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お手伝いさんたちのブログ

中部大学 武田邦彦先生のブログの中で、音声収録のみのものをテキスト化して掲載しています。
テキスト化及び掲載にあたっては先生から許可を頂いています。

なぜ、西郷隆盛は勝海舟に会ったのか?(10/31)



西郷隆盛と勝海舟が江戸末期に会談をしたのは、もちろん、官軍が江戸城に迫り、江戸が一大決戦地になろうとしていたからです。西郷隆盛は官軍の総大将だったのですが、一方の勝海舟はまだ若く、幕府を代表する老中のような役職ではなかったのですが、長崎造船所で訓練を受けてスヌービング号を江戸に回航したり、オランダ塾で西郷隆盛と一緒だった経験もあり、滅び行く徳川幕府にとっては勝海舟が適切だったのでしょう。



でも、これらのこと、つまり直接的で軍事上の理由や、勝海舟の個人的な能力や経験を超えて、歴史的な必然性があったように感じられます。



そもそも西郷・勝会談からさかのぼること260年前の徳川幕府は、長く続いた戦国時代の総決算としてできたもので、豊臣家を大阪に滅ぼし、天下を統一した政権だった。それから260年の歳月は人間の社会に何をもたらしたのでしょうか?



・・・・・・・・・



人間というのは生物の中でも特別に頭脳の情報が多く、人類出現までの哺乳動物に対して約4桁速い「進化原理」を有していると考えられます。たとえば恐竜は中生代の始めに出現し、その時には体の小さなトカゲのような格好をしていました。



それが2億年の進化を経て、多くの人が知っているあの「恐竜」になったのです。なぜ恐竜の体が大きくなっていったかというと、同じ恐竜が同じ場所で餌を取り合うと、体の大きい方が餌にありつけるので、体の大きな恐竜の方が子孫が増え、その結果、少しずつ体が大きくなって行ったと考えられます。



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しかし、体が大きくなるためには遺伝子(DNA)が変化しなければならず、遺伝子は化学物質ですから、容易な事ではありません。ハッキリした体の変化は1万年ぐらいの時間が必要とされています。



これに対して頭脳を用いた進化は、「書き換え可能」な情報に基づいていますから、瞬時でも可能ですが、定着するには1日とか1年という時間で達成されます。たとえばあるお母さんが毎日お皿を洗っていて、あるときに新しい洗い方を考案したとします。そのお母さんは翌日から「なぜか?」新しいより効率的な洗い方でしか洗えなくなるのです。



つまり、生物は常に「より競争力の高い、より効率のよい」ということを追求して止まず、前の状態でいることができないのです。私はこれを「2パーセントの原理」と呼んでいます。つまり毎年2パーセントづつは進歩してしまうということです。そうすると、10年で20%変化し、100年で7倍になります。つまり、「10年一昔」と言いますが、10年経つと社会が2割変わり、それが「昔は・・・」という感想につながっています。



・・・・・・・・・



徳川260年というと、徳川家康が幕府を開いてから徳川慶喜に至るまで、日本社会は172倍の変化をしたことになり、西郷隆盛と勝海舟の会談も、徳川家康と豊臣秀頼の対決とは様変わりになっていたことは想像に難くありません。



なぜ、江戸は無血開城したのか? それはスヌービング号の回航、オランダ塾などで時を過ごした勝海舟が、「2パーセントの原理」を肌で感じていたからに他なりません。世界は変化し、すでに172倍になっているのに、その体制を維持することはできないことを合意した、それが西郷隆盛と勝海舟が会談して江戸城の無血開城した本当の理由だったように思います。



あるいは、その時に、徳川慶喜が天皇陛下になって封建政治から近代国家に変わる事ができたかも知れません。でも、それは長い日本の歴史と調和しないものであり、徳川幕府を終わりにして天皇陛下を頂点とする近代国家に衣替えをせざるを得なかったのです。



西郷隆盛と勝海舟が偉かったのは、すでに260年を経て徳川幕府が新時代に適合しないことはわかっていても、普通は「一戦を交え、血を流してから納得する」というのを「理性に基づいて血を流さずに収束させた」ということです。それは本当に素晴らしいことであり、2人の卓越した判断であると思いますが、それでも「あまりにも当然のこと」のように思えます。



・・・・・・・・・



さらに考えると、なぜ一気にその時に「お上」を作らずに、「万人平等」の民主主義国家を目指さなかったのか、これも「2パーセントの原理」が働きますから、一気に変化することはできず、77年の歳月と4.6倍の社会変化が必要だったという事です。



第二次世界大戦が終わって新しい日本国憲法ができ、国民が選挙によって議員を選び、公僕として役人を雇うようになっても「お上」、「天下り」などという言葉が平然と使われています。戦争が終わって67年、3.8倍の変化を経てもまだ私たちの心には「お上」という残存物が残っているように感じられます。



日本人、1人1人の心が毎年2パーセントづつ変化し、やがて「お上」がいなくても個人の尊厳で社会が保持されるようになるでしょうし、さらにその次にまた新しい社会が発生することと思います。そして2パーセントの変化は、徳川幕府が260年の変化に耐えられずに崩壊したように、人類というもの自体の自己矛盾のために絶滅する時を迎えると考えられます。



2パーセントの変化は時を経て驚くべきほど大きな変化となり、それはやがて克服せざる矛盾を抱えて崩壊するということを意味していますし、この宇宙が140億年前に誕生してから、それは全くの例外なく確実に行われてきたと考えられるからです。



現代の私たちは西郷・勝のような時代の変化に対する洞察力はあるでしょうか? 戦後67年を経て、2パーセントの原理は何に示され、どうなっていくでしょうか? すでに結婚式に仲人が居なくなって20年、近いうちにお墓というものも無くなるでしょう。封建制度、絶対王政、そして民主主義、当たり前のように進んでいる社会はそれでも次が見えないようです。


(平成24年10月31日)



--------ここから音声内容--------




西郷隆盛と勝海舟が江戸の末期に会談をした訳ですね。この有名な会談ですが、それはなぜ行われたのか。もちろん薩長を中心とする、いわゆる官軍ですね…天皇陛下を頂いた官軍が江戸城に迫り、これを幕府が迎え撃てばですね、江戸が一大決戦地になるはずでありました。





そこで西郷と勝海舟が会談をした訳でありますが、西郷隆盛は官軍の総大将でこれはま~良いとして、一方の勝海舟は幕府を代表するって訳ではなかった訳ですね。例えば老中とかそういった職にあった訳ではないんですが、彼は長崎造船所で訓練を受けてスヌービング号をですね、江戸に回送したり回航したりですね、オランダ塾なんかで西郷隆盛とかその他の薩長の志士ですね、ま~坂本竜馬なんかもそこにいた訳ですが、そういう経験もあってですね、滅び行く徳川幕府にとっては、他には人がいなかったという風に言ってもあるいは良いかも知れません。英傑だったんでしょうね、その意味では。





でもですね私は、もちろんこの二人は飛びぬけて素晴らしい人なんですが、こういった細かいことをあまり考えますとですね、歴史の大きな流れの中での、この会談と言うものが少し薄れてくる様に思う訳ですね。そもそも何で西郷・勝会談が行われたかって言うと、もちろん260年前に徳川幕府が出来たから、と言う事ですね。もちろん徳川幕府が出来なければ西郷・勝会談も無い訳でありますが。





それはどうして出来たかって言うと豊臣秀吉とか織田信長とかですね、そういう人物の名前がでてくる訳で、長く続いた戦国時代の総決算としての徳川幕府ってのが出来る訳ですね。その時にどういう必然性があったのか?それは打ち続く戦乱だとか、中世の日本、ちょうど1600年ぐらいの日本のですね、いろいろ社会的発展というのがそれをもたらした訳であります。





従って徳川幕府が出来たって事はある意味歴史的必然性であったと思うんですね。しかしその歴史的必然性ってのが260年経つともちろん変化する訳ですよ。今の日本で、え~と毛皮を着てですね、いや、動物の毛皮を着て穴倉に住んでいる人っていないし、そうなったら直ぐに警察が行ったりしますしね。それから日本刀二本を差して歩いたら捕まってしまいますし、人の・・・人間社会の歳月って言うのは非常に大きな変化をもたらすものであります。





なぜそうなのか?人間というのは生物の中では非常にに進化の速度が速い訳でありますが、これは哺乳動物とか両生類、爬虫(類)動物なんかの4ケタぐらい早いんじゃないかと思われますね。例えば恐竜を見てますと恐竜は中生代の初めに出現したんですけども、その時は体の小さな恐竜だった訳ですね。それが二億年ぐらいの間に少しずつ進化する訳ですが、ああいったあの巨大な体になる為には遺伝子が変わらなきゃいけない訳ですが、何でそうやって変わってきたかって言いますと、同じ恐竜が同じ場所で餌を取り合うとですね、体の大きい方が餌にありつける訳ですから、体の大きな恐竜の方が子孫が増える訳ですね。





大体子孫の数っていうのは食べ物の数に比例しますからね。子孫て言いますとなんとなくオスとメスがSEXしてってな事を考えるんですが、簡単に言えば、ある個体から別の個体が出来てどんどんそれが増えて行く訳ですから、ま~「増産」みたいなものですからね。実際上ここにちょっと絵を貼りましたが、恐竜の体の大きさって言うのはですね、どんどんどんどん大きくなっていく訳ですね。これに二億年かかっている訳です。こういった変化にですね、体が大きくなる変化に時間がかかるのは、遺伝子が変化すると言っていいし、突然変異で大きな体の恐竜が出来たらそれが残る、とま~こういう言い方をしてもいいんですが、いずれにしても遺伝子が変わる訳です。





遺伝子ってのは化学物質ですから、例えばカーボン…炭素に何か窒素がこう着くとかああ着くとかですね、配列が変わるとかそういう事になんなきゃいけないので非常に容易じゃないんですね。大体ちょっとした体の変化がハッキリと分かるのに一万年ぐらいかかる、と言うことですね。例えば人間でも今から4万年ぐらい前に現代人類が出来てもですね、そん時は肌の色は同じだったと思うんですが、北の方に行った人間はですね、生活が厳しいので体が大きくなり、かつ肌が白くなります。それから南の方に行ったのは肌が黒くなってあまり体は大きくなりません。そういったですね、変化がみられるのに大体1万年ぐらいの時間が要る訳ですね。





ところが我々は「頭脳」を用いた進化ってのをする訳ですよ。これはもう瞬時に言わば切り替えられる。瞬時につっても人間の事ですから寝たりなんかしますので、大体1日とか1年とかいう時間で達成される訳ですね。例えば進化の例ってのを私が言いますと、お母さんが毎日お皿を洗っていて、あるときに新しい洗い方を思いついたりする訳ですよ。そうすっと古い洗い方と新しい洗い方ですと、その新しい方が能率がいい訳です。水を使うのが少ないとか、時間がかかんないとか。するとお母さんなぜかは翌日からですね新しい方を選ぶんですよ。と言うかもう古い方を絶対出来なくなっちゃうんですね。これがですね生物の特徴なんですね。進化の特徴とも言えますし、生物の特徴とも言えます。





つまり「より競争力が高い、より効率のよい」事を追求しちゃうんですよ、自然と。別に今の生活でもいいんですけどね。今の生活でもいいのに、より少しずつ変えて行くんですよ。ま~変なもんですね~考えてみれば。これを私は「2%の原理」と呼んでいる訳です。つまり毎年人間は2%ずつ進歩しないとだめなんです。そうすると、10年で20%変化して、100年で7倍に変化するんですね。ま~「十年一昔」とこう言うんですけども、それは社会の中の2割が変わると、どうも人間には「変わって見える」って言う事なんだと思うんですね。





でまぁ、徳川幕府260年とも言う訳ですが、と言う事はですね、徳川幕府を開いてから慶喜(よしのぶ)まで、家康から慶喜(よしのぶ)まで172倍社会が変化したと。172倍ですからね。今を1として260年後は社会は172倍変わった訳ですね。そうしますとね、それはやっぱり西郷隆盛と勝海舟が会談したら…こんな偉い二人が会談したらですね、「いやちょっとみなさん・・・ちょっとね~これ、徳川家康とか豊臣秀頼が対決した時と違いますね」と。「いや~、そうですな~」と。「じゃ~、ま~そろそろ江戸幕府も終わりにしてくれませんか」って言ったら「そうですな~」と。こんな風な事になった訳ですね。もちろん話し合いはそういう事ではありません。





だけども勝海舟にしても西郷隆盛にしてもこの2%の原理を肌で感じてたんでしょうね。恐らく計算して172倍だと思った訳じゃないですけど、体が172倍を感じてたという事ですね。だからなぜ西郷隆盛と勝海舟が会談したか、いやそれは江戸幕府ができてから172倍変わっているからだと、こう言う風に思うんですね。もちろんその時に徳川慶喜(よしのぶ)が天皇陛下になるっていうことも考えられた訳でありますが、これはまた個別の人間の事ですからどっちでも良い訳で、長い日本の歴史には調和しないという事で、天皇陛下を代わりに持って来るっていうかですね、来て頂くとこう言う事になった訳ですね。





しかし、西郷隆盛と勝海舟がなぜ偉かったか?これはですね、260年を経てダメになるという事は分かっている。そん時、普通の場合はですね、何だ知らないけど人間は無駄な事をしまして、一戦を交えて血を流してから納得する。納得するんだったら血を流す前に納得すりゃいいのに、そうはいかないんですよね。で、理性に基づいて血を流さずに収拾したと。これは本当に素晴らしいと思うんですが、素晴らしいと同時に「そんなの当たり前じゃないか」という気にもなるんですね。そういう点ではですね、実はそん時なぜ勝海舟と西郷隆盛は民主主義にしなかったのか?ということですね。





え~天皇陛下を上に置いてって事をしないでですね、別段天皇陛下は象徴かなんかで相変わらず日本の中心としておられますよ。いざっていう時は官軍ができる訳ですが、だけども政治はやらないで、万人平等の民主主義国家をを作ったらいいじゃないですかね!?ところがそれにはやっぱりそれから77年。明治の初めから太平洋戦争が終わるまで4.6倍の今度は社会変化が必要だった訳です。





で、今度また世界大戦が終わりますと、日本国憲法ができまして、一応予定としてはですよ、国民が選挙によって議員を選び、公僕として役人を雇うっていう風になったんですよ。だからつまり議員は国民が選んだ人ですから国民よりか下ですね。それから役人は国民に雇われている訳ですから。これは雇い人なんですが、だけどもお上とか天下りがまだ残っております。戦争が終わって67年。この間3.8倍社会は変化したが、まだ私たちの心には「お上」という残存物がが残っている訳ですね。





じゃあ日本人のひとりひとりの心が今後、毎年2%ずつ変化して、やがてお上がいなくなって、個人の尊厳で社会が保持されるようになる。またその社会が更に変わって行く、というのにはどのくらいの時間がかかり、どうなるだろうか?という事ですね。え~2%(ここで一つ目の音声が終わっていました。)




(ここから二つ目の音声。冒頭は不明瞭)

…なって行くと、徳川幕府が260年の変化に耐えられず崩壊したように、人類もですね、あと5千年とか1万年、もしくは1億年経ちますと、このものの中に入っている自己矛盾のために絶滅すると考えられる訳です。





1年わずか2%ずつの変化であってもですね、長い年月を経ると驚くほど大きな変化になります。これは平安時代、江戸時代と、現代の人の恰好を見ても社会の状態を見ても驚くべき変化でありますね。この変化に古い体制が付いて行けないというのは当然であります。この宇宙も140億年経ちまして、この原則は…「2%変化の原則」は例外なく行われているということですね。そうしますと、西郷隆盛はなぜ勝海舟と会談をしたのかと、いう事を良く考えますとですね、私たちは・・・私たちの今のシステムは、どんな時代にできても古いんですね。戦後体制は67年、もう既に社会は3.8倍の変化をしております。





最近見てもですね、結婚式に仲人がいなくなってから20年も経ちますし、近いうちに恐らくお墓というものも無くなるでしょうね。それは当たり前で、かつては封建制度、それから絶対王政、更に現在のニセ民主主義かもしれませんが民主主義、こういうのが当たり前の様に進んで来た訳です。それでは私たちの次は何か?それが勝海舟と西郷隆盛の会談が意味するところではないかと、私はそう思う訳であります。


(文字起こし by つよぽん)

報道が決して国民に伝えないもの(4) IEAの報告 (10/28)



2011年3月15日、福島原発事故のわずか3日後に、IEA(国際エネルギー機関)は月次報告書で、「日本の原発が止まっても、電力不足は発生しない」という報告をしている。次の内容のこの報告も、「原発を止めたら大変だ」、「原発を止めたら自然エネルギーだ」という政府方針に反するので、日本の報道が決して伝えないものの一つである。



IEAのレポート内容


1)日本は火力発電所の稼働率が30%と極端に低い(2009年)、

2)従って火力発電所を動かせば、原発は要らない、

3)そのために必要な石油(換算値)は日量20万バレルである(それまでの購入量が日量36万バレル)



これを伝えると日本政府や電力の言い分が間違っていることがハッキリする。(石油価格がバレル100ドルとすると、1年約6000億円の増加。ちなみに原発予算1年5000億円)


(平成24年10月26日)




--------ここから音声内容--------




原発事故が起こって、その直後ですね、ちょっと改めて調べましたら、それは3月15日でしたから、原発の爆発事故の三日後という非常に早い時期ですね。
まだあの、この時期っていうのは確か、まだ3号機とか爆発してない前かなと思いますが、IEA国際エネルギー機関がですね、その月次報告で、日本の原発が止まっても電力不足は発生しない、という報告書を出しております。





これはですね、原発を止めたら大変だという政府方針、自然エネルギーにしなきゃいけない、という方針にも違うので、日本の報道がほとんど、決して伝えないという感じのするものですね。一回ぐらい報道されたかも知れませんが。その後ですね、政府の案が出たり…原発0%、15%、25%という3つの選択という案が出たり、原発の代わりは自然エネルギーだという随分議論されてる中で、このIEAの報告が、その論じられない、解説者も論じない、っていう事には深い意味があると思うんですね。





このレポートの内容をまとめますと、日本は火力発電所の稼働率が30%と極端に低いので…これは2009年度って言うことでレポートは書いてあります。従って火力発電所を動かせば原発はいらないと、そのために必要な石油は日量で20万バレルであると、現在までの購入量が日量36万バレルですから、まぁ世の中で言うようなですね、巨大な赤字を被るとかいうような問題では無いんですね。





で、こういった事をきちっと伝えますと、まぁ日本政府や電力、もしくはその関係の専門家がですね、言ってることが間違っているというか、少なくともIEAとの全然大きな差があるという事がはっきりします。従ってですね、何が本当かって事は非常に難しいわけですけどね、少なくとも国民が「原発のエネルギーが無くなったら、電気が足りなくなるじゃないか」と非常に心配した訳ですね。




そういう時にですね、一方足りないという観測をその新聞が報道するのは良いんですが、やっぱIEAの報告も出してもらいたいと、こういうように思うんですね。それによって、火力発電所をもっと動かしたらどうかとか、例えば関西電力ですと、建設に関わっていた和歌山火力、これ370万キロですから、これを動かせばですね、原発ほとんど動かさなくて良いというようなものもあった訳ですね。




そういうものを事故直後、例えば3月15日と言わなくてもですね、まぁ日本人ですからちょっと決定に時間が掛かると思いますが、4月とか5月頃に決めてればですね、今頃はもう稼働寸前になってたという可能性もあるんですね。そういう点で、やはりですね、国民がやっぱり政治を決めていくというような形にしていく必要があると思うんですね。お上が政治を決めて行くんでは無くて、国民の意志が政治を決めて行くと、こういう政党がどっかで出ればですね、日本は変わっていくと思うんですね。




日本の政党って非常に面白いんですね。何を目指しているかが分からないんですよ。まぁ自民党、民主党、今度もう第三極としますとね、大きな骨組みとして何を目指しているか、という事が分からないんですね。国民はそれを選択し、あとは細かいことですね、一つ一つについては国民の意志によって決めていくと。そういうですね、政治が望ましいんじゃないかと。




そのためにはやはり、このIEAの報告なんかもですね、マスコミが伝える…マスコミってのは政治を誘導する、そういう機関では無くて、「国民が政治を決めていくための資料を提供する」っていう、そういう役割に戻ってもらいたいな、とこういう風に思います。


(文字起こし by たくまー)

放射線の人体への影響と専門家の倫理(その3)



--------ここから音声内容--------


(音声4)
さていよいよ、本論のですね…中心的存在である、専門家の倫理について踏み込んでみたいと思います。この専門家の倫理ってのは、専門家の人の関係するんだなぁと皆さんお思いでしょうけど…これはこれを理解しないと、被曝っつうのは止まらないんですよ。被曝を我々は止めなきゃいけないんですね。いろんな責任もありますが、一番大切なのは、子供達の被曝を止めるってことですね。





これはですね、専門家の倫理に尽きるんですよ。これがしっかりすれば、子供達の被曝は相当止まると…私は思っているわけですね。そこで何回も専門家の倫理っていうのを話してる訳ですが。なんか…武田先生はいやに論理的なことを言ってるって…いやそうじゃなくて…どうしたら子供達を被曝から救うことができるか?という中心的なところが、実はこの専門家の倫理なんですね。





これをちょっと解説しますと、現代社会はきわめて複雑であります。そこでですね、適正にそれを運営する為には、特別な権限をもった人を置かなきゃいけないんですね。例えば…裁判官は死刑判決をします。死刑判決ってのは、殺人ですよね。それから、医師は足の切断手術をします。足を切れば傷害ですよ。それから、教師は思想教育をしますね。思想教育ってのはこれ、共産主義がいいとかそういうんじゃないんですよ。「これをこう考えなさい、あれはこう考えなさい」という訳ですから、これは思想の自由に違反しますね。





だけど、この職業的権利が与えられているわけです。裁判官は命をとり、医師は足を取り、そして教師は心に手を入れると、まぁこういう事ですね…その権利が与えられている。しかし、それはですね…一番上に何か別のものがなきゃいけないので、「国」の上にですね…裁判官は「正義」があり、医師は「命」があり、そして教師は「真理」があるわけですね。





これのことをよく私は例えば、ある医師が野戦病院で治療にあたっていた場合、敵国の戦士が運び込まれてきたらその命を助けるんだと。戦争中ですからね、何しろ隣で同胞が命を掛けて敵兵を殺してるっていう中で、国家とか上司とかの枠組みを越えて、医師は命令者…つまり「命」に忠実であるということが求められている訳ですね。これはホントに特異なんですね。だから従ってですね、裁判官とか医師とか教師は、時に反社会的なんですよ。反社会的っていうか、全体的には社会的なんですが、戦争してるときに敵兵助けちゃうわけですから、まぁ反社会的なんですが…しかし、それを許すというのがですね、国家の正常な姿な訳ですね。





例えば殺人犯っていうのがあります。これはまた、裁判官と医師の間は合わないってやつですね。裁判官が「死刑判決」した死刑囚を、医師は「治療」するんですよ、具合が悪いと。死刑裁判を受けて死刑を待つ人がですね、胃の具合が悪いっていったら、医者はそこに行って治療するんですよ。今から殺そうって人を治療するんですから、これは変なんですけど、裁判官は「正義」が一番上であり、医師は「命」が一番上なんですね。それぞれの職分を果たすってことなんですよ。





この時医師がですね、「だいたい殺人罪を犯した人なんかを…健康なんか助けるか!」って言っちゃいけないんですね。これは私が今、タバコで言っていることがそうなんですよ。病院でタバコを吸うのを禁止されたりですね…これはまぁ良いかもしれませんが…呼吸器の医師によっては、タバコを吸う人を治療しないって人がいるんですね。これは絶対駄目だと…こう私は言っているんですけども…まぁこの例でお分かりになったらありがたい、と思っておりますが。





ところがこの福島の事故においてですね…医師ばかりじゃないんですよ。私は医師ばかりを攻撃するって言いますけど、私は治療という医療の行為は、非常に大切だと思うんですね。これを今、壊そうとしているんで、私はそこを指摘している訳でありますが…。





被曝の4階建て。つまり医師がですね…権限を持っているのは、単に医療被曝の2.2ミリシーベルトの部分だけなんですよ。原発からの被曝の1ミリシーベルトを言っちゃいけないんですね。つまり、自分は患者さんの健康の為に足を切断しますが、だからといって、他人に足を切断していいって言っちゃいけないんですよ。





例えば、医師がこう言ったとしますよね。「我々はCTスキャンを使うから…CTスキャンを使ったら6ミリシーベルト被曝させると、だから1ミリシーベルトは大したこと無い」って言う医師が現実に居るんですよね。それは何を言ってるかっていうと、「我々は足を切断する手術をするのだから、指ぐらい切断しても良い」と…こんなこと言ってるのと一緒なんですね…切りつけても良いとかね。だめなんですよ。医師はなぜCTスキャンができるかというと、CTスキャンで被曝して損害する分だけは利益があるということで、医師が判断されているわけですね。ですから、決してここを間違ってはいけません。





もしも、ここんところをですね…原発からの被曝1ミリに医師が言及したらですね、医師は医療の自由を失います。私はですね、医師が医療の自由を失うのは非常にいけないと思っているんですよ。この頃、医師の誤診などに対する、非常に激しいパッシングなどがあります。私はそれは反対なんですね。まぁひどいのは別にしましてね、やっぱり医師も人間ですから、診察する上で多少の誤診はある。しかしそれを承知で専門家の医師というのを信用して、医療を任せるというのが、現代の複雑な社会で最も大切なことなんですよ。





まぁそういうことで、これについては…医師は今後一切「原発の1年1ミリ」については言及しないで欲しいと。これが非常に大きく、多くの人に被曝の原因をつくりました。ですから、まぁそれに対して医師は大きな責任がありますね。東電からの被曝は何のメリットも無いわけですよ。お医者さんがCTスキャンをするのはなぜかといえば、それによって、内臓なら内臓の疾患が分かり、その人の命を助けられるから「6ミリシーベルトの被曝」よりかは「益」があるということな訳ですからね。





医師が1年何ミリの被曝まで医師会のほうで認めるかは別にして、住民にですね…やや半強制的に違法な被曝をさせている、福島の医師が居られますから。私はある会議でこういった医師については、医師免許の返納を勧告するべきだという質問をいたしましたが、まぁ質問された医者の方はですね、まぁ日本に住んでおられますから、そんな過激なことはちょっと…っていう顔をされていますけど…それは無理ないと思いますが。しかし、そこはしっかりと考えなければいけないという風に思います。





それからもうひとつはですね…一応ですね、日本の法律というのは、「被曝が健康に害する」という前提に立ってなされているわけですね…。今までもお医者さんはそういうに普通の人を指導してきましたが、それが「政府の方針があるから、健康を害して良いんだ」と、こういう政治的判断をしているということですね。





これは福島から大量の避難者が出ると日本が混乱するという政治的判断があります。この政治的判断に、医者が加わってはいけないんですよ。それでさっき言いました様に医者っていうのは、野戦病院に居てもですね…敵兵を助ける、つまり政治的判断の中に居ちゃいけないんですよ。なぜ政治的判断の中に居ちゃいけないかというと、医師の命令者は「命」だからですね。「命」だから、政治的判断は、その下位にあるわけですね。だからそこのところをですね…しっかり分からないとですね…両足を切断する手術ができないということなりますので、非常に大きな問題であるというわけですね。





それから第3はですね、医師は独自の治療はできないっていうことですね。裁判官は自分で法律を作らないんですよ。「社会に認められた法律」に基づくわけです。これどうしてかっていうと、裁判官も法律家ですから、「この法律はこうあるべきだ」という思想があると思うんですよ。しかし、裁判官が自分で勝手に考えた思想に基づく法令で、判決するわけにはいかないんですね。





たとえばある裁判官が「窃盗ってのは非常に良くないんだと、これを許してくと社会が乱れるから死刑に値する」というんで、窃盗で死刑を判決するってこといけないんですよ。「1個のパンを盗んだから、死刑だ」というのは、やっぱり社会正義に反するんです。これとほとんど似たようなことを、今度医師の方が言ってっておられますね、ええ。「私は100ミリが正しいと思うから、100ミリだ」と、これ駄目なんですよね。





安楽死は医療だ…というのは確かかもしれませんね。お医者さんとしては…一生懸命治療されているお医者さんとしては、こんなに苦しんでいる人を、まだ無理やり生かすのかと…本人の為には安楽死させた方がいいんじゃないかと思うこともあると思いますね。だけどしかし、これは駄目なわけであります。





だから、「現在のところの規定ってのは、きちっと守る」ってことが必要だと思います。えっとですね、これはですね…実は今までお医者さんのことばかり厳しくいってまいりました。しかしこれは、お医者さんがこういう例では非常に良くはっきりするんですね。私はですね…くれぐれも間違えないで欲しいんですが、お医者さんを尊敬し…社会がですよ、そして医療はお医者さんに任せる…お医者さんとか看護婦さんに任せる、ということが、本当に大切だと思っているんですよ。





そうしますとね、これは社会としては、お医者さんに絶対の信頼を置くということが必要ですし、お医者さんの方は、それに応えてきちっとした医療の倫理ですね。つまり我々は「命」を命令者として動くんだと、政治だとかそういうことをやらないんだっていうことで(音声がここで切れていました)





(音声5)
えー先ほどの録音の時にちょっと時間を間違えましてですね、途中で切れちゃったんですが…えーっと医療は非常に大切であるってことですね。それでまぁ、ここに例を主に出しているわけですが、これは教師であれですね、他のところでも全く同じですね。例えば高速道路の運転をしている運転手にですね、「この道路の制限速度は80km/hだけど、私は専門家で危険性が分かるから、140km/hまで大丈夫だから、それで違反しなさい」というアドバイスをしたらいけないんですね。




だからといって、変更しちゃいけないってことじゃないんですね。制限速度検討委員会で学術的根拠を述べて「80km/hから140km/hにする」という進言することができるわけであります。また、実際に運転してない場合ですね、たとえば、今度の場合、放射線が漏れてない場合にですね、放射線の被曝限度を議論するのは適当なんですね。これはTPOがあるって事ですよ。




やっぱりね、火事が起こっているときに、やけどの限界はどうだってことを議論するんじゃなくて、火事が起こっているときはまず逃がすと、もしそこに基準があれば、基準をとりあえず守ると、火事が収まってですね…鎮火したら、これまでの規則をここでちょっとまずいんじゃないかってことを見直すと…これはですね、常識中の常識じゃないかと思いますね。




まぁこういった問題はですね…実は私が倫理問題として、大きく取り上げているのは、このグラフですね。このグラフは電力会社が自らの従業員に対して、自主規制してたんですね。この平均線量が驚くべきことに、1年1ミリなんですよ。これは平均ですからね、人によってはまぁ2ミリの人もいたでしょうけども、現実に自分達が従業員を「1年1ミリ」に今から20年前からやっていたにもかかわらず、自分達が事故を起こすと「20ミリまでいい」とか「100ミリまでいい」という、国の方針に文句をつけない、と。





これは本当に…こう産業人の堕落なんでしょうね。もちろん専門家もそうですですが。やっぱりそれはひどいですよね。自分は「1年1ミリ」だと、自分が起こした事故で、「あなたは20ミリまでいい」と。「それはないよ」という感じで、これは論評することも無いと思いますが、日本の専門家が実にぼろいということですね。






私この前、食品安全衛星委員会に関する…専門家の、国の宣伝ビデオの中で、ある専門家が出てまいりまして、もう本当はね…顔も出したい、名前も出したいっていう感じなんですがね。その方がですね「被曝を怖がるのは科学的じゃない」って言うんですよ。これはまぁ書きましたけどね。





被曝を怖がるのが科学的じゃなかったら、いったいこういうのって全部どうなってたの?と。科学者って居ないんですか?、1年1ミリっていうことを決めた…この自主規制ですね、これは。電力会社の従業員が本当は20ミリまで浴びてもいいのに、1年1ミリシーベルトに制限して、従業員3万5000を8万人ぐらいまで増やした。これは科学に基づいてなかったんですかね? 何にこれは基づいてたんでしょうか? そういうことをですね、国から金をもらったからって、もしくは自分の信念だからといって、作る国の方も国だし、専門家のほうも専門家ですねぇ。




これはイタリアで地震が起こった第一審判決で、「地震は来ない」と言ったことに対して、過失致死罪で禁固刑が言い渡されましたが、これはまぁまともなことですね。これはですね、仕方が無いことなんですよ。これは言論の自由でもなんでもないんです。これは学問じゃありませんからね。学問というのは、純粋に学会なんかで、利害関係の無いところで発表されるもの、もしくは議論を戦わせるものであり、あの図で示すですね「裁判官・医師・教師」というような専門職は、これは学問の領域からもう一歩社会に近づいておりますから、だから違うわけですね。





委員会でもですね、委員の一員ではなくて、権限無くですね、意見を求められて、学問のことを言うのはそりゃ良いんですが…委員の一員で決定権を持つ場合とか、社会的な影響を持つ場合、だめですね。例えば、中央教育審議会の委員として参加し、ゆとりの教育を指示したけれども、それがすぐ失敗して駄目になった場合は、教育関係者は絶対責任を取る必要があります。子供の(子供に)被害を与えたって意味で、やっぱり何かの、例えば辞職であるとか…大学の先生辞職するとか、そういうことは必要あるでしょうね、ええ。









ですから今回の一連の被曝・原発の事故に関して、公的な地位にあり、また公的な委員会にあり、もしくは広く国民に呼びかけて、1年1ミリ以上の被曝の増加を進めた場合ですね、被曝による患者さんが1名でも発生したら、これはやっぱり過失傷害罪で逮捕しないと、やっぱりこの…子供の被曝は止まらないという風に思いますね。えーまぁ以上ですね。福島原発の事故を1年半たったところで、主に被曝について整理をいたしました。








被曝についてはですね、その…私が先に言いましたように、原発事故は原発自身の問題も非常に重要なんですが、なんといってもまずは子供を助けることだってのが、私の主たる論調なんですね。火事が起こったとき、火事の原因とかそういうものを探るよりか、まず火事場からやけどしないように子供を救うのが先だと。それでまず、やけどを治すのが先だ、っていうのが私の考え方で、それが終わったらじっくりと家の建て方とか、そういうのを検討しようじゃないかと、こういうことですね。







なお、私はですね、あまり文章の中に、引用文献を引くのがあまり好きではありません。これはもちろん私の論文ですね…学術論文は、1つの論文でも20とか40とか…参考文献を引いている訳でありますが、一般的な場合はですね、まず参考文献が掲げられていてもですね、それをいちいち見るってことが非常に難しいって事でですね。









もうひとつはですね、その人の著作物が、必ず署名がいるって私は言ってるんですよ。誰が言った?って。なぜかっていうと、その人の責任だからですね。そこに書いてあることが、引用文献があるから信用できるんじゃないんですよ。書いた人が信用できるかどうかによって決まるんですね。ですから私はですね、あまり引用文献書きません。









リサイクル関係でもあんまり言われましたので、1個ですね、環境関係で「科学者から見る環境問題」という本を書きまして、そこにですね200か300ぐらいの引用文献を書きました。それで代表しました。つまりですね、私の著作をみれば、全体としては必ず引用文献があるのですが、個別については、あまり引くようなことをしてません。









しかし今度はややまとめましたので、関連法律はありますよってことですね。たとえばここでいっている「電離放射性障害防止規則」それから「放射性同位元素等による放射線障害防止に関する法律ならびに施行令、施行規則」、これは文部科学省の書簡ですけどね。それから原子力安全委員会の指針類ってのはですね、これはもうちょっと、ここにかけないくらい多いんですよ。しかし、それはネットで大半は手に入れることができます。それから国会の事故報告などがありますが、これはあまり参考にしておりません。一応ある程度の評価ができるものはありますが、ちょっと学術的ですね。









それから、事故後のまぁ報告としては、有名な「広島原爆の追跡調査1950年~2003年まで」のものはあります。それから沖縄琉球大学のほうでやりました蝶の研究などがあります。私の著書にもですね、いろんなところから放射線に関するものを出させて頂きました。これらはですね、特に新しいものが書いてあるというよりかは、全体をまとめております。全体をまとめた考えを持つということは非常に重要ですので、時間がありましたら私の本もちょっと見てですね、いろいろ全体像というものを形成していただければと思います。







いずれにしてもですね、我々は原子力発電所を動かせば、核廃棄物が出るって分かってる。赤ちゃんを産めば、オシメを変えなきゃならないの分かっている。物事は、良い事があるし悪いこともあるってことが分かってる。しかし、大人という存在はですね、良いことだけを望むんではなくて、良い事と悪い事を両方受け取るというのが大人であります。









そういう点ではですね、原子力発電所については、何しろですね、我々は核廃棄物の処理設備ももっていない。現在130万本ありますが、200万本ぐらいまでいきますね。そして、そのときやっぱり原発はやっててもやってなくても同じなんですが…仮にやってないとしますよ。そうしますと、我々の子供達はですね、親父の使った電気をもらうわけにはいかず、廃棄物だけを片付ける。親父はですね、廃棄物を片付けずに、電気だけもらってクーラーの中で休むと、こういう風になりますのでね。やっぱりここはですね、日本人らしく「子供の為に」という視点にもう一回立ち返らないといけないと、私はそう考えています。


(文字起こし by ちゃりだー)