過越の食事をする(2)「生まれてこなかった方がその者のためによかった」…パセリと塩水…神の峻厳 | 聖書と私とコーヒーと+ワン

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~「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)~

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を
あなたがたに与えることができます。(Ⅱテモテ3:15)

 

マルコ福音書14章17~21節

(マタ26:17-25,ルカ22:7-14,ヨハ13:21-30)

〔新共同訳〕

過越の食事をする】(2)

 17夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。 18一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。

 

「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」 

 

19弟子たちは心を痛めて、

「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。 

 

20イエスは言われた。

「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。 

 

21人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行くだが、人の子を裏切るその者は不幸だ生まれなかった方が、その者のためによかった。」

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(雑感)

「生まれてこなかった方が、その者のためによかった」

キツイなぁと思う。

イエスさまでもそんなことおっしゃる。

いやイエスさまから言われてしまった。

 

「生まれてこなかった方がよかった」とは、

普通なら、実の親でも子に言うことは

めったにないのだろうと思う。

 

「人の子を裏切る者は」「不幸」であり「災い」。

イスカリオテのユダという人物がますます哀れになってくる。

 

弟子達も一様に、まさか自分が裏切り者なのか、と不安がる。

皆の自信がイエスさまの一言で、一瞬にして揺らぐ。

 

イエスさまの見通す目とその言葉とは人の心を刺し貫く。

「自我」もくずれていく。

 

されど、「裏切り」は行われた。

 

イエスさまの御前にあっては、

「悪」はより「悪」に、

「善」はより「善」にと、

曖昧で中途半端なグレーゾーンは

すぐにでも本性がバレてしまうのだナ。

だから、「偽善」なんて

すぐに化けの皮が剝がれるんだな、きっと。

 

「偽善者」は「偽善者」だけが

すべてうまくいっていると思っている。

 

「聖書」によれば

すべての人は「罪人」なのだから、

他人の中に見えてくる「悪」を弾劾できない。

かえって、自身に投影された「悪」を見る。

 

人の悪を追及できる者がいるとすれば

それはその人の内に

「善」が確立されている者に許されることなのだろう。

 

 

世には様々な「悪」があるけれど、

「人の子を裏切るその者は不幸(災い)」

とまで言われるその「悪」。

 

「生まれなかった方がよかった」

と言われるその「悪」。

 

なんだろう??

悲しすぎる。

 

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解説を見てみます。

 

新実用聖書注解1384P

最後の晩餐において、裏切りが予告された

しばらくすれば、全員がイエスを見捨てて逃げることになる(50)。と、だが、中でも、ユダの裏切りは重大である

 

<いっしょに食事をしている者>(18)は、親しい友である(詩篇41:9)

 

20節には、裏切る者は<12人の中のひとりで>、しかもその者はイエスのごく近くに座り、<いっしょに鉢に浸している>。

 

たとい<人の子は……去って行>(21)くことが定められた(書いてあること)であったとしても、近しい者の裏切りは卑劣な醜悪な行為である

詩篇41:9(新改訳)

私が信頼し、

私のパンを食べた親しい友までが、

私にそむいて、かかとを上げた。

 

詩篇41:10(新共同訳)

わたしの信頼している仲間

わたしのパンを食べる者が

威張ってわたしを足げにします。

 

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BIBLEnavi995P

ユダは、イエスを裏切る当人であったが、他の弟子たちと一緒に食事をしていた。ユダはすでにイエスを裏切ろうと決心していたが冷酷な偽善的行為で、この食事の交わりを共にした

 

ユダがおこなったことにあきれることは簡単であるが、キリストへの献身を公言し、そのすぐあとで自分のいのちを守るためにキリストなど知らないと言うことも、裏切りである。

 

また、

イエスに服従しないことは

イエスの愛を否定していることになる

 

イエスを信用しないことは

イエスの真理を否定することになる

 

イエスの権威を否定することは

イエスの神性を否定していることになる

 

あなたのことばと行動は調和しているだろうか

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clay解説全文

過越の食事の順序

最後の晩餐と言われるのは、過越の食事のことです。当時は左手を床について横になった姿勢で食事をしました。

 

以下、通常の過越の食事の順序です。

(1)第一の杯が配られます。これを「感謝の杯」と呼びます。

 

(2)次に、その家の母か娘が水の入った鉢とタオルを持って回ります。食卓に着いた人たちはその水で指を洗い、タオルで拭きます

 

ヨハネの福音書13章によれば、この食事ではイエス自らがそれを行なっています。さらに、指ではなく弟子たちの足を洗っておられます

 

これは弟子たちに愛と謙遜を教えるためでしたが、イエスが僕の姿を取るのを見た弟子たちは仰天したことでしょう。

 

(3)次に、第二の杯が配られます。これを「裁きの杯」と言いますが、福音書にはこの杯への言及はありません。

 

(4)その次に、パセリを塩水に浸して食べます

 

パセリの緑色は、若さの象徴です

これは、「イスラエルがまだ若い国であったとき、神は紅海を通って彼らを救われた」ということを象徴的に表わしています

 

(5)次に、種なしパンを食べます

これは、次回詳細に学びます。

 

ユダへのことば

イエスは、すでにユダの裏切りをご存知でした。

 

第一回目の予告は、ヨハネの福音書13:21に出ています。弟子たちは、自分たちの中の誰かがイエスを裏切るようになるということを知らされました

 

きょうの箇所では、第二回目の予告が語られ、裏切り者がユダであることが明らかになります

 

わたしといっしょに鉢に浸している者です」とありますが、これは、上の(4)で説明したパセリを塩水に浸す行為です。塩水の鉢は、数人に一つの割合で置かれていましたイエスとユダとは同じ塩水の鉢にパセリを浸して食べたのです


イエスは、ユダにだけわかる形で警告を発しています

 

ユダが悔い改めることを願われたからです

 

しかしユダは、「先生。まさか私のことではないでしょう」(マタイ26:25)としらばくれています

 

悔い改めのない者には、救いの可能性は残されていません

 

イエスの前に正直に自分の罪を告白する者こそ、最後に祝福を受ける者です

 

主の恵みによりすがりましょう

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きょうの祈り

天の父なる神さま。どうか私に、柔らかい心、砕かれた心をお与えくださいあなたはそれを決して軽んじられることはありません。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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2024年1月11日(木)☁&☀18℃

 

晴れたり曇ったりのお天気です。

猫ちゃんがしきりに起しにきました。

されど、起ききれず。

ゴメンねゴメンねと声をかけると

機嫌を直してくれます。

なんとも不思議な子です。

感謝。

 

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「牧師の書斎」さんの記事です。

リンク元➡イスカリオテのユダの裏切り - 牧師の書斎 (meigata-bokushin.secret.jp)

 

 

最後の方にありました。

この疑問「生まれてこなければよかった」。

「牧師の書斎」さんも言及くださっていました。

●自分でイェシュアを引き渡す機会を狙っていたユダでしたが、食事の席でそのことをイェシュアに悟られただけでなく、「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」と言われたことで、彼の計画ではなく、神のご計画に従って、その夜にイェシュアを引き渡すことになってしまうのです。そして、夜が明けて、朝の九時には十字架につけられてしまうのですが、ユダはこのような展開になるとは夢にも思わなかったのです

 

しかし、「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った」とあります。この事実と、マタイ26章24節にある「人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです」ということばについて、最後に考えてみたいと思います。

 

●「あなたが生まれて来て良かった」、「あなたはあなたのままでいい!」ということばは人を生かしますが、「生まれて来なければよかったのです」ということばは恐ろしいことばです

 

もし聖書を開いて最初に目に留まったことばが、このことばだとしたら、恐ろしいことです

 

このことばの真意は「サタンが彼に入った」ことと無関係ではありませんサタンが入る侵入口がユダにはあったことを暗示させています

 

ユダにとっての侵入口とは「お金」です

 

マタイは富が堕落させる力をもっていることをはっきりと述べています

 

いのちの木のそのものであるイェシュアのそばにいながら、ユダは金に執着したために永遠に価値あるものを自分の意志で捨ててしまったのです

 

彼は「欲望(=原文「腹」)を神とした」ゆえに滅びを招いたのです(ピリピ3:19)

 

【新改訳2017】マタイの福音書6章19~21、24節
19 自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。
20 自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。
21 あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです
24 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません

 

【新改訳2017】マタイの福音書19章22~23節
22 青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
23 そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。」

 

2021.8.15
a:2072 t:4 y:2

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「生まれてこなければよかった」

「生まれなかった方が、その者のためにはよかった」

 

というイエスさまのお言葉には、

人には「裁き」が必ずあるのだということを教えてくださっているように感じました。

 

ヘブル9:27

また、人間にはただ一度死ぬことと、

その後に裁きを受けることが定まっているように

と聖書にはっきりと記されています。

 

もし、「生まれなかった」のなら、

「死ぬ」こともなく、死後に「裁き」を受けることもなかった。

それほどまでに、

人に課せられた「死後の裁き」は途方もないものであること、想像させます。

 

ヨハネ黙示録20:14-15

死も陰府も火の池に投げ込まれた

この火の池が第二の死である

その名が命の書に記されていない者は

火の池に投げ込まれた

「死も陰府」も「火の池」に投げ込まれる。

もう、「死んで楽になる」(?) ことすらできない。

「死」のない永遠に続く業火のみがそこにある。

永遠の苦しみ。これが「第二の死」?

 

「救い」を軽んじ、否定し、

或は無視してきた者たちへの報酬。

 

ただ、聖書には「天地創造の前に~キリストのおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです(エフェソ1:4-5)。」とあります。とても不思議なつかみどころのない感覚に陥ってしまうようになってしまうのですが、私的には、これはおそらくこれは、

創世の初めのうちより、「救いに至る道」は用意されていたのだよ、ということなのだと理解できそうです。

 

皆が皆、救われるのなら、「裁き」は必要ない。

「人」においては、初めから「救い」が計画されていた。

そしてこの「救い」は隠されている。

見えない者には見えない。見ようとしない者には見えない。

 

「人」として

生まれてこなければ、「責任」が生じない。

生まれてこなければ、善と悪にまみれない。

生まれてこなければ、何も知らない。

 

アダムとエバ以来、

人に定められてしまった「裁き」を逃れる道は、

「生まれない」こと。

 

「生まれ」なかった者に対する神さまのお取り扱いはまた、神さまがご存知なのでしょう?(聖書に書いてありますか??)

 

「人」はいかにも「霊」的な存在であること、知らされます。

「霊」なる「神」がお造りになった「人」もまた「霊」なる者。

 

でも、「生まれた」者に対する「裁き」は、すでに決定している。「裁き」の方法も「裁き」の結果、行くべき場所も決まっている。


 

「人の子を裏切る」のなら「生まれなかった」方がよかった。

 

ローマ11:22

だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい

 

神の「峻厳」を考えないといけない。

神の「慈愛」のみに甘えていてもいけない、のだ。

 

神さまのアメとムチ。

とんでもないムチがあること、忘れてはいけない。

神を畏れる、ということ正しく学ばなければいけない。

 

だから、思う。

一人の「人」を生んでしまった「親」たちへ。

「生まれなければよかった」者としないために、

どうか その手にあるうちは 

子供一人一人を

正しく育ててくださいますように。

 

「善」と「悪」の存在と

それを見極める力を持つ者に育ちますように。

「悪」に打ち勝つ「善」の力を知るように

育ちますように。

 

主は言われた、

「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と

そんな 祝福された地上生涯を送れますように。

 

そんなこと思いました。

ハレルヤ

長くなりました。

m(_ _)m