サムエル記上7章12~14節
〔新共同訳〕
【イスラエルの指導者サムエル】(4)
12サムエルは石を一つ取ってミツパとシェンの間に置き、「今まで、主は我々を助けてくださった」と言って、それをエベン・エゼル(助けの石)と名付けた。
13ペリシテ人は鎮められ、二度とイスラエルの国境を侵すことはなかった。サムエルの時代を通して、主の手はペリシテ人を抑えていた。
14ペリシテ人がイスラエルから奪い取っていた町々は、エクロンからガトまで再びイスラエルのものとなった。イスラエルはその周辺の村々をもペリシテ人の手から救った。
イスラエルとアモリ人との間は平和であった。
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(聖句雑感)
「サムエルの時代を通して、
主の手はペリシテ人を抑えていた」
新改訳では
「サムエルの生きている間、
【主】の手がペリシテ人を防いでいた」とあります。
主の御心に適う人が治める国の平和を思います。
そして
「イスラエルはその周辺の村々をも
ペリシテ人の手から救った」とあります。
神の守りと祝福のある国の隣人であることは
なんと幸いだろうと思えます。
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私的にも 身近に
霊的に善きものを感じる方がいます。
その方たちにはとても好感がもてます。
たとえ 会話を交わすほどの方ではなくても
遠目にも その方から伝わってくるものがあります。
受けとめ方は人それぞれで
他の人には感じられなくても
私には感じられる、というように。
これも感受する側の不思議なのですが。
私的に、そんな霊性を見聞きすると
とても嬉しくなります。励まされます。
「教会」という集いの中にあって
彼、彼女らから流れでる「霊性」。
彼、彼女らの主に向きあう「心」が
滲みでてくるようです。
感謝だな、と思います。
その霊性に触れると またこちらも癒されます。
ほんとに 感謝です。
案外、彼、彼女らは苦しみの中にあるかもしれません。
でも、その真っすぐに主のみを見上げている姿は決して苦しみにあるとは思えず、むしろ「主から愛されている」と思えるほどなのです。本人はそんな影響を私に与えているとは思いもよらないでしょう。なにしろ「あいさつ」すらめったにすることのない距離の存在なのです。
「教会」にはいろんな人が
いろんな経緯で集められている?のでしょう。
その深い部分は主のみぞ知る。
でも、かれらの醸し出すものは確かに私に
励ましと慰めと喜びをもたらしてくれます。
彼らが主の前に座しているだけで流れ出るもの。
とても尊いです。
主から愛されている、とつい思えてしま人々。
感謝です。
そういえば、雅歌にありましたね。
雅歌2:14(新共同訳)
岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ
姿を見せ、声を聞かせておくれ。
お前の声は快く、お前の姿は愛らしい。
同文語訳
磐間にをり
断崖(ガケ)の匿處(カクレドコロ)にをるわが鳩よ
我になんぢの面(カオ)を見させよ
なんぢの聲(コエ)をきかしめよ
なんぢの聲は愛らしく
なんぢの面はうるはし
文語訳は「直」な感じがして響きますネ。
「キリストの香り」
そんな言葉も浮かびました。
「主を愛する人」の無垢な香りは
それに触れる者の魂をも癒してくれる気がします。
ハレルヤ
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解説を見てみます。
■新実用聖書注解441p
(略)
この「エベン・エゼル」言葉は、代々の神の民に受け継がれ、主に対する賛美の歌詞としても用いられている。なお、この石が据えられた場所は、4:1の「エベン・エゼル」とは異なる場所と思われる。こうしてペリシテ人はかつてのような力を失い、サムエルの生きている間、イスラエルは主の御手に守られ続ける(13)。<エクロン>や<ガテ>は、国境近くの町であったが、もう一度、他の町々と共にイスラエルに返還された(14)。
■BIBLEnavi248p
イスラエル人はペリシテ人との間に大きな問題を抱えていたが、神が彼らを救い出された。これに応えて、民は神の大いなる救いと解放を記念して、大きな石碑を立てた。
困難のとき、私たちは現在の問題を乗り越えるため、過去に起こった決定的な転換点を思い出す必要があるかもしれない。
記念するものがあれば、神が過去に下さった勝利を思い出し、現在に必要な確信と強さを得る手掛かりとなることがある。
ヨシュアの時代、エモリ人/アモリ人はヨルダン川の両岸にある丘陵地帯に広がって住み、死海対岸のヨルダン川東岸を中心に占領していた強力な民族であった。しかしこの節では、「エモリ人」とはイスラエル人以外でカナンに住む民族を指す一般的な名称である。
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■clay解説全文
エベン・エゼル
〔記念の石〕
ペリシテ人に対する勝利は、「主の勝利」でした。そこでサムエルは、そのことを記念し、主に感謝を表わすためにミツパとシェンの間に一つの石を置きました。
その石は、「エベン・エゼル」と名付けられました。「助けの石」という意味です。そしてサムエルは、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と証言しました。
この「エベン・エゼル」という言葉は、代々の神の民が解放を経験した時に語る合言葉のようなものとなりました。
あなたは主が与えてくださった勝利を記憶し、主に感謝を表わしていますか。
使徒パウロは、主の守りによって支えられてきたことをいつも思い出しては、感謝の言葉を口にしていました。
「こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。‥‥」(使徒26:22)。
〔四つの祝福〕
これ以降、
イスラエルに四つの祝福が訪れます。
(1)40年にわたるペリシテ人の支配が終わりました。
(2)イスラエルは失っていた領土を取り返しました。エクロンからガテに至る地域がそれです。エクロンとガテは内陸部にあったペリシテの町です。その周辺の地域がイスラエルに戻ってきたのです。
(3)サムエルが生きている間、ペリシテ人との戦いが止みました。再開されるのは、サウル王の時代に入ってからです。
(4)イスラエル人とエモリ人との間に平和が訪れました。つまり、イスラエルの東の国境地帯も平和であったということです。
この時期イスラエルは、西のペリシテ人とも、東のエモリ人とも戦う必要のない平穏な時代を過ごしたのです。
ミツパでのリバイバル(宗教改革)は主を喜ばせ、結果としてイスラエルに平穏な時代をもたらしました。
箴言に、次のような知恵のことばが書かれていますが、その真理が成就したのです。
「恵みとまことによって、咎は贖われる。主を恐れることによって、人は悪を離れる。主は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる」(16:6~7)。
平穏で祝福に満ちた人生を望む人は、まず主と和らぐことを求めるべきです。
あなたは、主の計画に敵対していませんか。
それなら、主との和解を祈り求めましょう。
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きょうの祈り
天の父なる神さま。あなたのみこころに沿って歩ませてください。その結果、平穏で祝福に満ちた人生を味わうことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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年間聖書通読
民数記9~10、箴言10
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2024年3月3日(日)☀18℃
晴れあがった空が広がっています。
昨日までの雨がいっぺんで蒸発しそうです。
それでもやはり
「お天気」の日曜は気持ちのいいものです。
昨日の安息日礼拝。
講壇から嬉しい一言が飛び出しました。
「乳と蜜の流れる礼拝」。
なんという形容でしょうか。
アーメン!と思いました。
ほんとうにそうであってほしいと思いました。
感謝でした。
ところで、
最近はある事情があって
妹の送迎で集会へ向かうことができません。
頑張って一人でドライブしています。
だんだん慣れてきました。
片道約8kmの道のりですが、
ついつい 途中のコンビニで
コヒー☕を買ってしまうのであります。
最近は、三つのコンビニチェーンのレジで
外国人の若い男女ばかりを目にします。
あまりに日本語がお上手なので尋ねると
「ネパールから!」とのお返事がほとんど。
「行ったことありますかっ?!」と
勢いのよい質問返しをくらってしまいました。
そう言えば、最近、
国道で事故があったように記憶しています。
「ネパール」から訪沖した夫婦が亡くなりました。
沖縄に滞在している「子」に会うための来冲です。
なんたることだろう、と思いました。
親子の再会が一瞬にして悲しみにかわります。
遠い「ネパール」からなぜに
こんなにたくさんの人々がやってきているのでしょう。
幸いを得るための旅路であったはずとは思います。
「移民」問題でゆれる日本ですが、
「命」が守られ、
平和が守られていきますようにと思います。
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今日のお勧めにありました。
平穏で祝福に満ちた人生を望む人は、まず主と和らぐことを求めるべきです。
世界にはいろんな「宗教」がありますけれど、
私(たち)は、キリスト・イエスを伝えるのみです。
日本にやってくる多くの異国人。
いろんな「宗教」を携えてやってくるのでしょう。
日本人自体も全国民のわずか1%程度のキリスト者です。
それでも、日本の地にて「福音」に触れる外国の方が増えてくださると嬉しいことだなと思えます。
尊き主イエスの御名を崇めて
今日のみことばに感謝いたします。
常に喜び絶えず祈り
凡てのこと感謝いたします。
ハレルヤ