お手伝いさんたちのブログ -8ページ目

お手伝いさんたちのブログ

中部大学 武田邦彦先生のブログの中で、音声収録のみのものをテキスト化して掲載しています。
テキスト化及び掲載にあたっては先生から許可を頂いています。

科学と政治 南極の氷は最大、北極は最低 (10/15)



今年の9月の極地の氷の量は、人工衛星の観測をアメリカの国立氷雪データセンターのまとめによると、南極が最大、北極が最低になった。



日本ではマスコミが温暖化の危機を煽る目的で、「最小」だけしか報道しないので北極の氷が少ないと心配する人がいるけれど、南極は過去最大だ。


お手伝いさんたちのブログ
もともと「南極の氷は増えている」のが、この図でもよく分かる。私の本を読んだり、講演をお聞きの方はビックリしないと思うが、「南極の氷は増えていたの!」とビックルされる方もいるだろう。もともと南極の氷のデータはこの人工衛星からのデータしかないのに、良くもNHKなどがやらせ報道を続けたものだ。

なにか、怒りがわいてくる。



ところで、北極の氷は海に浮かんでいるから融けても融けなくても海水面には無関係。南極は陸の上の氷だから増えれば海水面は下がる。それなのに、子どもたちは、先生、両親、教科書、それにNHKで、南極の氷が融けて海水面があがり、ツバルが沈んでいると信じ込んでいる。



本当にこんな事で良いのだろうか? 自分の主張を通したい、自分がお金をもらいたい、NHKならお役人にゴマをすりたい、ただそれだけのことでこんなにハッキリしていることでも故意に違う事をいって心が痛まないのだから、やはり戦後の教育が失敗したのだろう。


(平成24年10月15日)




--------ここから音声内容--------




今年はですね、どちらかというと南極が寒くて…夏ですけどね、北極は暖かいという状態になりました。日本も、例えば最近は昼間が暖かくて、名古屋なんかですと、夜中すごい寒いと。夜中は真冬みたいな感じなんですが、昼間は夏みたいだというにですね、その年によって色々な差がある訳ですね。





それで人工衛星の結果がですね、1978年から1979年にかけて始まりまして、アメリカの国立氷雪データセンターという所がある訳ですが、そこでまとめております。それによると、南極が今年は史上最大…史上って言ったって30年ぐらいしか測定していない訳ですが、測定し始めてから一番多かったと。氷がですね。北極は最低になりました。





日本のマスコミはですね、温暖化を煽るという事で徹底しております。これは原子力発電よりか怖いものを作り、原子力発電所が事故を起こしてもCO2は出さない、だから自然エネルギーに行くんだ、というまぁこういうシナリオの元に、ずーっと進んでいる訳ですね。従って、北極の氷が最小になったという事は報道がありましたが、南極の氷が最大になったという事は報道されません。





ここにデータセンターのグラフを出しました。これ南極のものなんですね。で、南極の氷はですね、なんか一時NHKなんかが「溶けてる溶けてる」って嘘の放送をした訳ですが。この図はですね、世界ではこれしかないと思いますね。つまり南極の氷の量を正確に測っているのは、人工衛星からしか測れない、まぁ面積で一応測るんですけどね。厚みっていうのはなかなか難しいので、寒くなると面積も広がるので一応面積で測定している訳ですね。




これはですね、私の本を読んだりしている人は大丈夫だと思うんですけども、普通の人で新聞とかNHKを見ている人はですね、まぁびっくりする人もおられると思うんですね。これ横軸が1979年から今まで2012年、縦軸が南極の氷の量なんですよ。いやぁこれ見てね、だいぶ洗脳されている人がですね、「あまり変わってないですね」って言われたんですね。




確かに変わってないと言えない訳じゃは無いんですけれども、普通に読みますとですね、これはやっぱ増えていると、言うことですよね。増えてると言うことで、普通はびっくりするんじゃないかと言う風には思うんですよね。これはまぁびっくりすると。やっぱりこの量から言えばですね、縦軸が氷の量なんですね。
そうしますと、だいたい18.5ぐらいから19.4ぐらいまでずーっとですね、上がってきている訳ですね。




地球の気温なんかも大体こんな風に変わっているんですが、地球の気温ですとね、「上がってる上がってる」って言うんですけど、先入観ありますから。南極の氷になるともう「減ってる」と思ってますからね、こういうデータを見ますと、「あんまり変わってないですね」って言ったりしまして。どう見てもこれは上がっていると、いうふうな感じですね。青い線は統計上のきちっとした線を引いてる訳でありますが。





ちょっとですね、私なんかはちょっと怒りが湧いて来るのを止められないんですよね。というのは科学者ですから、やっぱり正しいことが伝わらないというのは相当それだけでも苦痛なんですけども。やっぱりこの子どもたちがですね、随分騙された訳ですね。今でもまぁ被曝なんかで随分騙してるんですけど、北極の方は氷は海に浮かんでいるので、いくら溶けても海水面は変わりませんね。だから北極の氷確かに今年随分少なくなったんですけど、海水面はもちろん関係ありません。





南極はですね、陸の上に乗っている氷が多いんで、増えれば海水面下がる訳ですから、南極の動きと北極の動きを合わせますと、海水面は下がってるはずなんですね。まぁそこだけ言えばですね。ところが、子どもたちはですね、先生もそうですし両親も多分違うように教えてるんじゃないかと。第一、教科書にですね、「南極の氷が溶けて海水面が上がってる」なんて書いてある訳ですから。僕、随分何回も教科書メーカーにクレームしたんですけれど、なかなか直してくれないんですね。NHKもそうです。で、「南極の氷が溶けて海水面が上がり、ツバルが沈んでる」ともう信じ込んでいる訳ですね。





こういうことを思いますと、私、昔ですね、ポルポト政権のあったカンボジアがですね、300万人の大人が殺された訳です。殺したかなりの部分は14歳ぐらいの少年がですね、自動双銃を持って、「お前たちは間違っている」って言って大人を殺した訳ですね。子供といえども…っつったら失礼なんですけども、子供でもですね、やっぱ強く洗脳されますと、やっぱそれが抜けない時があるんですよね。それが300万人を殺すというような事件に発展するっていう場合もあるわけですね。





ですから、「子供に嘘を教えたって大した事ないよ」というのはちょっと私はですね、もちろん子供の将来はもちろん大きな影響を及ぼしますし、まぁ日本国としてもですね良くない訳ですね。どうしてこんなにひどい嘘をつくのかと。南極の氷が溶ける、温暖化で溶けているという事は物理学的にも間違っています。IPCCの報告も違います。こういったデータをそのまま見てもですね、嘘なんですね。これを気象の専門家、それから科学者なんかがですね、揃って子供に対して嘘を言うと。





これは今原発で被曝してですね、「100ミリシーベルトがどうでも良いよ」なんて言っている人もいるんですね。法令は絶対言わないという、そういったものと非常に似通っていて、我々今の大人はどういう精神構造にいるんだろうかと。今日会合がありますので、ちょっとですね、そこで見識のある人に、なぜこういう事が起こるのか、という事も聞いてみたいという風に思います。


(文字起こし by たくまー)

被曝とエネルギーリスクの比較 (10/10)




1970年代のアメリカで「フォード・ピント事件」が発生した。欠陥車を製造したフォードが「回収して修理するか」、「犠牲者が出たら補償するか」を検討して、「修理費用より補償費用が安いので、修理しない」という結論になり、その結果、多くの死者を出すことになった。この事件はフォードが批判されて結局、回収・修理を行った。



この例のように「人の健康とお金」を同じ軸で天秤にかけることはできなくなったが、一方ではまだ交通事故が根絶できないのに自動車は製造されている。個別の会社では「命と金」の交換はできないが、社会単位ではまだ可能なことを示している。



原発を運転して被曝のリスクを認めるか、エネルギーを化石系燃料に転換するリスクに賭けるかが「エネルギーの選択問題」として今、日本で議論されている。また医療用被曝と治療の問題も一部の医師の不見識な発言によって危機を迎えている。



低線量被曝と疾病の関係は明らかではない。膨大な研究が報告されているが、チェルノブイリ近郊の疾病数は事故後、27年を経て増大を続けているが、一方でも健康にさして影響を与えないとする学説もある。科学的に言えば「結論が出ていない課題」であり、社会的には「予防原則が適応される例」でもある。



予防原則とは水俣病をはじめとする多くの公害を防ぐことができなかったという反省から1992年に世界的に宣言されたもので、「科学的な根拠が曖昧で、大きな被害が予想される時には、科学的結論を待ってはいけない」という基本的なスタンスである。



一方、原発を中止するリスクには、エネルギーの確保と現在の原発の金銭的損失の2つがある。エネルギーの確保の問題はより具体的には「ウラン燃料と化石燃料の寿命と入手の問題」であり、私は資源を専門としているが、「化石燃料とウランは1000年以内に枯渇することはなく、国際的に供給が途絶えることもない」という考えである。



そうすると、この問題は「まだ使える原発を使わない損失」をどのように考えるかだが、毎年約5000億円の税金を原発の開発と諸問題の解決に使用していることなどを考えると、原発の中止は国家の損失にならないと考えている。


(平成24年10月10日)




--------ここから音声内容--------



原発の再開問題について、日本の多くの人たちの意見が分かれている一つにですね、被曝のリスクとエネルギーのリスクのバランス、という問題があります。これについて、まぁ少し歴史も踏まえてお話をしてみたいと思います。





1970年代のアメリカでですね、フォード・ピント事件というのが発生しました。これはですね、実は小型車を作り慣れなかったフォードがですね、ちょっとまずい自動車…これがピントという自動車だった、これを作った訳ですね。えっと大型車というのは悠々としてますから、ガソリンタンクをどこに置いてもあまり関係なかったんですが、小型車ですとガソリンタンクを置く場所が限定されます。そのそばに実はボルトがあってですね、後ろから追突されますと、そのボルトがガソリンタンクに嵌り込んで、そこからガソリンが漏れる、という事があったんですね。これに設計製作する時は気が付きませんでした。





そしてしばらくこれを売りだしておりますと、後ろから追突された時に、ガソリンが漏れて車が燃えてですね、焼死するという、焼け死ぬという事件が起こります。これについてフォードはですね、社内で至急検討会議を行いまして、そこで主に議論したのは、リコールをしてですね、車を全部回収して修理する場合の値段ですね、私の記憶ではたしか130億円だったように思いますが、日本円でですね。




それから犠牲者が出た時にどのくらい死亡者が出ると、まぁ一人あたり例えば1億円払う、というような計算をしますと、補償費用は確かその時の計算で60億くらい、約半分ぐらいだったように記憶しております。ちょっと記憶は定かではありませんので、機会を見て調べたいと思いますが、だいたいそういった金額でした。





そこでフォードはですね、どうも修理費用をやるよりも補償費用の方が安いので、まぁ修理をしないという結論になります。まぁこのピントっていう車は欠陥のあるまま走るんですけれども、そうしますとやはり追突事故がある頻度で起こりますので、そこで車が燃えてですね、多くの死者を出すことになります。これがだんだん世の中に知れて来ましてね、結局フォードは批判されて、回収修理を行うようになり、信用も非常に大きく損なわれる訳です。





この例はですね、人の健康とか命とお金を同じ軸で天秤にかける事が出来るか、という問題を提示している訳ですね。つまり欠陥車を売り続けて補償金を出す、つまり「人が死んでも良いよ、その時には補償金を出すから」。この考えをですね、徹底的に追求しますと、「憎らしい奴は殺して良い。1億円用意しておけば良い」と、まぁこういう事になりますので、これは非常に社会的倫理に反する訳ですね。





まだ一方ではですね、交通事故が無くならないのに、自動車は製造を続けているという問題点がまだ存在するんですが、これはあの社会的な要請によってできてる事なんですね。個別の会社ではですね、いまやもう命とお金の交換はできない、という事になっている訳です。





まぁこういった事がですね、現在まだはっきりと議論されていない内に、被曝のリスクとエネルギーリスクというものが社会で非常に強いストレスを生じておりますね。被曝のリスクの方を強調する人たち、主にお母さんたちですが、もちろんお子さんを育てておりますから、とてもエネルギー…電気を節約しても子供の健康を守りたい、とこういう風に思うのが当然であります。





で、一方産業界に身をおいている人たちはですね、子供の健康よりかお金という事で、「日本のエネルギーは原発を辞めたらどうするんだ」と、「そういう事を考えない奴はダメだ」と言うことで鋭い対立になっている訳ですね。つまり、原発を運転して生じる被曝のリスクが大きいか、それともエネルギーを化石燃料に転換するリスクに賭けるか、という問題が現在行われております。




これに医療用被曝とか治療の問題について、一部の医師が不見識な発言をしているので、全体として議論が混乱しているという事ですね。お医者さんはぜひ、私このブログで何回も言ってますが、医療用被曝については我々は何にも言ってませんので、医師もですね、医療用被曝「以外」の被曝については、やっぱり一定の発言を控えるという風にしてもらいたいという風に思います。





ま、それはそれとして、ここではですね、低線量被曝と疾病の関係が明らかでない、という事に大きな問題があるわけですね。膨大な研究例がありますが、チェルノブイリの近郊の疾病数は事故後27年を経ても、増大を続けております。これが被曝のせいかどうかはまだ分かっておりません。一方ではですね、被曝は健康にあまり影響が無いという学説もあります。




私はですね、「科学的にいえば結論が出ていない課題である」と言う事はもうはっきりしているんじゃないか、もう議論しなくていいんじゃないかと、結論が出てないんだから、しょうがないんじゃないかと思うんですけどね。「社会的には」結論が出ているんですね。予防原則というものがありますので、「学問的に分からなくても危ないと思われるものは規制する」っていうのがですね、社会的に決定されているものですので、あまり議論しない方がこれも良いだろうと思いますね。






この予防原則というのは、水俣病を始めとした多くの公害でそれを防げなかったという事から、1992年に既に世界的に宣言されたものでありまして、もちろん日本も加盟しております。簡単に言えば、「科学的な根拠が曖昧であっても、大きな被害が予想される場合は科学的結論を待ってはいけない」という基本的スタンスなわけですね。





私はですね、実はエネルギー確保の問題より(問題から)考えますとですね、ウラン燃料と化石燃料の寿命はですね、これはあまり変わらないんですね。ウランも大体数百年、化石燃料もシェールガスを除けばほとんど同じような寿命であります。それから入手の問題もですね、両方とも外国から輸入します。現在ではですね、ウラン燃料の方はまだ原子力が全世界には行ってませんから、あまり入手が困難では無いと思われていますけれども、これは基本的には同じ問題なんですね。




私はまた別の考えで、化石燃料もウランも1000年以内に枯渇することは無いし、また国際的に供給が途絶える事も無い、という考えを持っております。これには一応の…一応というかきちっとした論拠はありますね。化石燃料が1000年以内に枯渇しないという事は、これは世界的に見れば通常の事で、日本だけが特殊な環境にあります。またウランもまぁ大体そうだと思いますね。現在のウラン鉱というのは、表面に出ているような、例えばオーストラリアのオリンピック鉱山みたいなものが注目されておりますが、本格的に探し始めたらですね、かなりあると思われます。





それからエネルギーセキュリティという問題がしょっちゅう出てくるんですけれども、これはですね、まだ1970年代に日本が中東の石油に過度に依存していたという時代のトラウマがあるんですね。既に石油・石炭・天然ガスだけでも世界各国に分散しております。これにシェールガスが入りますので、さらに輸入国は広く広がります。




エネルギーばかりでは無くて、現在社会はですね、自動車ですら輸入に頼っている国っていうのはいくらでもあるんですね。日本は自動車は輸出ですから、自動車が輸入できなくなる、という事は考えられませんが、自動車産業のあまりない所ではですね、やっぱり自動車が輸入できなくなるというのは、これ生活上非常に大きな問題になるんですね。ですから、エネルギーだけが特別である、という見方は非常に古い見方で、現在の国際貿易というものをしっかり見ればですね、エネルギーセキュリティだけが問題だ、というのはちょっと問題だと思います。





そうなりますとですね、この被曝のリスクとエネルギーリスクという問題は、もっと踏み込んで言えばですね、まだ使える原発を使わないお金の損失をどう考えるか、という事になります。現在日本では54基の原発があって、いずれも一応稼働可能な訳ですね。
少なくとも40発ぐらいは稼働が可能な訳です。1基作るのに3000億、4000億というお金が掛かるので、これをですね、40基全部反故(ほご)にするっていうのは実に残念な事ではありますが、現在原子力の開発予算に約5000億円の税金を使用しておりますので、それをですね、原子力を中止する時に使えば、国家の税金としての損失は殆ど無い、という事になります。




これをですね、さらに詳細に検討して、現実的な原子力の停止のためのお金をですね、原子力推進でも反対でも無い立場から、しっかりと学者が計算する必要があろうかと思います。こういったですね、現在ではもう誰もが利害関係があって、利害関係があるのが当然であるという風に考えて、色んな計算をしてもですね、何か背景があるのでは無いか、という風に思われるわけですね。




しかし学者というのは本来そうじゃないんですね。学者に潤沢な研究費があり、活動が自由であれば、学者は社会に大きく貢献をすることができます。というのはですね、学者が計算する値は、原子力を推進でも反対でも無く、中立的立場で物事を見、それを解説すると。あくまでもご判断をされるのは社会であるという、それが学問の自由を私たち学者が持てる最大の理由であります。




この被曝のリスクとエネルギーリスクという問題、原発中止に関する日本の損失という問題。これはですね、被曝リスクを重要視する人は、「なんだお金の問題じゃ無いじゃないか」と言いますしね、それから原発推進の方は、「いやお金が無きゃ何にもならない、お前らバカか」と、まぁこんな事をですね、続けているよりかは、やっぱり私は学者の自立性を高めて、計算は学者の計算を使うと、そういうですね、やっぱり時代に戻さなければいけないと、私はそういう風に思います。


(文字起こし by たくまー)

原子力規制庁の権限 (10/5)



原子力規制庁の権限について、政府(戦略室大臣)、規制庁(委員長)の意見が違うように報道されています。またテレビでは「政府はお殿様」という考え方でコメントされています。



・・・・・・ここから音声が中心・・・・・・

日本が原子力を実施するときの国民との約束は、

1)「自主・民主・公開」の原則を守る、

2)平和利用に限定する、

3)原子力委員会が推進、原子力安全委員会が規制に分ける、

4)政府は委員会の勧告を守る役割、


ということです。

もし今、議論されているように「規制庁が危険という判断を出しても、政府がそれを覆して運転を認めることがある」とすると、それは政府がお殿様であることになります。「政治的判断」が万能のように言われる社会は、日本の裁判をもゆがめています。



民主主義は手続きを決め、それを守るのが政府で、「政治はなんでも決められる」というのは民主主義ではないと思います。政府はお殿様としての万能の力を持っているのではなく、国民の間の約束(法律や役割)を守らせる役割しか持っていません。政府は「違法なこと」はできないのです。


(平成24年10月5日)




--------ここから音声内容--------



原子力規制庁ができまして、色々な報道がされております。政府側は戦略室大臣、それから規制庁側は委員長がそれぞれの考えを言い、それがまぁ違っていると言う風に報道されておりますが、まぁこれは組織が新しく出来たわけでありますから、多少の意見の違いがあった方が正常であるという風にも言えると思いますが。





テレビのコメントを見てますとですね、やっぱ相変わらずあの、政府はお殿様であると、お殿様意識が強いようですね。私は原子力で良く言うんですけれども、日本では原子力反対運動というものが激しいわけですが、それは原子力をやるかやらないかという時に民主的手続きを踏まなかったから、という風に考えられるわけですね。




まぁフランスで原子力反対運動が少ないのは、フランス人に「なんで反対運動が少ないんですか?」って、「まぁそれは我々が決めましたから」と、言う事ですね。国民が決めればそれに大体は従う、という事が民主主義の原則であります。その代わり少数意見にも配慮するというような事も大切な訳ですね。




日本では少数意見をバッシングする、っていう、少数だかどうかはわかりませんが、自分の考えと違う人をバッシングする、という事があるんですが。自分の考えと違う意見は尊重しなければいけない、とこれが民主主義であります。





日本が原子力をですね、実施するにあたっては色々と揉めた訳ですね。それは日本に広島・長崎の原子爆弾が落とされたという事で、原子力と日本はですねやっぱりあんまり近づかない方が良いんではないか、という意見が強かった訳であります。それに対して、政府が約束した、もしくは国民が約束したのはですね、自主民主公開の原則を守るんだ、という事ですね。この前の福島の秘密会議なんかは法律違反で、逮捕されると思いますけどね。検察がしっかりしていれば。




それから平和利用に限定する。平和利用に限定するという事ですね。それから原子力委員会っていうのが推進側を担当し、原子力安全委員会が規制をやると、まぁこれは原子力安全委員会という名前がついていても、原子力規制庁でもなんでもいいんですけれども。規制庁という役所がですね、担当するのがいいかどうかっていうのは、本当は議論があるべきで、ここで我々原子力の安全を考える人達は、役人の陰謀に引っかかったかも知れませんけどね。




それから政府は委員会の勧告を守る立場であって、政府が独自に判断する訳ではないんですね。例えば、規制庁が危険だという判断を出しても、政府がそれを覆して運転を認める事がある、なんて事をするとですね、いやこれは政府はお殿様という事になりますね。





現在の政治的判断が万能であるという風に良く言われる事があるんですね。「これは最終的に首相が決めるんだ」、「いやこれは最終的に大臣が決めるんだ」、いやこれはですね、役人が使う手段ではありますけれども、これは私は民主主義とは違うと思いますね。民主主義というのは手続きがきちっとしてるわけですから、私たちの代表の国会が決めたことを政府が守る訳ですね。



ですから決まったことを守るのが政府であってですね、政府が決めるんでは無いわけです。決まってないことを臨時に政府が決めるって言うことはあるにしてもですね、基本的には国民が決めるわけです。国民が決めると言うのは、国民の代表である国会が決める、とこういう事ですね。





従って今みたいに政治的判断が万能なような事を言いますとね、政府が勝手なことをやるという事になるんで、官僚がますますつけあがると、こういう事になるし、最近の裁判を見てますと、ほとんど国が勝ちますね。それは「国がやった事は正しいんだ、国は判断できるんだ」という、そういう前提が裁判官にもあるってことと、裁判官の人事が政府に握られている、というこの2つが大きいと思います。





ところで、民主主義は手続きを決めて、それを守るというのが政府でありまして、政府は手続きを守る役割を果たしているわけで、手続きを覆す事はできません。私が良く言っているように、1年1ミリシーベルト、とかですね、廃棄物は1kg100ベクレル以下と、こういう決まっている物を一所懸命守るのは政府ですね。で、政府が「もうこれを守れないから」と言ったら、国会がですね、「それではしょうがないから変えようか」と、これは手続きとしては良いんですね。




ところが、まぁだいたいテレビなんかを見てますと、コメンテーターはどうも政府が殿様だと思っているんですね。これは、自分が殿様だと思っている人もいるぐらいなんですよマスコミではね。「どうせ庶民はバカだ」と、まぁこう言う風に思っている訳で。仕方が無いというか、まぁそういう人たちだって事なんですね。




やっぱり国民の間の約束、これは法律とか、それぞれ「この人はこういう事をやる」といった役割を決めている訳ですから、政府は違法な事はできません。法律の方が政府のもちろん上にあるわけで、公務員というのはですね、法律をきちっと守って、国のために、日本国の発展のためにやるっていうのがもうほんとに基本中の基本。公僕ですからね。





まぁこれは、原子力規制庁の場合はどう風にするかっていうと、結局新しい原発の安全をですね、電力会社が申請をしてきますから、それを国民の代わりに厳正に審査をしてですね、危なければ「ダメです」と、こう言う訳ですね。




例えば、アメリカの規制庁もそうですけれども、「廃棄物…この原発から出てくる廃棄物をしまう所を決めてからにしてください」と、こう言う訳ですね。それがどんなに非現実的であるかどうかと言う事は、規制庁は関係ないんですね。「廃棄物をしまう所がなきゃ危ないじゃないですか」という事を言う。まぁこれが原子力に関する国民の間の約束ですから。まさか政府がですね、原子力をやる・やらないという事を決められる訳では無い、とこういう事ですね。




国会ができるのは、「日本国として安全な原発はやると、やっても良い」と決めるのが国会なんですね。全体としてですよ、それは個別じゃ無く。個別じゃなくて全体の原発を「安全ならばやる」と、これは「安全ならば」というのがさっきのあれですね、規制庁の存在なんですけれども、「安全ならばやります」というような事を今は決まっているんですね、これは決まっている。




じゃあ「原子力発電所が安全かどうか」って言うことを判断するのは規制庁で、規制庁が判断したら政府はそれは覆せ無いんですね。これは法律ですから。で、国民が今原発反対運動をやっていますけれども、反対運動が成功するって事は、「日本は安全でも原子力発電所をやりません」という事を国会で決めるという事ですね。そこまで持って行かない事には何の役にも立たないと言うことなんです。



============================
* 自主民主公開の原則
原子力三原則【げんしりょくさんげんそく】
日本の原子力開発利用行政の基本的指針を定める原子力基本法の第2条には〈原子力の研究,開発及び利用は,平和の目的に限り,安全の確保を旨として,民主的な運営の下に,自主的にこれを行うものとし,その成果を公開し,進んで国際協力に資するものとする〉とあり,この民主,自主,公開の原則を原子力三原則,または原子力平和利用三原則という。原子力三原則は,第2次大戦後占領下で禁止されていた原子力研究開始の是非やその進め方をめぐる論議のなかから生まれた。


(文字起こし by たくまー)