神の箱の帰還(3) 「誤った判断」…「祝福の源を自らの手で放棄したベテ・シェメシュの人々」 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

サムエル記上6章19~21節

〔新共同訳〕

神の箱の帰還】(3)

19主はベト・シェメシュの人々を打たれた主の箱の中をのぞいたからである主は五万のうち七十人の民を打たれた主が民に大きな打撃を与えられたので民は喪に服した。 

 

20ベト・シェメシュの人々は言った。

この聖なる神、主の御前に誰が立つことができようか我々のもとから誰のもとへ行っていただこうか。」 

 

21彼らはキルヤト・エアリムの住民に使者を送って言った。「ペリシテ人が主の箱を返してきました。下って来て、主の箱をあなたがたのもとに担ぎ上ってください。」

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(聖句雑感)

一難去ってまた一難。

「えぇ~っ!」という感じですネ。

 

ここは「祭司」の町。

神の箱の取り扱いのプロたちのはず。

新共同訳では、神の箱の中を「覗いた」とあります。

新改訳では「見た」とあります。

 

通常であれば、至聖所の奥に置かれ、

年に1度だけ大祭司のみが対面できます。

幕屋の移動の際、契約の箱を運搬できるのは、

レビ族のケハテ氏族のみ。

 

民数記4:17-20(新共同訳)

17主はモーセとアロンに仰せになった。

18あなたたちは、

ケハトの諸氏族を

レビ人の中から絶やしてはならない

 

19彼らが神聖なものに近づいたとき、

死ぬことなく命を保つために

彼らのためにこうしなさい

 

すなわち、

アロンとその子らが行って、

彼らの一人一人を

それぞれの仕事と荷物に割り振る

 

20そうすれば、

彼らが中に入っても

聖なるものをかいま見ることはなく、

死を招くことはない

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最後の士師サムエルから遡ること約200年超、

すでに定められていたのですね。

「聖なるもの」を「かいまみる」者は「死」ぬ。

そのために、

アロンとその子らの家系がレビ人を監督するシステム。

 

主に「聖所」を扱うケハテ族

主に「幕」を扱うゲルション族、

主に「躯体」を扱うメラリ族、

幕屋の移動の際には、ケハテ氏族の

アロンの直系の子らの指示が要求された。

 

神さまは、なぜそこまでに厳格さを求めたのだろう。

「人」はそれほどまでに「罪」深く、神の聖さからどれだけほど遠い存在だったのだろう。

 

ベト・シェメシュの人々は、

レビ人ではあったけれども、「聖所」に関すること、特に「契約の箱」についての取り扱いについての知識がなかったのかもしれませんね?それとも、伝え聞いてはいたが、好奇心には勝てなかった?ということなのでしょうか。

この聖なる神、主の御前に誰が立つことができようか我々のもとから誰のもとへ行っていただこうか

新共同訳では5万のうち70人が死亡したとありますが、新改訳では5万70人が死亡とあります。どちらでしょうか?

 

「キルヤト・エアリム」の人々は、ベト・シェメシュの人々とどう違うのでしょうか?

 

新聖書辞典444pによると、

「キルヤト・アリムとも呼ばれ、ギブオン人に属した4つの町の1つであったが、ユダ部族の相続地となった(ヨシ15:60)。かつてはバアル礼拝の中心地であったと考えられている。ベニヤミン部族とユダ部族の相続地域の境界線にあり(ヨシ18:14-15)、王国時代には神の箱がこの町のアビナダブの家に20年間保管されていた(Ⅰサム6-7章)」とあります。

 

そこに住む人々もまた「祭司」なる人々だったのでしょうか?

 

いろいろ勉強不足、通読不足で繋がりません。

💦

 

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解説を見てみます。

 

新実用聖書注解440p

<ベテ・シェメシュの民へのさばき>

 かつてモーセは、レビ人の中のケハテ族に対し、神の箱の運び方について厳重な指示を与えたが、最後に、「彼らが入って行って、一目でも聖なるものを見て死なないためである」と警告した(民:20)

 

 ベテ・シェメシュは、イスラエルの、しかも祭司の町であったが、神の箱については、一人一人が敬虔な態度でこれに近付くことが求められていた

 

箱の中を見た住民は、その不敬虔故に打たれた

 

文語訳と口語訳は、打たれた人の人数を「70人」としている。ヘブル語本文では、「70人」の後に「5万人」という語が記されているが、幾つかの写本ではこの語が欠けている。新共同訳では、この語を採用した上で「5万のうち70人」と訳し、人数が多すぎるという問題も解決している。「~のうち」という語は本文にはないが、これが原意に近い解釈と思われる

 

 打たれたベテ・シェメシュの人々は、今更ながら聖なる神の御前に恐れおののき、自分たちでは神の箱を見守る責任を負いきれないと考え、北東十数kmの所に住むキルヤテ・エアリムの住民にその任をゆだねることを決意し、使者を送った(21)

BIBLEnavi247p

契約の箱を覗き込んだ人々はなぜ殺されたのか

 

イスラエル人は契約の箱を偶像化していた。彼らは神の力を制御し、自分たちの目的(戦争に勝つこと)に利用しようとした。しかし全世界の主は人間に制御される方ではない。

 

イスラエル人をご自分の力から守るため、神は至聖所にある聖なる物を見ることすら禁じられた、さもなくば死ぬと(民数4:20)レビ人だけが箱を運ぶのを許されていた

 

彼らの不従順のため、神は約束しておられたさばきを実行されたのである

 

 神はその御力を民が自分の目的で利用できると思うことを許されなかった。神は民がご自分の警告を軽んじて、ご臨在の中へ軽率に入ることをお許しになることができなかった

 

神は不敬、不従順、敗北の流れが繰り返され、すべてを最初からやり直すことを望まれなかったのだ

 

神はベテ・シェメシュの人々を非情に殺すことを望んではおられなかった。

 

神が彼らを殺されたのは、イスラエル人全体が神を無視するようそそのかされることになるからであった

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■clay解説全文

打たれたベテ・シェメシュの人たち

主の箱の中を見る

ベテ・シェメシュは祭司の町でしたが、ここでも、ペリシテの町々で起こったのと同じように主の裁きが下っています。しかし、裁きが下った理由は全く異なります。


(1)ベテ・シェメシュの人たちは、主の箱の中を見ました。

(2)これは、明らかにモーセの律法違反でした。

 

かつてモーセは、レビ人の中のケハテ族に対して、主の箱の取り扱いについて厳重な指示を与えていました。そして最後に、「彼らがはいって行って、一目でも聖なるものを見て死なないためである」と警告していました(民数記4:20)。

 

(3)ベテ・シェメシュの人たちは、神の前に不敬虔な態度を見せたため、神の裁きが彼らの上に下りました

 

(4)打たれた人数について、ヘブル語本文では「70人」の後に「5万人」という語が付いています。そのため、新改訳聖書では「主は、その民5万70人を打たれた」となっています。しかし、ベテ・シェメシュは小さな町であり、その数字はあまりにも大き過ぎます。文語訳と口語訳は、「5万人」という語を写本上の誤記と判断し、打たれた人数を「70人」としています。新共同訳では、「5万のうち70人」と訳しています。私見では、「70人」が正解だと思います。

 

誤った判断

主の箱の中を見たのは過ちでしたが、その後もベテ・シェメシュの人たちは誤った判断を下しています

 

(1)彼らは、「だれが、この聖なる神、主の前に立ちえようか」と言い、別の場所に主の箱を移動させようとします

 

(2)彼らはキルヤテ・エアリムの住民に使者を送り、ペリシテ人が返してよこした主の箱を運び上ってほしいと申し入れます

 

(3)これが愚かな判断である理由は祝福の源を自らの手で放棄しているからです

 

もし彼らが敬虔な態度で主の箱を守っていたなら、彼らの町は大いに祝されたはずです

 

彼らが為すべきことは悔い改めであって、主の箱を追放することではありません


多くの人たちがこれと同じ過ちを犯しています

 

神のことばによって罪を指摘されたとき、その人たちは悔い改めようとはせずに、神のことばそのものを遠ざけようとします

 

あなたは、ベテ・シェメシュの人たちの誤りから何を学びますか

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きょうの祈り

聖なる神よ。どうかあなたを恐れかしこみ、敬虔な生涯を歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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年間聖書通読

民数記1~2、マタイの福音書6

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2024年2月28日(水)☀&☁20℃

 

早朝はヒンヤリが続いています。

雨は未だに降ってくれません。

 

プロ野球球団のキャンプも終りのようです。

この小さな沖縄に一軍選手が勢揃いするのですから、見学に行かない手はないのですが、私はといえば未だに行ったことはありません。一度近くの球場で行われたオープン戦を観戦しました。

すごく気分転換になりました。やはり生での観戦はいいものだなぁと思いました。ビール片手に!だれかまた誘ってくれたら喜んで行きますけどね!さすがにお一人様はなぁ、と思ってしまうこの頃です。(テニスであれば別ですけどネ)

 

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今日も、clayさんに解説に感謝でした。

ほぉ~そうかぁ、そうだなぁ、と

自分では決して気づけないことを教えてくれます。

 

70人もの人が打たれてしまった。

それは恐怖でしかありません。

「悔い改め」よりもまず、この「災い」からいち早く身を守りたくなるでしょう。それには、「遠ざける」ことが手っ取り早いです。他者におしつけることが一番楽です。でもそれは「祝福の源」をみすみす手放すことになる、のですネ。

 

たとえは悪いのですが、

昨今の占いブーム。

よくこう言う人います。

「いいことだけ信じて、悪いことは無視するわ。信じない」

なるほど。これってどういう心理なのだろう。わかる気もするのですが、これが「身勝手」というものの典型にも思えてきます。だったらそもそも「占う」必要はないのです。

 

神さまは、イスラエルの民の前に

「祝福」と「呪い」をおきました。

 

申命記11:26-28(新共同訳)

26見よ、わたしは今日、あなたたちのまえに祝福と呪いを置く

 

27あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、28もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。

出エジプト記20:5-6(新共同訳)

5あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代まで問うが、6わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

新改訳では、「熱情の神」は「ねたむ神」となっております。

 

「祝福」だけいいわ、「呪い」はいらない、

とは誰もが思うことですけどネ。そうはいかないのですヨネ。

 

この神の「熱い愛」を受けたる者らは、いかんせん。

逃れようがないのではないですか?

まして、むしろ、この神さまから見捨てられてしまった暁には、

その熱い熱い熱量が突如としていっぺんになくなってしまうのですから、その直後に襲われるであろう「空虚」感たるや凄まじいのだろうとも思えてしまいます。

 

「人」は完全に神さまからの「信用」を無くしてしまったところからの出発ですものネ。「人」の性質がどういうものか、神さまはよくご存知なわけですものネ。

 

旧約聖書を読んでいると、

ほんとうに「イエスさま」なの?と思ってしまうときもありますが、よくよく触れていくと、随所に新約聖書でイエスさまが語られたお言葉の原形がそこかしこに散りばめられていることもわかってきます。

 

イエスさま登場以降のわたし(たち)の世代は、ついついイエスさまに甘えてしまっているのかもしれませんね。されど、裁きは常に「神の家」から始まるのですから、そうそう、ゆるゆるでもいられない気もします。裁かれる者はすでにイエスさまの発した「言葉」によって裁かれているともあります。「ことば」を大切に丁寧に扱っていけましたら幸いと思います。

 

今回はそんなことつらつろと思いました。

そんなモノ思いに耽っても

神さまのことを考えることは楽しからずや?

 

イエスさま ありがとうございます。

尊き主イエスの御名によって

今日のみことばに感謝いたします。

 

主のご愛を悟る者とさせてください。

ハレルヤ

 

今日一日の

元気も与えてください。

 

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追記※訂正※

歴代誌上6章39-45にありました。

ケハトの氏族に属するアロンの子孫には、

彼らに当たったくじによって、~、

44~、ベト・シェメシュとその放牧地

とありました。

 

ベト・シュメシュの人々は、大祭司アロンの子孫だったのですね。すると、神の箱の取り扱いについては他のレビ人たちよりも知識があったはず?エリの2人の息子たちを思い出してしまいますネ。この時代、「神の権威」はそれを重んずべき人々からも軽視されてしまっていたのですネ。?

 

士師の時代、

それぞれがそれぞれの思うように生きた、と記憶しています。

 

なんだか、現代の

「民主主義」を唱える世界と重なってしまいます。

 

ハレルヤ

 

聖書って面白いです。

なんだか

教えられますから感謝です。