サムエル記上7章7~11節
〔新共同訳〕
【イスラエルの指導者サムエル】(3)
7イスラエルの人々がミツパに集まっていると聞いて、ペリシテの領主たちはイスラエルに攻め上って来た。イスラエルの人々はそのことを聞き、ペリシテ軍を恐れて、 8サムエルに乞うた。
「どうか黙っていないでください。主が我々をペリシテ人の手から救ってくださるように、我々の神、主に助けを求めて叫んでください。」
9サムエルはまだ乳離れしない小羊一匹を取り、焼き尽くす献げ物として主にささげ、イスラエルのため主に助けを求めて叫んだ。主は彼に答えられた。
10サムエルが焼き尽くす献げ物をささげている間に、ペリシテ軍はイスラエルに戦いを挑んで来たが、主がこの日、ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ、彼らを混乱に陥れられたので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。
11イスラエルの兵はミツパを出てペリシテ人を追い、彼らを討ってベト・カルの下まで行った。
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(聖句雑感)
今回の箇所とは
見当違いかもしれませんが、
「出る釘は打たれる」とかってあります。
「出鼻をくじく」とかもよく聞きます。
ミツパに集合しているイスラエルの情報を得て、すぐさま動く敵軍ペリシテ。20年を経ても交戦意欲は衰えません。相手が臨戦態勢をとらないうちに攻め込む敵軍ペリシテ。軍事力に自信満々な感じです。「神の箱」にはしてやられても、イスラエル軍はチョロいとタカをくくっていたのかもしれませんね。戦いは先手必勝ですものね。
それにしても、「焼き尽くす献げ物」が焼き尽くされない間に攻め込もうとする敵軍ペリシテ。イスラエルの弱点って、この頃から現代までもかわらない感じに思えます。現在のイスラエルも「主」との大切なお交わりの日に「敵」に攻め込まれ続けていいます。今も昔もイスラエルの「敵」はまったく変わらない手法ですネ。
主は立ち上がり、「ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ、彼らを混乱に陥れられた」。「自然」を従わせる「神」です。
この「神」さまが味方なら、ホント、何も恐れることはありませんね。
20年前、イスラエル軍は自分勝手な行動で、無理やり「神の箱」を戦場に持って来ましたが、大敗しました。今回は、神の人サムエルを通して、まずは「主」に「助けを求めて叫んだ」。
まだ乳離れしない無垢な小羊をささげて、主に呼び求める。
全焼のいけにえから立ちのぼる煙とその香は全イスラエルの叫びとなって御前に届く。
主の求められる方法。
そして、主は動いてくださった。
それが、敵に「隙」を与えてしまうことになっても、なおさら、それゆえに「主」は動いてくださる。
「主の方法」を知り行うことって大切なんですね。
「主」ご自身が先頭にたってくださる。
なんと心強いことだろう。
「主」の方法を知って
主とともに歩む人生ってダイナミックですね。
きっと。
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解説を見てみます。
■新実用聖書注解441p
ペリシテ人は、祈りのために集まったイスラエル人の集会を戦闘のための結集と誤解し、先手を打って攻撃して来たので、イスラエル人は恐れ、サムエルに熱心な祈りを続けるよう願い求めた(7-8)。サムエルはそれに応じ、いけにえをささげて主に叫び求めた。主はその祈りに答えられた(9)。
このように、彼らが神に近付いている最中にペリシテの攻撃が始まったが、この時、主は雷鳴を用いて、ペリシテ軍を混乱させ、イスラエルに大勝利を与えられた(10-11)。
この箇所では、祈りを「叫び」と呼んでいることが印象的である。求めが切実になってくると、また事柄が切迫してくると、祈りはどうしても叫びになる。そして、その大声の祈りに、主も大声(雷鳴)で応答されたのである。
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■牧師の書斎
リンク➡サムエル記上7章
- サムエルは最後の士師として(つまり、王が登場する前の指導者として)、イスラエルの人々に霊的な改革を断行しました。具体的には、イスラエルの全家をして、偶像礼拝の罪を悔い改めさせ、心を尽くして神に仕えさせました。しかしその背景には20年という長きにわたる主の臨在の現われの希薄さによってもたらされたイスラエル全体の嘆きを含んだ霊的渇望があったと言えます。7章2節にはイスラエルの全家が主を「慕い求めていた」(「ナーハー」נָהָה)とあります。それゆえにサムエルは霊的指導者としての士師としての務めをなすことができたと言えます。またサムエルは神への「祈り」と「いけにえ」をささげる祭司としての務めもしています。
- ペリシテ人との戦いにおいてサムエルは勝利をもたらし、ペリシテ人によって奪われた町々を取り戻しました。13節に「サムエルの生きている間、主の手がペリシテ人を防いでいた。」とあります。有能な霊的指導者の有無が大きな影響力を与えることがわかります。
2. 神の介入の仕方は、イスラエルに神への信頼を呼び起こさせる
- ペリシテ人に対する戦いにおいて、イスラエルがしたことと言えば「悔い改めと心から神に仕える」という改革を断行したことでした。それゆえ、神がペリシテ人との戦いにおいて立ち上がって下さいましたが、その介入の仕方は自然界を通してでした。これまでのイスラエルの戦いにおける神の介入の仕方としてしばしば自然界の現象によるものが見られます。
- カナンのシセラとの戦いにおいても、敵の戦力はきわめて破壊力のある戦車でしたが、それがまったく使えない状況をもたらしたのは雨による川の氾濫でした(士師記4~5章)。ここでも戦いの際に、「大きな雷鳴の轟き」による敵の撹乱でした。果たして戦いのたびごとに、まさに「その日」に、こうした想定外の自然界の脅威が必ず起こり得るのか。この世的な目に見える安心材料は何一つないのです。ここにイスラエルの神に対する信頼のテストがあります。
- この世的には全く安心できない戦略です。しかしイスラエルにおいては、神への信頼こそ勝利の秘訣でした。その信頼による勝利を記念して、サムエルはひとつの石を取ってミツパとシェンの間に置き、「エベン・エゼル」(=エベネゼル、「助けの石」という意味)と名づけました(7:12)。
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■clay解説全文
ペリシテへの勝利
〔ペリシテの侵攻〕
リバイバルが起こると、サタンの攻撃も激しくなります。その例を、きょうの箇所に見ることができます。
(1)イスラエルの全家がミツパで集会を開いているのを見て、ペリシテ人は恐れました。それを、戦争の準備と見たペリシテ人は、先制攻撃を仕掛けてきました。
(2)イスラエル人は恐れ、サムエルに熱心にとりなしの祈りを捧げるように願い求めます。
(3)サムエルはその願いに応えて、いけにえとともに祈りを主に捧げます。それは祈りというよりは、叫びそのものでした。
(4)サムエルがいけにえを捧げていたちょうどその時、イスラエルに対するペリシテの攻撃が始まりました。
(5)この時、主は大きな雷鳴をとどろかせ、ペリシテ軍を混乱させ、イスラエルに大勝利を与えました。
〔私たちへの教訓〕
この戦いから霊的教訓を学びましょう。
(1)私たちが主に近づこうとする時、それを阻止し、妨害しようとする力が必ず働きます。
それは悪霊の力、サタンの力です。
ここでは、ペリシテ人が「サタン(悪霊)の型」として描かれています。
(2)ペリシテ人の侵攻を恐れたイスラエル人は、サムエルに祈ってくれるように願い求めました。
私たちも、サタン(悪霊)の攻撃を受けた時、主イエスに助けを求めることができます。
復活した主イエスは、今、父なる神の前で私たちのために大祭司としてとりなしをしていてくださいます。
「(キリストは)ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」(ヘブル7:25)。なんという慰めでしょうか。
(3)主は祈りに答え、イスラエルに大勝利を与えてくださいました。
私たちにも同じように勝利を与えてくださいます。
使徒ヨハネはこう書いています。
「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです」(Ⅰヨハネ4:4)。
あなたは霊的成長を誰かに妨害されているように感じていますか。
それなら、勝利が与えられるように、大祭司である主イエスに叫び求めましょう。
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きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。どうか敵の策略を見抜き、私の内におられる聖霊なる神の力によって勝利することができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
民数記7~8、詩篇17~18
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2024年3月2日(土)☔14℃
昨日から「雨」です。
風は強く、雨音はわずかですが、
昨日から「雨」と呼べる「雨」が降っています。
気温もぐんとさがりました。
感謝です。
水溜めが癒されるには
まだまだな量かもしれませんが、
とにかく「雨」降りました。
ハレルヤ
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さて、
ペリシテ軍の「誤解」から
この戦いは始まったのですね。
そして、ペリシテ軍は
イスラエルを恐れていた、のですね。
ナルホド、でした。
「牧師の書斎」さんは、
「この世的には全く安心できない戦略」
「神への信頼」が大勝利の秘訣、と
解説しています。(アーメン)
また、「clay」さんでは
ズバリと「悪霊の攻撃」に言及です。
あぁ、そうかぁ、と。
私(たち)が純粋に
「主」に戻ろうとすると
いち早く真っ先に、
それを阻止妨害する力が働くのですね。
わたしたちの「気分」も多分左右している?
「聖書」を読みたくない
「教会」に行きたくない
「祈り」はめんどう?!
そうなったらホント危険信号ですね。
正直、はや、私に忍び寄っています。
サムエルさんが士師として立ちあがれた背景には、20年を経て最高潮に達したイスラエルの人の霊的渇望にあり、彼らの「主を慕い求める」本気度にあった、ということですネ。
求める者がいて、それに応える者がいる。
求められてこそ、主は応える。
求め続ける、こと。
ただひたすらに「生活」のために求め続けて来た者にとって、それらが充足すると、はて、次は何を求めるべきかわからない。そんなことになりませんか。正直、私がそうのようです。
人生の多くの時間が、日々の糧を得るための試行錯誤。
「貧しい」ということは、そういうことですよね。
でも、主は確かに 必要を満たしてくださいました。
これからも そうなのだと思います。
なんと 感謝なことでしょう。
次に、求めるべきことは 何なのでしょう。
「自分のことばかりでなく」!
と教えられているような気もします。
でも、「自分のことばかり」に生きてきた私に残った「実」はあまりにもお粗末なような気がしています。予想を超えたはるかな「お粗末さ」です。
だから、ここで「主」をすら見失ったら大変なのです。
今の私にとって「イエスさま」を取り上げられたら一体何が残るでしょう。
わがままの極みかもしれませんが、
私は「イエスさま」を取り上げられてたまるもんですか、と思います。必死で「イエスさま」についていきたいと願う次第。
「イエスさま」に助けて頂きたいと願う次第。
主イエスさまの豊かさに与りたいと日々心の底から願う次第。
ハレルヤ
尊き主イエスの御名によりて
今日の御言葉に感謝いたします。
主イエスさまの聖名を讃えます。
ハレルヤ
主よ 憐れみ給え
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またつらつらと
余計なこと書いてしまったような気がしますが、
本音の本音なのでありますから、
臆することなく、送信、です。