マルコ福音書14章22節
(マタ26:26-30,ルカ22:15-20,Ⅰコリ11:23-25)
〔新共同訳〕
【主の晩餐】(1)
22一同が食事をしているとき、
イエスはパンを取り、
賛美の祈りを唱えて、それを裂き、
弟子たちに与えて言われた。
「取りなさい。これはわたしの体である。」
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(雑感)
今回は1節だけです。
それだけ、重みのある節なのですネ。
参照にⅠコリント11章23-25節が出てきました。
福音書以外がでてくるのはめずらしいですネ。
Ⅰコリント11:23-25
23わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、
主イエスは、引き渡される時、
パンを取り、24感謝の祈りをささげてそれを裂き、
「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
25また、食事の後で、杯も同じようにして、
「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
Ⅰコリント11:26
だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
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過ぎ越しのその日その時、
その場にいなかった使徒パウロさん。
これほど詳細に「主のパンと杯」を語ります。
「わたし自身、主から受けたもの」とあります。
聖書は「啓示」を受けた者によって記され続けた。
驚くべき書物だとあらためて思います。
イエスはパンを取り、祝福して後、
これを裂き、彼らに与えて言われた。
「取りなさい。これはわたしのからだです。」
「聖餐式」がある。
教会によっては、毎週、或は毎月1回の頻度で行われるのでしょう。(私の所属する教会は、年1回のみです。)
この「聖餐」をとる行為は、どのような基準で「数」を決め、どのような時と場所を選択するのでしょう?
聖書のこの箇所は、年1度の「過越祭」の晩餐に行われたものですネ。クリスチャンは別にしても、異邦人は「過越祭」を知りませんし、行いません。その習慣もありません。
ふと、ルカ伝に記されている、エマオ途上の2人の弟子に現れた主イエスを思いだします。復活の主イエスは、彼らとともに食事をとり、パンを裂きました。本当に不思議なエピソードです。
ルカ福音書24:28-35
28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
エマオへ下る道行きの途上、
イエスさまとの濃密な時間を過ごした二人の弟子。
全く「イエス」だと気が付かないで並んでい歩いていたのです。
もし彼らが、先を急ぐイエスさまを「無理に引き止め」なかったなら、彼らの目は開かれないままだったのでしょう?
そう思うとドキドキしてしまいますネ。
「わたしたちの心は燃えていた」と高揚する、真理への喜びを取り逃がしていたのかもしれませんネ。
イエスさまと食事の席に着き、
イエスさまが手に取られ、祝福され、裂かれたパンを受け取る。
その時、そのパンを受け取る者の「霊の目」が開かれる。
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「裂かれたパン」は「主の体」。
「あなたがたのための私の体」と主は仰る。
申命記の言葉も思い出します。
申命記8:3-4
3主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
4この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。
「人は主の口からでるすべての言葉によって生きる」
とあります。
ヨハネ福音書の始まりにこうありました。
ヨハネ福音書1:1-3
初めに言があった。
言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。
成ったもので、
言によらずに成ったものは何一つなかった。
そして、こう続きます。
ヨハネ福音書1:14
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
わたしたちはその栄光を見た。
それは父の独り子としての栄光であって、
恵みと真理とに満ちていた。
「裂かれたパン」は「主の体」。
「主の体」は「肉」となった「言(ことば)」。
そして、「言(ことば)」は「神」である。
わたしたちは、「聖餐」において、「神の言」を食べる。
人はパンだけで生きるのではなく、
人は主の口から出るすべての言によって生きる。
そして、こうあります。
ヨハネ福音書4:24
神は霊である。
だから、神を礼拝する者は、
霊と真理をもって礼拝しなければならない。
神は霊であり、言。
神なる言を食べる者は、霊なる神を拝する者とされる。
そして、「裂かれたパン」はキリストの言。
キリスト・イエスに目が開かれていく。
そう思うと、
「聖書」のことば一つ一つが至玉のように思えてきます。
ぞんざいに取り扱ったり、軽んじたりすることに、ふと怖れを感じてしまいました。
されど、
岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ
姿を見せ、声を聞かせておくれ。
----雅歌2:14---
と、主のご慈愛にこそ慰めと希望を見ます。
神の峻厳と慈愛の深きを知って
み言葉を味わい得ますように。
ハレルヤ
長い雑感となりました。
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解説を見てみます。
■clay解説全文
〔過越の食事の順序(続き)〕
過越の食事の順序について再確認します。
(1)第一の杯(感謝の杯)が配られました。
(2)次にイエスは僕の姿を取り、弟子たちの足を洗われました。
(3)それから、第二の杯(裁きの杯)が配られました。これは、福音書には記載されていませんが、当時の習慣から当然言えることです。
(4)次に、パセリを塩水に浸して食べました。その時イエスは、ユダの裏切りを予告されました。
(5)それから、種なしパンが配られます。
きょうは、種なしパンについて詳細に学びます。
〔種なしパンの意味〕
過越の食事では、
「アフィコーメンの儀式」と言われるものが行なわれていました。
食卓に亜麻布でできた袋が用意されました。
この袋の中は、三つの部分に分かれていました。
おのおのの部分に、平べったい形をした種なしパンが入れられました。合計3枚です。
これは、三位一体の神を表わしています。
真中のパンは、当然、子なる神を表わしています。
そのパンは二つに裂かれ、半分のみ食し、残りの半分は布にくるんで家のどこかに隠されました。
それからメインコースを食します。
食事が終わると、隠しておいた残りの半分のパンが持ち出され、布から出され、食されます。
つまり、「アフィコーメンの儀式」は、メインコースを挟んで前半と後半に分かれていたということです。
前半はイエスの十字架を、後半はイエスの復活を象徴しています。
イエスは、「取りなさい。これはわたしのからだです」と言われました。
「これ」とは、裂かれた種なしパンの半分のことです。
(1)このパンは、
出エジプトの出来事を記念するための種なしパンでした。
(2)このパンは、
イエスには罪がなかったことを象徴しています。
(3)このパンによって、
イエスは私たちと新しい約束を結ばれました。
このパンを食する者(イエスの十字架を信じ受け入れる者)は、罪の贖いを受けるという約束です。
あなたはこのパンを食し(十字架につけられたイエスを信じ)、サタンと罪の支配から解放されましたか。
もし確信がないなら、今、信じますと祈りましょう。
そう祈ることは、契約書にサインを押すのと同じことです。
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きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。御子イエスは、私の罪のために鞭打たれ、釘付けにされました。その打ち傷によって私は癒されました。今、主イエスを信じます。罪赦されたことを感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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2024年1月12日(金)☀19℃
本日は猫ちゃんの
4回目のワクチン接種でありました。
小さい頃は、丸一日ダウンでしたが、
今回は適度に動き回ったり休んだり。
感謝でした。
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それにしても、
「解説」に感謝です。
「アフィコーメンの儀式」。
過去に何度か目にしたかもしれませんが、
全く覚えておらず、
初めて聞き知ったような感覚です。
3つのパンのうち、
真ん中の袋に入った種無しパンを2つに裂いた、ということですネ。裂かれた半分の種無しパンがお弟子さんたちに渡された、のですネ。
教会の「聖餐式」では、
出席する人数分が、一枚のパンから裂かれていきます。
「裂かれる」というより、「ちぎる」といった感もありますネ。
千人を超える会衆となると、
当然焼かれるパンの数も一枚では足りませんネ。
まぁ、それはともかく、
「異邦人」にとっては、
その「象徴」されたるところを
しかと「受け取って」、
パンを食せばよいのですヨネ。
「聖餐」に込められたるもの
まだまだ深いところいっぱいあるのだと思います。
イエスさまが「裂かれたパン」。
一つのパンが2つになって、
前と後で食せられた。
「死」と「復活」。
初めて知りました。
感謝でした。
まだ理解の及ばないところ
よくわからないところ
多いですが、
今日の御言葉に感謝いたします。
ハレルヤ
m(_ _)m
私的に、
年一回だけの「聖餐」は淋し、
・・・と思う次第です。
どうなんでしょか。
道が開けますように。