サムエル記上6章10~18節
〔新共同訳〕
【神の箱の帰還】(2)
10人々はそのとおりに行った。
乳を飲ませている二頭の雌牛を連れて来て車につなぎ、子牛を小屋に閉じ込めた。
11主の箱を車に載せ、金で造ったねずみとはれ物の模型を入れた箱も載せた。
12雌牛は、ベト・シェメシュに通じる一筋の広い道をまっすぐに進んで行った。歩きながら鳴いたが、右にも左にもそれなかった。ペリシテの領主たちは、ベト・シェメシュの国境まで後をつけて行った。
13ベト・シェメシュの人々は谷あいの平野で小麦を刈り入れていたが、目を上げると主の箱が見えた。彼らはそれを見て喜んだ。
14車はベト・シェメシュの人ヨシュアの畑に着くと、そこに止まった。そこには大きな石があったので、人々は車に使われた木材を割り、雌牛を焼き尽くす献げ物として主にささげた。
15レビ人たちは主の箱と、その脇に置いてあった金の品物の入った箱とを下ろし、大きな石の上に置いた。その日ベト・シェメシュの人々は、焼き尽くす献げ物や、他のいけにえを主にささげた。
16ペリシテの五人の領主はこれを見届けると、その日のうちにエクロンへ戻った。
17ペリシテ人が、主に賠償の献げ物として送った金のはれ物は、アシュドドのために一つ、ガザのために一つ、アシュケロンのために一つ、ガトのために一つ、エクロンのために一つである。
18金のねずみの数は、ペリシテの砦の町から田舎の村まで、五人の領主に属するペリシテ人のすべての町の数に合っていた。
主の箱が置かれた大きな石は、今日でも、ベト・シェメシュの人ヨシュアの畑にある。
***********************************
(聖句雑感)
「焼き尽くす献げ物」は、無傷の雄牛ではなかった?
レビ記1:3a
牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、
無傷の雄をささげる。
レビ記3:1a
献げ物を和解の献げ物とするときは、
牛であれば、雄であれ雌であれ、
無傷の牛を主にささげる。
乳を飲む子牛の母牛のいけにえを、我等の主は喜ばれるだろうか? そんなことを ふと思ってしまいました。
子牛と引き離された雌牛2頭。
「歩きながら泣いたが、右にも左にもそれなかった」とあります。せつなく感じます。言葉を持たない動物であっても、母子の情が与えられている。「産まれた命」への責任を持っている。
そんな「本能」よりも「主に従う」2頭の母牛たちは、まだ一度も「軛」を経験したことはなかった。
レビ人の村であるというベト・シェメシュに牛たちが放たれたのもまた不思議なことに思えます。
13ベト・シェメシュの人々は谷あいの平野で小麦を刈り入れていたが、目を上げると主の箱が見えた。彼らはそれを見て喜んだ。
時は小麦の刈り入れの頃。
新聖書辞典を開きました。
■新聖書辞典379p
<刈り入れの祭り>
古代パレスチナでは大切な穀物の収穫期が2期あった。大麦の収穫期と小麦の収穫期で、それぞれの初穂が祭司のもとに持ってこられた(レビ23:10,17)。
小麦の収穫を祝うこの刈り入れの祭りは、大麦の初穂奉献から7週間後に行われたので七週の祭りとも呼ばれた(出23:16,レビ1:15-21,申16:9-12)。
この日に奉納物となる2個のパン(レビ23:17)にはパン種が入っていた。
■同1376p
※小麦
(略)、
小麦を材料としてのパンを食用とする民族は世界的であり、イスラエルにおいても昔から、この小麦粉にパン種(酵母)を入れて各種のパンを作り、あるいはパン種を入れないパンを作った。
イスラエルでは 先の雨の後の11月か12月に種が蒔かれ、寒い冬を越してから、5月ないし7月に、大麦よりやや遅れて収穫される。彼らの常食は、この小麦で作るパンで、時には穂のまま、いり麦や焼き麦にして食べることもあった。(略)
■同520-521p
※五旬節
五旬節とは50日目の祭日という意味で、大麦の初穂の束をささげる日から数えて50日目に行われた(レビ23:15以下)ことから生まれたギリシャ語訳のペンテーコスタ・ヘーメラスの訳語である。ペンテコステとも言う。
五旬節、すなわち7週間経過するところから「七週の祭り」とも呼ばれていた(出34:22,申16:10)。
立ち穂に鎌が入れられて始まった大麦の収穫の終わりを意味し(申16:9)、いよいよ小麦の収穫となるのである(出23:16)。「初穂の日」(民28:25)とも呼ばれている。
この祭りは3大祭の一つとして(申16:16)、ソロモン時代にも守られていたようである(Ⅱ歴8:13)。
その日にはいかなる労働もしてはならず、聖なる会合が開かれて、イスラエル人のすべての男子は主の前に出ることが義務づけられた(レビ23:21,申16:16)。
新しい小麦粉にパン種を入れて焼いた2つのパンが、和解のいけにえと共に祭司によって主に向かって揺り動かされた(レビ23:17-20)。
敬虔なイスラエル人はこの日を喜びの日として(申16:16)、穀物収穫の恵みに対する感謝と主に対する恐れを表現した(エレ5:24)。
ささげられる罪のためのいけにえと和解のいけにえは、贖われた人々の感謝と恐れを表すものであったが、さらに神の契約の民として、エジプトから解放されたことを記念する祭りでもあった(申16:12)。
いけにえをささげる根底には、罪の除去と神との和解の概念があるのである。
後に五旬節はシナイにおける律法の賦与を記念するものと考えられるようになった。
(略)
新約聖書では五旬節に関して、3つの言及がある。
(1)使2:1。
キリストの復活と昇天の後、五旬節の日に弟子たちはエルサレムの家に集まっており、天からのしるしを受けた。聖霊が下り、新しいいのち、力、そして恵みがもたらされた。それゆえ五旬節は聖霊降臨日とも呼ばれる。
(2)使20:16。
パウロは五旬節の日にはエルサレムにいたいと、旅路を急いだ(紀元56-27年頃)。
(3)Ⅰコリ16:8。
パウロは五旬節までエペソに滞在するつもりでいた(紀元54-55年頃)。伝道のための扉が開かれていたからである。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
だいぶ長い引用になってしまいましたが、
何か、見えてきそうな気がします。
この箇所の2匹の雌牛。軛、揺り動かされる車。そして契約の箱。罪の象徴かのような金の造り物はパン種のようにも思えます(私的に)。そして、小麦の収穫。ベト・シェメシュの人々の喜び。大きな石は祭壇の代わりのよう。全焼と和解の献げもの。
神の箱は、7か月もの間ペリシテの地に放置されていた。
神さまの忍耐。なんという良い頃合いに「神」は戻ってこられたのでしょうか、と思ってしまいました。
それは、「小麦」の収穫の時。
神のなさることの「偶然」は、
わたしたちを喜ばせてくださる「必然」。
神さまは御自らがお定めになった
「7」というルールに込められた奥深さを
我等に教えてくださっているかのようです。
そんな風に思えて
ちょっと感動してしまいました。
深読みし過ぎかもしれませんね。
でも なんとなくな発見でした。
ハレルヤ
~~~~~~~~~~~~~~
解説を見てみます。
■新実用聖書注解440p
結局、2頭の雌牛は、子牛恋しさからか<鳴きながら>(12)、しかし、子牛のほうには行かずに、右にも左にも曲がらず、真っすぐベテ・シェメシュに突き進んだ。誰の目にもはっきりと、これは主の御手による導きであることがわかった。ペリシテ人の領主たちは、自ら足を運んで、その事実の証人となった(12)。
エクロンの東方約10kmにあるベテ・シェメシュは祭司に与えられた町であり(ヨシ21:16)、車はその町に住むヨシュアの畑に行き、そこで止まった(14)。
ちょうど小麦の刈り入れに忙しかったベテ・シェメシュの人々は、神の箱の姿を見て喜び、早速、車を薪とし、雌牛をいけにえとして主にささげた(15)。
これらは「くびきをつけたことのない」(7)牛であり、いけにえとしてふさわしかったのである(参照 民19:2)。
鞍袋に入れられた5つの金の腫物は、それぞれペリシテの五大都市(アシュドデ、ガザ、アシュケロン、エクロン)のためであり(17)、5つの金のねずみは、5人の領主がそれぞれ治める、その周辺の町々のためであった(18)。
※民数記19:2(新共同訳)
主の命じる教えの規定は次のとおりである。
イスラエルの人々に告げて、まだ背に軛を負ったことがなく、無傷で、欠陥のない赤毛の雌牛を連れて来させなさい。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
■clay解説全文
神の箱の帰還
〔主に従う雌牛〕
ペリシテ人たちは、新しい車に主の箱と罪過のためのいけにえ(金でできた腫物の像とねずみの像)を載せ、2頭の雌牛にそれを引かせました。
(1)雌牛は、子牛恋しさに鳴きながら進み続けました。雌牛には母性本能が働いていたのです。
(2)しかし雌牛は、母性本能よりも、創造主に従いました。驚くべきことに、子牛のほうには行かず、分かれ道に来ても曲らず、まっすぐにベテ・シェメシュに向かって行ったのです。
(3)ペリシテの領主たちはベテ・シェメシュの国境まであとをついて行きました。彼らの目には、イスラエルの神が雌牛を導いていることがはっきりとわかりました。
〔ベテ・シェメシュの人々の喜び〕
ベテ・シェメシュは、エクロンの東方約10kmにある国境の町です。
(1)牛車はベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑に行き、そこで止まりました。
(2)ベテ・シェメシュの人々は、ソレクの谷と言われる所で小麦の刈り入れをしていました。時期的には、今の5月から6月頃です。
(3)神の箱を見た人々は、大いに喜びました。彼らは、収穫を喜ぶ以上に、神の箱の帰還を喜びました。
(4)彼らは早速、車を割って薪とし、その雌牛を全焼のいけにえとして主に捧げました。イスラエル人たちは、いけにえには金の像ではなく、血の犠牲が必要であることを知っていたのです。
(5)ベテ・シェメシュで全焼のいけにえを捧げることの当否について考えてみましょう。
幕屋があったシロの町はすでに破壊されていましたので、祭司がいけにえを捧げる限り、ベテ・シェメシュであっても許されました。
またこの雌牛は、「くびきをつけたことのない牛」でしたので、いけにえとして適格でした。
(6)ベテ・シェメシュの人々は、それ以外にもいけにえを主に捧げました。5人のペリシテの領主たちは、この様子を見て、その日のうちにエクロンに帰りました。
預言者イザヤは、後になってイスラエルの民に関してこう預言しています。
「牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない」(イザヤ書1:3)。
私たちも、本能や自分の感情ではなく、創造主であり救い主である方に従いましょう。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
きょうの祈り
創造主よ。あなたの摂理、導きに喜んで従うことができますように、私を助けてください。2頭の雌牛から教訓を学ばせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
年間聖書通読
レビ記26~27、マタイの福音書5
*****************************************
2024年2月27日(火)☀20℃
良いお天気です。
雨は降らねど・・
やはり気持ちのいいものです。
昨日で2月中にやっておきべきこと
終ったかなと思います。
感謝でした。
今日からは、3月に目を向けて
「急がば回れ」の心を思い出し、
一つ一つ丁寧に取り組めましたら幸い。
ところで今朝は、
猫ちゃんに驚かされました。
なんと、
「ごは~ん」!と聞こえたのです。
猫も喋れるんかい??!
「ごはん?ごはん?」と話しかけてると
「ごは~ん」と返すようになった猫ちゃん。
あくまでも猫語ですけどね。
面白いものです。
~~~~~~~~~~~~~~
今回の箇所は しょっぱなから切ない。
ついつい泣きそうになります。
主に従わせられた2頭の母牛。
「本能」は「鳴いて」子牛を思う。
されど、彼女らは 主に従う。
罪なき「被造物」の姿。
昨今の動物たちの状況。
都市やその周辺で生きる動物たち。
人間に見捨てられた動物たち。
過酷な環境で生きている動物たち。
つい思ってしまいます。
もうこんな世界は早く終わってほしい。
つい、心のうちで言ってしまいます。
「神さま 早く終わらせてください」
「命」って何だろうとわからなくなる。
「命」は神さまのもの、
どんな悲惨な「命」でも 神のもの、なのだ。
私(たち)には考えの及ばないモノなんだと思えば、
ちょっとの間は そんな思考を放棄できる。
完全に贖われた世界のなんと待ち遠しいことでしょう。
話しをもとにもどして・・、
「焼き尽くすいけにえ」として、
「軛を負ったことなく、傷のない雌牛」は、聖書通りだったのですね。「赤い雌牛」とはよく耳にしていましたが、今回の箇所にも適用されるのですね。異邦のペリシテ人の知恵さえも、結局は、神さまのルールへと導かれるのですね。
案外、わたし(たち)も、知ってか知らずかのうちに、神さまのルールに従っているときってあるのかもしれませんね。(これを摂理?って呼ぶのでしょか?)
今日のお勧めにも感謝でした。
私たちも、本能や自分の感情ではなく、創造主であり救い主である方に従いましょう。
アーメン
ハレルヤ
尊き主イエスさまの御名によって
感謝いたします。
今日も一日
常に喜び絶えず祈り
凡てのこと感謝できますよに。