下で
「水は高いところから低いところに流れ」
と書いたように、
それぞれの人の心にも自然の流れがある。


大きな石を転がして動かすことをイメージしてもらいたいのだが、
この大きな石、方向を間違えるとビクともしないのだが、
なぜかある方向に押すとゴロリと転がる。
こういうのが人の心にもある。

ここでは「心」と書いているが、人の心は行動と分けることができるものではないから、
「心=行動」である。

下で、
「実際の行動を見る」と書いているのはそのため。


話は戻るが、
人の心にも、ゴロリと動く方向がある。

たとえば、
Aさんに「ちょっと何々さんと会いたいんだけど・・・」というと、
その言葉が完全に終わりもしないうちから、
「いいよ、じゃあ今度連絡しとく。」
という答えが返ってくる。
そして、そのうちに「今度こっちくるんだけど、会わない?」とセッティングしてくれたりする。

でも、Bさんにいっても同じ言葉は返ってこず、
「えーと、、、、じゃあ、、、、」
と実際に何も起こることがない。

これが人の自然の心の流れだ。

Aさんは、人に人を紹介するのが「自然」だ。
それを「才能」といってもいい。
Bさんには、その自然は宿っていない。

これを無理してやれるようにするのが一般的な「西洋的なコーチング」や「セラピー」となるわけだけど、
やはり自然に逆らってもこれが結局うまくいかない。
一時的には「できる」ようになっても、長続きはしないのだ。

それより、
一般に能力開発やビジネスでもいわれるように、「良いところを伸ばす」「才能を伸ばす」、つまり、自然にそって転がしてあげるのが一番楽で成長も早い。



ちなみに、この「自然」は、僕がずっとみてきた体験では、
生まれつきのものだ。

子供は、あきらかに、生まれたときから「個性」である「自然」を持っている。



この「自然」の見極めには、それなりの経験がいる。
ただ、行ったらすぐ反応した、ではないのがちょっと難しいところ。
逆に何にも反応しないとか、ただやってくれる、だけでは「自然」ではないのですね。

慣れ、つまり「習慣」は、自然ではない。
レジにものをもっていってくれたら、レジ係の人がモノを出すか出さないかですかさず「ピッ!」としてくれるのは、その人の「自然」ではない。

まあ、この見極め方は、このブログでおいおい話していこうと思う。

なので、とりあえずは、練習としては、
「同じ言葉をいろんな人にかけると、人それぞれ反応が違う」
ということに気づいていけるようになればよいです。

とくに「言葉を発してから」の「反応速度」に注意してみてください。



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自然に幸せになる、
とはどういうことだろう。

それは、
「いつのまにかやっていることで、幸せになっていく」
ということです。

無理することもなく、
自分にウソをつくこともなく、
他人にウソをつくこともなく、
やるべき努力をやっていることで、幸せになっていく道です。



じゃあ、自然って何?
といわれると、これが非常に説明が難しい。

僕には昔から自然に見えました。
子供には見えるんじゃないかな?
僕は子供の頃、「それを失わないぞっ!」と決めたから、今でも持っている。



自然というのは、
「水が高いところから低いところに流れるように」
ようするに、
そうなればそうなるでしょ、
というある種の「流れの法則」ともいえるのかもしれません。

また、
それこそ「自然」という文字のごとく、
「それがおのずからそうなっていく」
ものです。



人をみていると分かりますが、
言葉というのは、実際に行動することとは違いますね。

だから「人の自然」というのは、
もちろんこれが全てでありませんが、
「実際にやっていること」
を見るのが重要になります。



自然をみるのに大事なのは、
「実際にそこにあるもの」
を素直に見つめること。
でも、これが意外とほとんどの人にはできない。



まず非常にカンタンで、自分の自然を取り戻せるトレーニングとして、
周りの音を「ただ聴いてみる」ことをしてみましょう。

どんな音がなっているのでしょうか?

その音を「何々の音」と頭で理解しないで、ただその音を聴いてください。
まるではじめて聴く音のように、聴くのです。

これをやっていると、頭の中が静かになっていきます。

ここから、自然をただ「ありのまま」に見つめていく、という道がはじまります。



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自分の娘ができてから、周りを見回してみて最近よく思うことがある。

それは、ほとんどの人が「子供とは何か」についてすごく間違っている、ということだ。



ほとんどの親が、子供を愛していて、精一杯努力しているのは分かる。

だから、これは、西洋科学が伝えてきた間違った「思い込み」なのだと思う。



子供は、自分が子供だったときのことを思い出してもらえればわかると思うが、

いつも大人と同じだけの判断能力を持ち、大人と同じだけの意識を持っている。

つまり大人と全く同じだ、ということだ。



でも、子供に足りないことがある。

それは過去に人が作り出したものへの知識

と、

物質世界への適合

だ。



子供が生まれる前に魂をもって存在していたかどうか。

それは僕には分からない。

たしかに前世の記憶をもってきた子供はたくさん存在していて、その記憶があっていることもたくさん確認されている。

また、お母さんの胎内にいるときにも、話の内容を理解していることも確認されてきている。

でも、それはまた今後ゆっくり研究されていく話だから、

今回は確実に目に見えるところの話をしよう。



私たちは、自分が中学生だったときも、今この時も、まるでずっと同じつもりでいる。

「精神年齢」という言葉があるが、人の意識は基本的に自分の年齢を認識してはいない。



これと全く同じで、子供も私たちと全く同じように普段生活している。

でも、大人は子供に対して「子供扱い」する。

これが子供の「人としての尊厳」を傷つけていく。



親にとってはいつまでたっても子供は子供、

そういう感覚は分かるだろうか?

子供は何歳になっても、親からみるといつまでも子供として見えてしまう。

この感覚が、小さい子供が親の行動をみているときもある。

でも、言葉をまだ十分に知らない、肉体が思うように動かないから、それを伝えることができない。



これを大人が理解していないと、

親は子供をさも「未熟」のように扱う。

でも、子供も「人として」は決して未熟ではない。



子供をさも「なにもできない存在」として扱うことで、子供はその力と可能性をどんどん削がれていく。

そう、「私は何もできない」「私のやっていることは間違っている」「私はひ弱な存在だ」と思いこまされていくのだ。

これはまさに悲劇というしかない。



このような目で子供を眺めてみると、子供がいかに人として「完成した」存在であることが見えてくる。

そうやってしっかりと子供を一人の大人として扱って欲しい。

「まったく何も知らない星にきて、肉体を与えられた存在」としてみてみるのも良いだろう。

そこから見えてくる子供の可能性と能力というのは、ほとんどの人が思っているものを遥かに超えている。



子供がこの世界に運んでくるものは「未来」だ。

私たちには絶対に理解できない「未来」。

大人の使命は、その「未来」の芽を摘んでしまわないこと。守ることだ。

決して「育てる」ことでも「教える」ことでも「躾る」ことでもないのだ。




これからたくさんの子供が、その「未来」を、この世界でどんどん花開かせてくれることを、強く望み、そして応援したいと思う。



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