求めよ、さらば与えられん」
「まして天の父は、求むる者に聖霊を賜はざらんや」!
(アーメン)
主から頂いている「聖霊」の尊さを思い、
あらためて感謝する次第です。
「聖霊」を悲しませるような
そんな生き方はくれぐれも慎むべきなのだな、
と改めて教えられる思いでした。
(__)
(自分のこと棚にあげて、コリントの信者さんたちのことアレコレいえませんが、反面教師として学ばせて頂ければ幸いですネ。)
ハレルヤ
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解説を見てみます。
■BIBLEnavi251p
預言者は神のみことばを語る人である。
神は多くの預言者に特定の出来事を予告させたが、神が預言者たちに最も望まれたことは、民が神に忠実に生きるよう教え励ますことであった。
サウルの友人たちが、サウルの口から霊感を受けたことばを聞いたとき、彼らは「サウルもまた、預言者のひとりなのか」と叫んだ。これは、世俗的なサウルが敬虔になったことへの驚きであった。
「サウルは熱心な信仰を持つようになったのか」というような意味である。
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■clay解説全文
神の霊による預言
〔預言の成就〕
サムエルの三つの預言は、その日のうちにすべて成就しました。その中では、最後のものが一番重要でした。それで、第3の預言の成就について詳細に解説されているのです。
(1)サウルはギブアで預言者の一団に会い、そこで神の霊の注ぎを受けます。この預言者の集団は、サムエルが設立した預言者訓練機関で学んでいた者たちでしょう。
(2)神の霊を受けたとたんに、サウル自身が預言をし始めます。その変わりようがあまりにも劇的であったため、以前から彼を知っていた者たちは、驚き呆れてこう言います。「キシュの息子は、いったいどうしたことか。サウルもまた預言者のひとりなのか」。しまいには、「サウルもまた預言者のひとりなのか」ということわざが生まれるほどでした。
(3)このことわざには、敬意を含んだ驚きと、軽蔑を含んだ驚きの両方の感情が含まれています。それほどに、サウルは変化したのです。
〔叔父との対話〕
サウルの叔父は、帰宅したサウルに、それまでの探索の様子について質問します。このときサウルは、雌ろばについての預言だけを知らせ、自分が王として油注がれたということについては沈黙を守りました。
彼の考えは、事態の進展を神とサムエルに委ね、自分は状況が開かれるのを見ながら行動すればよいというものだったのでしょう。
サウルの変化ぶりを、過大評価してはなりません。それは永遠に続く霊的変化ではなく、一時的、かつ社会的な意味での変化でした。
使徒サウロ(後にパウロ)もまた劇的変化を経験しました。信者を迫害していた彼が急にイエスを宣べ伝えるのを聞いた人々はみな、驚いてこう言っています。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか」(使徒9:21)。
サウルとサウロは同名で、ともにベニヤミン族出身、しかもともに大きな変化を体験しています。
しかし、両者の変化の内容は、大いに異なりました。
再度言いますが、大切なのは「新生体験」です。
あなたはキリストを信じ、霊的生まれ変わりを体験しましたか。
もしまだなら、今すぐ神に祈りましょう。
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きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。主イエスを私の救い主、人生の主として信じます。私を新しくしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
民数記29~30、マタイの福音書16
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2024年3月13日(水)☀&☁19℃
今日は「引用」が長くなりました。
以前から、思うところもありました。
「コリント教会」は霊的賜物にすぐれていましたが、しかし、そこでの人間模様と秩序の乱れには驚きます。それが「聖書」に隠すところなく記されているのにも驚きます。
「霊の賜物」と「人格」とか「徳」と呼べるものとは「=」ではないのだな、と思えます。でも、「救われている」人々なのですヨネ。キリストの贖いの血は注がれています。聖霊による維新、
「聖霊によるバプテスマ」を受けた人々のはず。みな、「主の名による水の洗礼」を受けて「教会」に集う異邦人たち。「パリサイ」的なものとはまた別の次元の悪しき習慣や性質を感じます。
「聖くある」ということはこんなにも難しいことなのだな、とコリント教会の人々を見て思います。とともに、現代に生きる私たちにも十分に示唆を与えてくれます。人間はどんなに時代を経ても根本的に変わっていないのだとも教えられます。
聖書の神さまの教えを生きる、
それは「聖霊」なしにはとことん無理なのかもしれません。
ガラテヤ書のみ言葉思い出しますネ。
ガラテヤ書5:16(新共同訳)
わたしが言いたいのは、そういうことです。
霊の導きに従って歩みなさい。
そうすれば、決して
肉の欲望を満足させるようなことはありません。
ガラテヤ書5:22-26
霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
(アーメン)
私たちはすでに
キリスト・イエスのもの、
となっていますから
ありがとうございます。
ハレルヤ
尊き主イエスの御名を崇めて感謝します。
今日も主のみことばをありがとうございました。
(^.^)