昨日、母が向こうの世界に旅立ちました。

比叡山から名古屋までのそれなりの遠距離ですが、
母の下にたどり着き、母の手を握り、そのまま5~10分ほどで逝きました。
(僕がたどり着く直前に容態が急変したらしく、昨日逝くとは誰も思っていなかったのです。)

前日も、その数日前にも行っていたので、
「待たなくていいよ。少しでも早くお母さんが楽になってくれればいいから。」
と伝えていたけど・・・やっぱり待っていてくれたのかな?


さて、
それで記事の本題としては、

自分のなかの内的な処理をするなかで、
セラピストとしてはずっと気になっていた、
「愛する人の死」による喪失感
について分からなかったこと、
また
「グリーフケア」について、
自分で大事な人を失うことで実体験をし、
感じ、分かったことがいっぱいあったのでシェアしたいと思います。

以下、覚書そのままの転載です。

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喪失感とは、
環境などによって発火された様々な脳の回路が「そこにあるべきもの」「そこに当然期待されるもの」がないことにより起こすシステムエラー・混乱のようなものだろうか?

今にそこの影から現れて話しかけてきそうな
そこの扉をあけたら座っていそうな
すぐにも玄関を開けて「ただいまー」とかいって帰ってきそうな
メールをしたら返事が返って来そうな・・・
そんな感覚が、もどかしい。


それは膨大な量の重なりあった積み木があるときに、急に最下層の積み木の1つを失ったような状態。
積み木の山は、崩れないように全て積み木の重さがかかっていく「あったはずの」積み木を探しつづけるが決して無い
という物理的には一瞬にして崩落するハズの状態が、維持してしまう、という不安定とも非現実とも、「無理」ともいえる状態。


じゃあ「その周りの積み木を取り除いてしまえばいい」か?
というと、依然として自重を支える積み木が失われた構造は維持しているので、変わらない、
またはむしろさらに混乱したり、喪失感は大きくなるだろう。




解決方法としては、
その「失われた積み木の存在」に依存しない新しい積み木の山を少しでも早急につくること。

たくさんの新しい経験をし、新しい人と出会い、新しい生活を送り「いない状態に依存した」新しい「自己」という積み木の山をつくること。


つまり「穴」は維持したままの方が案外と良いのではないか?
無理に「忘れよう」として失われたものに関わるものを消したりしないほうがいいはずだ。
失われるものは『少しでも少なく』抑えること。
思い出になるものは少しでも維持する。


とはいえ、
以前の積み木の山に替わる「十分な大きさの新しい積み木の山」ができるまでは長い時間がかかるはずだ。


穴が空いた積み木の山。
それをなるべくそのままにしながら、その構造を利用しながら横や上に別の山を作っていくイメージ。


これがグリーフケアの基本となると思う。


そこから考えると天災や事故などで短期間にたくさんのものを失った場合には、
まずは少しでも可能な限り「前の状態」を取り戻すことはグリーフケアの一つのポイントだろう。

と同時にとにかく「新しいもの」に触れ、
「新しい人」と出会い、
「新しい生活」を作り出していくこと。


あとはやっぱり「時間」の問題。
「積み重なる時間」自体もたぶん重要な積み木の一つだ。


だから小さな子供のいる家庭は幸せだ。
日々、新しい未来を作り出さざるを得ないから。
「ほっておいてもらえない」から。
「そのまま」でいられないから。
新しい環境や生活に引きずり込まれずにいられないから。



「そのまま」を『大事に維持』すること。
そして、それを『まるごと包みこんでしまう』ように新しい積み木の山を築くのだ。



たとえば、
外出するときは必ず母の部屋に向かって「いってきます」というようにすれば良い。

毎日母のご飯も用意しても良いだろう。
部屋や道具もなるべくそのままの状態にしておく。
現実的に可能な範囲で、さも母が生きているかのようにすればよい。

どうせ本当の現実ではコミュニケーションをとっていなかったり、実は「いてもいなくても一緒」のことを、人は多くしているのだから。
「いる」と思っているか、「いない」と思っているだけの差、
という部分も大きい。
だから、残せる部分は、できるだけそのまま残しておけばいい。

脳はそれで新しい回路を「穴」の上に積み重ねていくだろう。
私たちは、穴の構造を残したままで、それをありのまま「是」として「新しい積み木の山」を作り上げることができる

「外」からみて「変」でも良いではないか。
大事なのは、遺された人たちがいつも歩いていられることだ。
「外の世界」と関わっている限り、いつも人は未来へ歩いているのだから。

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グリーフケアへの参考情報:

あと、
「自分の感情にきちんと気づいてそれを認めて受容する」
ということもグリーフケアにおいては大事です。

やり方としては、自分の内面に目を向け、
「ああ、悲しいんだなあ」と気づいたら、
「悲しいなあ・・・・」とでも
「本当に愛していた」と気づいたら
「本当に愛していたよ。」などと、
声に出して、または心の中で何度も呟いていたらいいです。


だからといって、
「実際に泣くかどうか」ということは
案外関係のない問題だと思います。

泣いて済むのなら、
愛する人を失って何年も悲しみ沈んで泣いて暮らす人はいないはずです。

それに関しては、
「泣いて気持ちの整理がつくなら泣けばいい」程度の問題と思います。
1つの出来事に「終わった」というケジメをつける行為が意識上で大事なのは確かですが、
「本質」ではゼッタイにないはずです。




この記事が、
今も愛する人を失って悲しみにくれている人、
またその周りで心配している人
のお役に立てば、母もきっと喜んでくれるはずです。
ぜひ必要そうな人がいたら、どうぞこの記事をシェアしてあげてください。
人生が変わる人、

ちっとも変わらない人、

違いは、

「理屈/論理を超えた体験」

にあると思う。




そもそも「理屈・論理」というのは

僕の「頭の中」にしか存在しないものだ。




窮屈そうな人をみると、

いろいろな未知のものを自分で体験することをせず、

なんやかんやと理屈をいっている人が多いように思う。




過去を見て

僕の人生が変わった時、

いつもそこにあったのは

『理屈・論理を超えた現実』

だった。




僕が考えていた理屈は間違いだった。

「現実」はそうではなかった、
ということが分かる瞬間。






この世界には、

理屈や論理

つまり

「昔に誰かが考えたこと」

に当てはらまない現実がいっぱいある。




それを見ていくことこそが

本当の

「科学的態度」

であると思いますよ。




そうでなければ、

科学の発展なんてないのだから。




理屈でいろいろなことを否定して動かない前に、

まずは実際に体験してみましょう。




あなたの理屈や論理が本当に正しいなら

体験したあとにだって

揺らがないはずだ。




現実はいつも

私たちの「思考」という幻想を軽く飛び超えていってしまう。

それを体験していくのが

たまらない快感なのだ。




現実に生きる、

それが「自然に生きる」ということです。

よく育児本には

「子どもに怒らない」

などという話がありますが、

実際にいろいろなお母さんに会うと

どうも

「怒る」と「叱る」の違い

が分かっていないようだ、

ということが分かりましたので

今日はそれについて書きたいと思います。




・・・・なんて書いても

正直、そんなに書くことない単純なものです。

「怒る」というのは「感情」。
「叱る」というのは『行動』。


それだけ。

「怒りながら叱る人」が多いので分かりにくかったかもしれませんが、

そもそも全く違うものです。

分かってしまうと区別になんにも難しいことはありませんね。




感情的になる、

ということは、

ほぼ全て自分の問題です。




よく考えてみてください。

子どもが部屋を汚しました。

どうして「怒る」必要がある?




自分が片付けなければいけないのが面倒だ。

とか、

自分が汚れるのがイヤ!!!

だからですよね。




それはそれで別に悪いことではないんですが、

それはやっぱりアナタの問題なわけで、

それで起こった感情をぶつけられると

子どもは理由も分からずすくみあがってしまう。

それが良くない。




自分がこどもに何を教えていくか、

という方針の上で、

「これはやってはいけない」

と思うことを「叱る」。





これはむしろ

しないと

何をしたらいいか、

何をしてはいけないのか、

がわからない子になってしまいます。





単純でしょ?




叱るときに

感情的に「怒って」いたら、

「自分の中の問題」も考えましょう。

自分の問題に子どもを巻き込んでいないか?

じゃあ「自分の問題」をどうするか、は

まあ、ここからはセラピーとかの問題担ってきますね。

気づいたら、セラピーに行ったらいいですね。^^