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お手伝いさんたちのブログ

中部大学 武田邦彦先生のブログの中で、音声収録のみのものをテキスト化して掲載しています。
テキスト化及び掲載にあたっては先生から許可を頂いています。

放射線の人体への影響と専門家の倫理(その2)



--------ここから音声内容--------



(音声2)
えーそれではフランスはどうかってことをみてみますと、フランスはですね…大西洋側に立っておりますので、大きな地震とか津波はほとんどない…一切ないといってもいいぐらいですね。それから海岸線にあるものも無いじゃないんですが、ほとんど川のほとりにあります。たとえばパリを流れるセーヌ川の上流側に二つの原発があるわけで、パリを流れるセーヌ川に原発の廃液が流れるということになるわけであります。





もうひとつは、南にロアール川があるわけですが、これはまぁご覧になってわかるように、フランスでは長い川で…一番長い川だと思いますが、この上流にですね、原発が約20個くらいあります…中流も含めてですね。そしてよく知られているように、このロアール川の中流から下流にかけてはブドウ畑の産地、ぶどう酒の産地でありまして、ここで有名なぶどう酒が多数生産されます。





このようなことが日本で行われるのか?というとを考えてみますと、なかなかそういうことはいえません。上流に原子力発電所が20個あり、そこからの廃液がどんどん流れてくるところでですね、水道用水を取り、農業用水を取り、そしてぶどう酒を造っているということになりますから…「フランスのワインがおいしいのは、原発の廃液が入っているからだ」というようなジョークをまぁ言いたくなる訳です。こうなりますと、「フランスは危ないじゃないか?」って言うけど、この地図も公開されとりますから、フランス人は、別に気にしていない訳ですね。





っていうのは、もともと廃液は綺麗だからであります。フランス人に「なぜこんなところに原発作るんですか?」っていったら、「安全だから」って答えるでしょうね。それは当然そうで、安全でなかったら、原子力発電所はどこに作っても同じであります。したがって、「まぁまぁ、なぁなぁ」のある文化の日本と、そうではない「論理的」なフランスというのが、ここに差ができているんではないかと思われます。何が何でもフランスがいいとか、そういうことをいってるんじゃなくて、フランスの考え方と日本の考え方の差ですね。





もしも、フランスのロアール川の上流にある原子力発電所の廃液の管理がずさんであれば、ほかの国もですね…「どうも、フランスのワインは放射性物質で汚れてるんじゃないか?」と疑いをもちますからね。それがないように、非常にしっかりやってると、いうことになるわけであります。





いずれにしても、原子力発電所ってのは非常に膨大な装置でありまして、大体ざっというと広島原爆の約1000倍から1万倍ぐらいの放射性物質を持っております。今回福島原発事故で漏れた放射線量は、80京ベクレル…77京ベクレルっていいますかね、日本政府が発表しております。もう少し大きいって説もありますが、まぁこの場合これとしましょう。





そうしますと、広島原爆のときの放射性物質量の約200発分に相当するわけです。そうしますと、皆さんよくお分かりのようにですね、原子力発電所ってのは、どっか僻地に作ったからわからないというものではないわけですね。それが、日本では「危険だ」とされているわけです。原発が危険だとされていて、原発を作る、というのはもともと非常に変なんですが、従って海岸線に…僻地に作るんだと、いうことですね。





「東京で使う電気をなぜ東京で作らないのか?」→「危険だからだ」と。「危険なやつどこで作っても、だめなんじゃないの?」→「新潟と福島では作る」→「なんで新潟と福島では作るんですか?」→「そこは貧乏だからだ。お金を渡せばいいや」と。まぁこういうことで、今まで来たわけですね。





たとえば日本で原発を作る最も適した土地は、私の考えるところ琵琶湖だと思うんですね。まぁこの地域は地震も少なく、津波もなくですね、水も淡水ですから、塩水で冷却するよりはるかに安全であります。しかし日本人は原発を琵琶湖に作りたくないと思ってます。これは滋賀県の人は当然そう思っていまして、こんなこという自体がタブーである、という感じなんですが…。なぜこれがタブーなんでしょうか?それは「原発が危険だ」と考えているからですね。原発自身も危ないし、それから廃液も汚いんだろうと思っているからですね。





「なぜ東京に原発ができないのか?」、「なぜ琵琶湖に原発を作れないのか?」それでいながら、「なぜ原発は安全なのか?」。この矛盾した関係を日本人は飲み込んでしまうんですが、これが原子力発電所の場合、非常に都合の悪いことだったと、いう事が言えるんではないか、という風に思うわけですね。「危ない危ないと思いながら、運転をする」という事態が、非常に異常であろうと、いう風に考えられます。





ところで、本記事の主な内容ですね…「放射線と人体の影響」について、踏み込んでいきたいと思っています。放射線と人体の影響のうちですね…いわゆる1年100ミリシーベルト以下の「低線量被曝」と呼ばれる部分については、医学的には明確ではありません。従って、環境基準を決める、というのも非常に難しいことであります。そこで、日本の法体系では、2つの原則に基づいてこれを行っておりますが。





ひとつは予防原則でありますね。これは1992年のリオデジャネイロサミットで、国際的に合意した、いわゆる原則15でありますが…このブログでも何回か示しておりますが「環境を防御するため各国はその能力に応じて予防的方策を広く講じなければならない。重大あるいは取り返しのつかない損害の恐れがあるところでは、十分な科学的確実性がないことを理由に、環境悪化を防ぐ費用対効果の高い対策を引き延ばす理由にはならない」





これは国際的な文章を、更に英語を日本語に訳したってことで非常に分かりにくくなっておりますが、簡単に言えば「重大あるいは取り返しのつかない損害の恐れ」のある時ですね、これは「科学的確実性がないこと」を理由にして、その費用を心配して「対策を引き延ばすことはできない」という風なことであります。





この原則はですね、たとえば…水俣病などをみると分かるんですが、1953年に最初の患者さんが出まして、その3年後…つまり1956年にはですね「おそらく水銀ではないか?」という推定がなされたんですね。ただ、科学的確実性を持つためには時間がかかりますから、その後ぐずぐずとやっている間に、10年、18年と経ちまして、現実的に工場をとめて、水銀の流出が止まったときには、患者さんは1万人以上出ると、こういう悲惨な結果になりました。





つまり、「何か怪しいなと思ったとき、科学的確実性を求めてはいけない」ということがまぁ…経験によって分かってきたということでありますね。もう少し論理的に言いますと、このような人間の健康に及ぶようなことはですね、いってみれば、死人がかなり…死者がかなり出ないと、科学的確実性が出ないんですよ。だから、死ぬ人を待ってるって感じになるんですね。今度の福島で、多くの人が「まるで生体実験をされているようだ」という風にいいますが、まさにその通りで、科学的確実性を求めるということは、人間に対する科学的に確実な結果を得るってことですから、それはもう病人が相当でないければいけない訳で、それを待つということになりますね。これはどうか?ということですね。





でまぁ、現在では国際的な約束であり、日本の法令である限度の「1年1ミリシーベルト」を誠実に守ると。加えてですね、ここは重要なんですが、「1年1ミリシーベルトには、科学的確実性がないと言ってはいけない」っていうことなんですよね。これはもう、ずいぶん多くの専門家が「1年1ミリシーベルトには科学的確実性がない」と…科学的確実性が「無くて良いんだ」っていってんのに…そうすると「危険を煽る」なんて言うですけど、そうじゃないんですよ。





「予防原則」というですね、われわれの環境関係の知恵をですね…これは本当は環境省がちゃんというんですが、環境省が逆の事言ってる訳ですね。特に長崎大学の医師がですね、被曝限度の国の検討会にて「科学的厳密性がない」とこう言っているんですよ。いや…科学的厳密性を守っちゃいけないんだといってるのにですね…それがですね、実は大臣も出席し、環境省の高官も全部出席している中で、このような議論が通るということ自体が、残念ながら「日本の民度が非常に低いな」という感じが致します。





それから、もうひとつの重要な点はですね…「日本は被曝に対してどういう考え方を持っているか」ってことですね。これは、広島・長崎の被爆をうけて、多くの人が知っているように、「電離放射線を受けることは、できるだけ減らさなきゃいけない」ってことは、ひとつの思想っていうか考え方になっている訳ですね。これはいわゆるICRP(国際放射線防護委員会)でもそうでありまして、「正当化の原理」ってのがあるわけですが…これは「被曝というのが、人間の体に影響がある…悪い影響がある」ってことが前提にですね、「被曝によって受ける損害分だけ、利益が必要である」。つまり「損害を受けるとしたら、利益の供与が必要である」という概念を打ち立てているわけですね。





そして、被害が出ない被爆量…これは日本では1年0.01ミリシーベルト…つまり10マイクロシーベルトなんですが…それと、我慢ができる被曝量…これが被曝限度で、1年1ミリシーベルトであります。これはですね…「放射線が有害であるということを、ひとつの前提にしている」ということを、まずここで分かる必要があると、このようになっておるわけです。





(音声3)
つまり被曝というのは、健康に被害を与えるという、基本的スタンスであるということを了解しなければいけませんね。これは医学的には、もしかすると違うかもしれません。「ホルミシス効果」っていうのがいわれていますが、これについては、ちょっとですね…異なる考えがあるわけありまして。





ホルミシス効果が1年に50ミリシーベルトもあるなんていうと、私はすぐにそれについては…この前も、研究会で質問をしたんですがね…人体もしくは生体が持っている防御系っていうのは、環境からあまり離れた防御系は持っておりません。従ってホルミシス効果が、1年50ミリとか100ミリのとこに相当するってことになるとですね、それはちょっとありえませんね。





自然の放射線が1.5ミリとか3ミリとかいったレベルでありますから、生体におけるの放射線に対する防御は、通常はですね…年間1.5ミリ、もしくは3ミリくらいを目処にできていると考えるのがですね…これまでの学問の成果であります。もしも放射線に対するホルミシス効果が50ミリシーベルトとか100ミリシーベルトもあるというんであればですね、今までの学問が間違ってたってことになりますので、これをどのように考えるかについて、説明を必要とするわけです。





ちょっと話が外れますが、リサイクルのときにいったわけですね。リサイクルが資源を節約するっていうんであれば、エントロピー増大の原則に反するので…それは反してもいいんだけど…「なぜリサイクルがエントロピー増大の法則に反するのか」っていうことを説明しなきゃいけない。まぁ一般の人はいいにしても、少なくとも専門家はですね…その説明の下(もと)に、リサイクルがいいって言わないとですね。





学問ってのは、実験結果が出たから、そのままそれでいいって訳ではないんです。実験結果が出て、それまでの理論と違うときは、「実験結果が出ましたが、これまでの理論とは相反します。だから、慎重に検討しなきゃいけません」っていうのが、良心的な学問でありますので、その点では、このホルミシス効果がですね…1ミリ2ミリぐらいのホルミシス効果があるってのは、普通の免疫系とか、通常の言い方でありますから、特にホルミシス効果とか言わなくていいわけですね。それをもし超えるような効果を放射線に対して持っているならば、その原理原則をきちっと説明するという必要があろうかと思います。





まぁこれはちょっと脱線いたしましたが、いずれにしてもですね…制限を設けているのは人工的に作られた医療以外の被曝であります。これについて、人工的というのに「原爆実験によるものが入るかどうか」ということについては、現在のところ算入されていません。これは本来は入れるべきかもしれませんが、慣用的に算入していないということですね。





そしてICRPの勧告では…最近では1990年の勧告と2007年の勧告がありますが…まぁそれに基づいて放射線審議会などで審議して、決定している訳であります。ここに図を示しましたが、私がかつて「東大の教授は足し算ができない」と言ってましたけど、「自然被曝1.5に対して、原発による被曝は1ミリってのは、自然被曝より少ないんじゃないか」と言う人もいたんですけど、こりゃ足し算ですから…足し算同士を比較するということはできませんからね。





たとえば、100+10は110なんですが、「100と10を比較すると10は小さいじゃないか」ってことは全然関係なくて、引き算でもなんでもないわけなんですね。足し算のことですからね。ここに書きましたように、自然被曝1.5ミリ、医療被曝はまぁ2.2ミリって言うかたもいるし3ミリという整理をされている人も居るんですが…それから核実験被曝0.3、それに原発被曝が足されまして、5ミリシーベルト、これに対して発症レベルがどこにあるか?という議論であります。





ええと…自然放射線がすごく高いところがインドとかイランとかブラジルにあるということで、例えば5ミリとか10ミリのところでも人が普通に住んでいるじゃないか?ということがあったんで私が調べてみましたら、とんでもないことでですね。まずひとつに、「平均寿命が非常に短いので、がん年齢まで達してない」ってのがひとつありますね。





それからもうひとつはですね「まだ医療が発達していないので、”がん”という診断自身が少ない」んですよ。日本でもですね、私が小さい頃なんて”がん”なんてありませんでした。”がん”が無かったんじゃなくて、”がん”という診断が無かったんですね。ですから、まぁ30歳とか40歳ぐらいで亡くなるときにですね…医療の発達してないところで比較をしてもですね、あまり意味が無いということですね。





それからもう一つは、非常に調査が荒いんですよ。例えば、家にずっと居る女性と、それから、ほとんど海岸で…インドなんかの場合そうなんですが…漁に1日中外に…海んとこに出ているという人もいましてね…全然分からない。ブラジルの場合はですね、かつては割合と高かったんですが、現在の線量調査をみますと、コンクリートとかアスファルトのせいなんでしょうか…非常に低いんですね。まぁ我々とあまり変わらない。関西地方とあまり変わらないという線量率なんですね。





しかし、測定値は昔のものを使い、がんの発生は最近のやつを使うっていうですね、都合の良い事をずっととっているわけですね。ですから私が見る限り「自然放射線の高いところで、がんが特に高くない」ってのは、まぁ学問的にはかなり怪しいと…いう風に感じがします。いずれにしましても、合計このような図になっております。





またですね、事故のときに、どういう指針があるかというと、色々指針があるんですが、まず一番簡単な指針はですね、原子力安全委員会なんかがいっている「1事故あたり5ミリシーベルト」。これは、1事故あたりってのが何年に渡るかは知りませんが、福島の事故が1事故あたり5ミリまでは良い。例えば5年と考えますと、事故による被曝が1年平均して1ミリシーベルトだと。最初の年に3ミリシーベルトあたって、次が0.5、0.5、0.5、0.5と五年間で5ミリと…こんな感じですね。これを越すような状態のときは、その地から離れなければいけない。ということですので、福島はやはり、1事故当たり5ミリシーベルトという、原子力安全委員会の事故時の規定にも反すると思います。





それから、その他に色々ありますね。例えば「原子力発電所の事故によって発がん死は通常時の0.05%を上回ってはいけない」ということで、そうなりますと大体150人とか200人の発がん死が限度でありますので、これも現在とはちょっと違うかなと思います。また、更に細かい学問的なことも議論されて、ある程度決まっておりまして…ここに示す図はですね、関係者には非常になじみがある図なんですね。





私この前、あるテレビで原子力の専門家にお会いして、なにか違うこと言っておられたんで「あの階段状の図はご存知ですか?」って言ったら、それだけで「えぇ良く知ってますよ、そんなのは。どこの雑誌にもでてますから」なんて言っておられましたけども、一応、今のとこ隠してるわけですね。





これは、縦軸に事故の可能性をとります。たとえば1万年に1回の事故ならですね…まぁ10ミリシーベルトぐらいまで上げていいですよと。1000年から1万年…まぁそんなような感じが、容認できる領域であります。まぁ3000年にいっぺんとか5000年にいっぺんぐらいだったら…まぁ数ミリシーベルト上げてもいいだろうと、そういうようなことなんですね。これは、いろんな考え方があるんですが、たとえば、集団でDNAが損傷した場合に、それを回復する時間という風に考えても良いんではないか?という風におもいます。





このようにですね、被曝に対する国際的な約束、もしくは色んなことっていうのが、いままで考えられてきてます。一番、今度のですね、一連の専門家の発言で問題なのは「日本人を被曝から守る法律が無い」と言っている訳ですね、これは何を言ってるかといいいますと「電離放射性障害防止規則」であるとか「放射性同位元素等による放射線障害防止に関する法律」というものはあるけれども、原子力関係は法体系が別になってるんですね。





従って、原子力関係の法体系には、実は被曝のことは隠されているわけですよ。それを盾にとっているわけですが、それはですね、いわば実施側の論理ですね…被曝側の論理ではなくて。被曝側の論理としてはですね…レントゲンで被曝しようが、放射線同位元素が研究用で被曝しようが、原子力が爆発しようが、身の回りにあるのはセシウムだったりなんかして…同じわけですね。ですから、国民の健康を守るといういうことをもし政府が考えているならば、法律のうちで、健康に影響のある法律を採用するはずなんです。ところが、国民の健康はどうでも良いと、原発を動かす方に主力を置けば、原子力関係の法律をとる、ということになりますね。





つまり、法律は誰の為にあるのか?ってことになりますね。でまぁ、国民の直接的な健康の為であれば、当然「電離放射性障害防止規則」のようなものが使われるし、それから、「国民のある程度はがんで死んでも、日本国としては発電がするのが大切だ」という観点からみれば、原子力関係の法律を使うということですね。これは見方によるんですが、まぁ私なんかはですね、「いくらなんでも科学技術が国民をがんにさせてもいいっちゅうことないから、国民を守る方の法律を使うべきだ」ということですね。これが、私が「法令に書いてある」といい、国が「法令に書いてない」という差なんですよ。これは両方とも正しいっていや正しいんですよね。まぁ法令と言うのが何の為に(音声はここで切れていました)


(文字起こし by ちゃりだー)

放射線の人体への影響と専門家の倫理 (その1) (10/28)


(※音声が5つついていて、合計の尺が50分程あり、4万文字を超えたため、一つの記事に収まりませんでした。その1~3に分けています。ちゃりだーさん、大変にお疲れ様でした。ありがとうございます)



目的


この記事は福島原発事故後、1年半を経てその概要を放射線の人体への影響と、それに関する専門家の倫理についてまとめたものである。タイミングとしては、次のような状況を踏まえている。



1986年4月26日に起こったチェルノブイリの原発事故は「良心的」と言っても良いものだった。ソ連政府は「停電すると爆発する」という原発では余りに危険だと言うことで、停電したときの緊急訓練をすることになり、4月26日にチェルノブイリ4号機の運転を止めると同時に電源をすべて落とした. 計画されていた手順で停電後も原発が爆発しない作業をしている時に2つ間違いがして、爆発した.



それからというもの、世界の原発を運転している会社は停電の訓練ができなくなったが、2011年3月12日に起こった福島原発事故は運転中に起こった世界で初めての事故だったのである. また、チェルノブイリの事故と被曝が何を社会にもたらしたのか、未だに分からない。被曝初期の小児甲状腺ガンは10年ほどで治まったが、ベラルーシやウクライナのガン患者数は増加をしている。また両国の出生率は低下を続け、人口減少になかなか歯止めがかからない状態である。それらは被曝が原因しているのか、あるいは社会的なものなのかもまだ不明なのである.



日本においても福島の甲状腺異常の検診結果がかなりの高率になったこと、今でも空間線量率の測定が定まらないこと、除染が進まないこと、さらには食材などの不安が消えないことなど、チェルノブイリと同様の不安を国民に与えている。


1. 福島原発事故の概要と背景
世界の地震地帯は限定されていて、大西洋のような若い海(1億5000万年前に誕生した)は地震も津波も大きいものは観測されていない.これに対して地殻のひずみは太平洋西岸(千島列島から日本列島、フィリピン、ニューギニア、ニュージーランドに至る地域)に集中している.


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一方、原発は世界に430基ほどあり、アメリカ、ヨーロッパ、そして日本が下の図に示したように三極を為している。従って、「先進国の原発」と言っても安全面から見ると、日本の原発だけが震度6の地震や津波に見舞われる状態にある原発であり、欧米の原発と大きく異なる.もともとヨーロッパやアメリカでは地震や津波がないのに加えて、原発が内陸に作られることが多く、川の淡水で冷却しているのでそれだけでもずいぶん安全に関しては異なる状態にある. 何しろ原発は高圧の電気を製造するところであり、それがさびやすく漏電しやすい海水の近くにあること自体が問題である。


フランスの原発は下の地図にあるように海岸線ではなく川の畔にある。
たとえばパリを流れるセーヌ川のパリより上流側に2ヶの原発があるので、パリを流れるセーヌ川には原発の廃液が流れている. また少し南にはフランスを分断するように東から西に流れるロワーヌ川があるが、その上流に13基、中流に7基の原発があり、この流域はワインの生産地として知られている. 日本では考えられないことだが、フランスで最も有名な農産物の一つであるワインの生産地の上流に原発を20基も運転している。「フランスのワインが美味しいのは原発の廃液が入っているからだ」というジョークの一つも言いたくなる.

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しかし、こんな事を言われてもフランス人は気にしない。もともと廃液が綺麗だから原発を運転しているのであって、日本のように危険と分かっているからへき地に作るなどと言う「まあまあなあなあの文化」はフランスにはない. 原発をその国の主力農業の産地の上流に作れば、「そっと原発から汚い廃液を流しているのではないか?」という疑問も発生しない。


原子力発電所というのは膨大な装置で放射線量としては広島原爆の約1000倍から1万倍ぐらいであり、今回の福島原発事故で漏れた放射線量は80京ベクレルと日本政府が発表しているが、これは広島原爆の放射性物質量の約200発分に相当する.


従って、原発というものは危険だからへき地に作ればその影響がないと言うようなものではなく、危険なら作ることができず安全でないと国内におけないような装置なのである。


日本では原発は危険とされているが、それは地震と津波があり海岸線に建設しているからで、まだ地震、津波のない土地に建設した原発そのものが危険であるかは不明である。たとえば、日本で原発を作る最も適した土地は琵琶湖沿岸だろう。この地帯は地震が少なく、琵琶湖には津波はなく、淡水だから塩水の冷却より遙かに安全である。


しかし、日本人は原発を琵琶湖に作りたくないと思っている。それは「原発は危険だから」と考えているからだ。もともと広島原発の1万倍クラスの原発を「危険だから」と思っているのに運転しているということ自体が異常に感じられる。




2. 放射線の人体への影響

放射線と人体の影響の内、特に1年100ミリシーベルト以下の低線量被曝については、医学的に明確ではなく、従って「環境基準」もまた定めるのが難しい.そこで、日本の法体系では二つの原則を適応している.


まず第一には「予防原則」であって、これは1992年のリオデジャネイロ・サミット(環境サミット)で国際的に合意した原則15である(RIO DE JANEIRO DECLARATION (1992))。


原則15:「環境を防御するため各国はその能力に応じて予防的方策を広く講じなければならない。重大あるいは取り返しのつかない損害の恐れがあるところでは、十分な科学的確実性がないことを、環境悪化を防ぐ費用対効果の高い対策を引き伸ばす理由にしてはならない。」


国際的な協定の英語をさらに日本語に翻訳しているのでやや複雑な表現ではあるが、「重大あるいは取り返しのつかない損害の恐れ」のある場合「科学的確実性がないことを」理由にして、それにかかる費用を懸念して「対策を引き伸ばす」ことはできないと明記されている.


まさに福島原発事故による被曝という環境破壊に対して日本がこの国際的な約束を守るためには、法令で定める限度1年1ミリシーベルトを誠実に守ること、加えて「1年1ミリには科学的確実性がない」という理由を適応してはいけないことを示している. 長崎大学の医師は福島原発事故の被曝限度の検討会において「科学的厳密性がない」と言って被曝限度の法令を守ることを退けたが、これは国際協約違反である.


このように予防原則が長い歴史のうえで成立してきたのに、大臣が出席するような国の機関で予防原則に完全に反する議論がそのまま通るというのは「民度の低さ」と言っても過言ではないだろう。


第二に、日本の被爆の防止思想は、電離放射線障害防止規則の第一条に明記されているように管理者は「放射線をうけることをできるだけ減らすように努めなければならない」とされているように「被曝は健康に悪影響を与える」という前提に基づいている。この前提はICRP(国際放射線防護委員会)でも同一思想であり、「正当化の原理」と呼ばれている.
「正当化の原理」とは、人は被曝によって損害を受けるので、それに相当する「益」が必要であり、「損害=益」を基準に規制値を決めるという概念である. 



そして「被害がでない被曝量」と「我慢ができる被曝量」の2つがあり、前者が1年0.01ミリシーベルト、後者が1年1ミリシーベルトである。つまり放射線は有害なので、ゆえなくして近代国家の国民は被曝をしない権利があるという考え方である。


ここで確認しなければならないのは、「被曝は健康被害」というスタンスですべての法令や管理が行われてきたということである.事故後、俄に「被曝は健康に良い」という専門家が増えたが、被曝の最中にこのような発言が許されるのかについては議論を要する。


しかし、この制限があるのは「人工的に作られた医療以外の被曝」であり、慣用的には原爆実験による被曝は算入していない(本来は算入するべきと考えられるが、まだそれまで議論は進んでいない)。 



ICRPの勧告は最近では1990年勧告と、2007年勧告があり、日本は勧告を受けて国内で議論し、法制化している。


つまり、被曝は以下の図の4階建てである。

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自然被曝は日本の場合、1.5ミリシーベルト、医療被曝が平均2.2ミリシーベルト(3ミリという調査もある)、核実験被曝が0.3ミリシーベルト、そして人工被曝(普通は原発など)は1.0ミリシーベルトとなっている. 図で分かるようにこれらの被曝量は「足し算」であり、たとえば「自然被曝が1.5ミリなので、それ以下は問題ない」というものではなく、1.5ミリに加える性質のものである。


また、事故時の被曝については日本政府の指導(原子力安全委員会指針など)があり、「1事故あたり5ミリシーベルトを上限」としている。1事故5ミリという制限は、たとえば原発事故の時に最初の1年に5ミリを被曝したら、その地から離れなければいけないという意味を持つ.


また、事故の被曝によって発生する疾病については、発がん死が通常時の0.05%を上限とすることになっており、日本では原発事故によって約150人の発がん死が限度であることになる.


このような事故時の被曝限度は、「放射線によって損傷した遺伝子などの被曝が、集団として消える被曝量と年限」で決まっていて、以下に示す図の関係にある. つまり、1000年に1回程度までの頻度なら1年1ミリシーベルト、それを超えて1万年に1回程度なら10ミリシーベルトとしている。これは国際的な検討に使われる図であり、日本の原子力関係者なら誰もが知っているものでもある。


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3. 専門家の倫理

現代社会はきわめて複雑で、そこに適応している技術も高度である。従って、それらの社会システムや技術を適正に行うために、社会が専門家を認定し、特別な権限を与えている.たとえば裁判官は死刑判決(殺人)、医師は足の切断手術(傷害)、そして教師は思想教育(思想の自由違反)をする職業的権利が与えられている.


しかしそれには国家を超える上位の命令者が存在することが必要となり、裁判官は「正義」、医師は「命」、そして教師は「真理」に忠実であることが求められる.つまり、著者のような学者と教師は「真理の神に忠実」である.医師で言えば野戦病院で治療にあたる医師は、敵国の兵士の命も助ける.これはきわめて異常であり、そばで同胞が命をかけて敵兵を殺そうとしている中でも、国家、上司等の枠組みを超えて、命令者に忠実であることが求められるからである。


その意味で、裁判官、医師、教師は反社会的になることがある。国家としてその命を救わなければならない人であっても法の下の正義のためには死刑判決をし、国家にとって殺すべき人物であっても、医師の手にあるときにはその命は延命される.


今回の福島原発事故にあたって、多くの医師がこの「医師の倫理」を逸脱した. 一つは前節の「被曝の4階建て」の図に示したように、医師がその権限を持っているのは医療被曝の2.2ミリシーベルトの部分だけであり、原発からの被曝の1.0ミリシーベルトは法令で定められる社会的な量だから、医師は口を出すことができない。もし医師がこの法令の規定に異議を唱えたら、医師に独占的に許されている医療被曝をも規制されることになる。

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医師が独占的に「靱帯を損傷する」と定義されている被曝を自らの判断でしうるのは、医師は患者の生命にたいして総合的な責任を持っているからである.つまり「被曝の損害より、命の損害が大きい」という場合のみに患者を被曝させることができるからである。福島に住んでいる健康な住民は命の損害と原発からの被曝の損害を比較することはできないから、医師は異議を申したてることは許されないが、医師で1年100ミリまで被曝を認めるとして実際に言動をし、住民に半強制的に違法な被曝をさせている医師が目立つ.


先日、ある研究会で医師の先生に「医師会かしかるべき組織で、医療被曝以外で1年100ミリシーベルトまで被曝を認める医師の医師免許返納を勧告するべきだが」という質問をしたが、日本文化の中ではそれは過激な言動に感じられるらしい。専門家は仲間内よりも公共的な見地に立たなければならない存在である。


第二の違反は、「政府の方針に従って、健康を害する(とされる)方向に進んでいる」と言うことである。先に述べたように医師の行動は反社会的である場合がある。今回の例では「福島からの大量の避難者がでると、日本が混乱する」という政治的決断があったとする.その場合でも、医師は個別の住民の被曝をできるだけ減らすことだけに専念しなければならないからである。


この医師の倫理は厳密に守らなければならない。戦時中に敵国の人を治療する、人を殺した犯人を治療する、自らの思想と違う人間の命を必死に助ける・・・などが医師の倫理の中心だからである.


第三の倫理違反は、医師は独自の治療はできないという基本原則にある。裁判官は自ら法律を作らず、社会に認められた法律に基づいて判決を下す. 仮に「窃盗しても死刑にしないと社会から犯罪がなくならない」という確信を持った裁判官がいて、1ヶのパンを盗んだから死刑ということになるのは社会正義に反する.これと同じように「安楽死は医療だ」とする医師が、回復の見込みのある患者を安楽死させることは認められない.


つまり、これらの専門家の言動は社会が認めた範囲に留まる。医学が進歩して被曝は健康を増進するとなる可能性もあるが、現在の法令で「被曝は健康に傷害を与える」としている間は医師はその判断に従わなければならない。研究者としての医学者が「被曝が進行していないときに限定して」自由な考えを述べることはできるが、その場合は、医師の免許を返納し、被曝が終わってからでなければならない。


ある高速道路を運転中の運転手に「この道路の制限速度は80キロだが、私は専門家だから危険性が分かるが、時速140キロまで大丈夫だ.違反しなさい」とアドバイスすることはできない。しかし、制限速度検討委員会では学術的根拠を述べて、制限速度の改訂を進言することはできる。専門家といえどもTPOがあるということだ。


しかし、原発事故と倫理に関しては法令を遵守しなかった政府や自治体、自らの学問的知識を正確に伝えなかった原子力関係の専門家、それに事故の当事者となった電力会社など多くの問題点を残した。特にその中で、電力会社は下の図にあるように、1990年から法律で1年20ミリの被曝の許可を得ているにもかかわらず、1年1ミリで自主規制していた。

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それにも関わらず、自らの事故で被曝した一般人や子どもたちに対して、1年1ミリを守るような言動を取ってこなかった。このように事故による日本の専門家の脆弱さが表面化したのも特徴的であり、今後の研究を要する。


専門家の倫理としては、2012年10月にイタリアの地震予知に関する第一審判決で、「地震は来ない」とした専門家6名に対して過失致死罪で禁固刑が言い渡されたことを考察する必要がある。先の図に示したように、「学問的分野の専門家」は二種類に分かれ、学者としての言動は社会との直接的な関係を持たないので、倫理関係が生じないが、図で示す裁判官、医師、教師のような専門職の場合は言動に倫理関係が生じるので、法律的に罰せられることもある。



社会が安楽死を認めていないときに、医師が独断で安楽死を施せば罰せられる。
それでは地震学者が国の委員会で発言する内容には倫理は発生しないかというと、委員会に単に呼ばれて「委員の一員ではなく」発言する場合は学問の自由や表現の自由の範囲内であると考えられるが、委員の一員であり、何らかの決定権を持ち、その決定が社会に直接的な影響を持つ場合は倫理問題が発生すると考えられる。


たとえば、中央教育審議会で「ゆとりの教育」について発言し、その後、短期間でゆとりの教育が失敗した場合、そこで発言した教育専門家はなんらかの責任を取る必要がある。しかし、決定権、あるいはそれに準じる力を持たない場での発言は自由であろう。



今回の一連の原発および被曝に関する言動で、公的な地位にあり、また公的な委員会などで1年1ミリ以上の被曝の増加を勧める発言を行った専門家は、被曝による患者が発生した場合は、過失傷害罪で逮捕されるのが妥当であろうと考えられる。



以上、2011年におきた福島第一原発の事故とその後の被曝について、被曝に焦点を当てて整理をした。大事故はさまざまな社会的問題点を鋭く切って私たちの前に示すものであるが、それを教訓にするかどうかはその社会に構成する人の見識に依存している.


4. 参考文献

●主たる関連法令通達など

1. 電離放射性障害防止規則、(2011年10月改訂)、厚生労働書所管


2. 放射性同位元素等による放射線障害防止に関する法律ならびに施行令、施行規則、(2010年10月改訂)、文部科学省所管


3. 原子力安全委員会の指針、基準類(たとえば、「原子力施設の防災体制について」、(昭和55年6月。平成22年8月改訂)、原子力安全委員会など多数)


4. 事故報告には国会の事故報告などがあるが、いずれも政治的な配慮が多く、学術的な参考にはならない


●関連論文の内、事故後の報告

1. K.Ozasa, et.al., “Studies of the Mortality of Atomic Bomb Survivors, Report 14, 1950-2003: An Overview of Cancer and Noncancer Diseases”, Radiation Research, 177,, (2012) 229-2432.


2. Hiyama, et.al., “The biological impacts of the Fukushima nuclear accident on the pale grass blue butterfly”, Nature com. BoneKEy report, (09 Aug. 2012)


●著者の書籍など

1. 「放射能と原発のこれから」(KKベストセラーズ、2012)、


2. 「放射能列島 日本でこれから起きること」(朝日新書、2011)、


3. 「2015年放射能クライシス」(小学館,2011)、


4. 「全国原発危険地帯マップ」(日本文芸社,2011)、


5. 「チェルノブイリクライシス」(竹書房,2011)、


6. 「原発と、危ない日本4つの問題」(大和書房,2011)、


7. 「子どもの放射能汚染はこうして減らせる」(竹書房,2011)、


8. 「子供を放射能汚染から守り抜く方法」(主婦と生活、2011)、


9. 「放射能と生きる」(幻冬舎、2011)、


10. 「エネルギーと原発のウソをすべて話そう」(産経新聞出版、2011)


以上




--------ここから音声内容--------




(音声1)
えーとこの記事はですね、福島原発事故後1年半を経て、その概要を放射線の人体への影響とそれに関する専門家の倫理ということでまとめたものでありまして、タイミングなどもいろいろ考えました。私はずっとですね…事故そのもの…たとえば原発の事故そのものというよりか、むしろ「被曝」のほうに注目をしている訳ですね。





例えば、かつて「いつ福島原発は収束するのか」という話があってですね…そういう馬鹿らしい話はあんまり付き合いませんでした。収束しようとなんだろうと、「事故直後に撒かれた放射能物質によるですね…人体に与える影響」ってのが最大の問題でありますので、それを横においてですね、福島原発が更にどうなるか?なんていうことをいくら議論してもほとんど始まりませんので、まずは被曝を注意するというスタンスで私としては活動してきました。





1986年4月26日に、チェルノブイリの原発事故が起こった、これは非常に有名な事件でありますが…これはですね、ソ連政府が原発というのは「停電すると爆発する」ということだった訳ですから、それではあまりに危険だということで、停電した時の緊急訓練をしようということになった訳ですね。で、4月26日までずっと運転をしていました、チェルノブイリ原子力発電所4号機を、運転を停止すると同時に、電源を人為的に全て落とした訳です。その後、計画し訓練していた手順で「原発を爆発しないように収束させる」という作業をしているうちに、二つばかりの間違いを生じて爆発に至った訳であります。





従ってですね、このチェルノブイリの原発事故ってのは、普通の原発事故ではなくて、訓練中の原発事故である。しかもそれは事故の防御をするための事故であったということでですね…良心的ということは言えないかもしれませんが、かなり考えなきゃいけないと思いますね。ところが、そういうことになりましたので、世界の原発を運転しているいろんな電力会社はですね…もう停電の訓練ができなくなっちゃった訳ですね。それで結局何もしないうちに、2011年3月12日に福島原発事故が起こると。従ってこの事故はですね…「運転中に起こった世界で最初の事故」ということになった訳ですね。





ところがですね、同じような事故なんですが、チェルノブイリの事故と被曝がいったいどのくらいの影響をどういう風に与えたか?ということはまだ明らかではないんですね。被曝初期にはですね、まず国際原子力機関IAEAがですね「今度の事故は軽いから…大したことないから…ほとんど何も障害が出ないだろう」という風に言いました。これを信じてですね…ベラルーシの人たちがその地方にとどまったという事は有名なことでありまして、それについて最近はですね、ベラルーシの医師がですね、非常に深く反省しております…お医者さんがですね。「あの時逃がせばよかった、なんで政府のいうことを信じて住民を逃がさなかったんだろうか?」と悔やんでおります。





程なくして、小児甲状腺がんが出るわけでありますが、小児甲状腺がんについてもですね、当時国際原子力機関は「甲状腺がんは出ない」という風にいっておりました。つまり、こういうときは常にですね、政府とか、国際原子力機関及び専門家はですね、「事故は小さかった、事故は小さかった」という風に発言をする訳であります。その後ですね…まだがんが治まっておりません。小児がんは治まりましたが、がん総量はですね…全体量は増加を続けております。





またこの両国、ベラルーシとウクライナではですね…出生率の低下が続いておりまして、人口減少になかなか歯止めがかからない状態であります。もちろんこの出生率とか死亡率というのは、社会全体のさまざまな要因が原因しておりますから、これが被曝が要因になったということはなかなか結論できませんが、しかし不明な状態であるということははっきりしております。この学問的に不明な状態というのが社会的に何を意味しているのか?予防原則などを後に示してですね…「その場合の専門家の対処」というのにも議論を進めてみようという風に思っております。





一方最近ではですね…福島の子供たちに対する甲状腺異常の検診結果は、かなり高率になりました。通常100人中1人くらいといわれるものが、100人中40人を超えるという状態になりましたし、また福島の空間線量の測定も非常に定まりません。お役所はですね…必ずしも良心的な測定をしておりませんし、また除染も進みません。食材の不安も消えずにですね…これは福島の農業関係者ばかりでなくて、それを食べる消費者側もですね、不安のまま過ごしている…という状態が続いております。





こういう環境の中でですね…この記事では、主に「被曝と専門家の倫理」ということに焦点を合わせております。まぁそれは…現在の時点でこれが非常に重要だと思われるからであります。まず第一はですね、簡単にこの福島の原発事故というものの評価もしくは整理をしてみたいと思っております。





今回の福島原発の爆発が、地震及び津波によって起こったということは、大体そうだろうと思いますが、この図に示してますように、この青紫のぽつぽつが原発のある場所でありまして、赤い線がですね…震度6以上の地震が来る可能性のある地帯であります。地球はですね…必ずしも同じようにできているわけじゃなくて、たとえば、大西洋のような若い海ですね。これは1億5000万年前に誕生したわけで、ここは今まだ分かれている最中ですね。地図をご覧になるとすぐ分かりますが、アフリカのこの…左のですね、ちょっとくぼんだようなところと、南アメリカの出っ張ったところですね…ブラジルのところ。この形がすっかり同じであると。そのほかもずーっとみていただくと、同じところがいっぱいある訳ですね。これはあの…離れてまだ間もないので、二つの大陸が一緒だったときの状態を示しているわけですね。





従って、この沈み込みだとかややこしいことが無いもんですから、大西洋には大きな津波も地震も無いと。しかし、大西洋が膨らんでるってことは、どこかで沈まなきゃいけないんで、それが太平洋の…日本の方ですね…千島列島からフィリピン、ニューギニア、ニュージーランドに至る線で、集中的にひずみを回収していると…だからここで大きな地震が起こるということですね。





なんでこんなところに原発を作ったのか?つまり日本のようなところになぜ原発を作ったのか?というのは非常に疑問なわけですが、こういうところに原発を作るっていうことはですね…地震の対策を十分にするってことが前提だろうと思います。それからもうひとつはですね…日本の場合は、特にもうひとつ、海岸線に原発を作っているっていう特殊事情があります。まぁ海岸線ってのは大体気候も荒いですし、それから川で…淡水で冷やすよりも、塩水で冷やす方がやはり錆やすいし、漏電もしやすいってことで、日本の原発ってのは、言ってみれば非常に特殊なところに建設されていると…いうことが分かる訳であります。





日本がこのようなところに建設した理由はなぜかと考えますと…後にちょっとそれに軽く触れますが、やはり「原発が危険であると思っていた」ということに集約されるんではないかと思っています。それでは、原発はもともと危険なのに、さらに危険なところに作るという事はですね…危険が増大いたしますから、非常に望ましい事ではありません。危険だと思えば作らないというのが正しいわけですが、それが日本の考えかた…日本人の「まぁまぁ、なぁなぁ」の考え方の中で、原発がこのような危険なところに建っているということは、我々が今後原子力発電所を考える上で、非常に重要なことではないかと…このように思います。 (後半の記事に続く)


(文字起こし by ちゃりだー)


報道が決して国民に伝えないもの(5) 節約の必要性 (10/27)




報道が国民に伝えないものの中でも、事実そのものではなく、解釈などがあります。私が良く国の委員会に出ている頃、私がなにか発言すると横にいた「大新聞の論説委員」のような人が「武田先生、それはこういうことなのですよ」ととても重要なことをそっと耳打ちします。



そんなとき、私は「へえ!そうですか!」と相づちを打ちますが、心の中では「そんな重要な事、なんで新聞に書かないの?」と疑問になり、気分は良くありませんでした。民主主義で、国民に情報を提供する立場にある大新聞が、情報を優先して受け取り、自分たちが隠しておきたいものを隠すという姿勢なのです。



その一つに「節約の必要性」があります。国が節約を呼び掛けなければいけないのは、


1)戦争の前、

2)通貨の安定、


の時で、今の日本のように「国を衰退させるために節約する」などということはなく、それは論説委員、解説者は知っているのですが、政府に遠慮して言いません。「日本が世界でもっとも対外資産が多く、お金持ち」というものですが、これも絶対に報道されないものです。日本人に「貧乏だ」と思わせて、増税するのが目的です。


(平成24年10月27日)




--------ここから音声内容--------




「報道が決して国民に伝えないもの」第5回でありますが、こういうことを言いますとね、また最近の報道はその…揚げ足を取るということをしてくるんじゃないかなと思ってますが、それも含めて議論が深まるのでいいかなと。で、4回までは具体的な例を挙げてきましたが、今回はですね、報道の中で…事実を示す報道もありますけど、論説委員とかがですね、自分の意見を言ったり、それから社説なんかがありますね。こういったものでですね、決して触れないものは何かということをちょっとお話をしたいと思いますが。





私はですね、ずいぶんこういうことを経験しました。よく国の委員会に出ますとね、隣に新聞の論説委員とか偉い人がいるわけですね。で、議論してる時に私が割合と原理原則的なことを言いますとね、隣の新聞の論説委員が気を利かせてですね、私に「武田先生、これはこういうことなんですよ」と、こういうふうに説明するわけです。僕はその時「あぁそうですか」、「へぇそうですか」と…こう言うんですけど、その内容は、もう驚くべきことが多いんですね。非常に重要なんですよ。





で、私はその時に…相手が新聞の編集委員ですからね、いつでも物を書けるわけですから、「なんでそんな重要なことを新聞に書かないの?」っていうふうに疑問になるんですね。つまり今の新聞っていうのは、重要なことは影響も大きいですから、新聞に書かないんですよね。





私がここで言ったように、ある温暖化の会議に出たら、ある人がですね、「先生、温暖化するなんて、こん中で誰も思ってないんですよ」と、それ、温暖化の会議でですよ。まぁそういうようなこと言ったりするんですね。ですから、日本の指導者が、ある事実をですね、占有してるという…これは昔はそういうことあったんです。王様がいる時代はあったんですけどね。ほんとは今ないはずなんですが。





そういうものの現代版の一つに「節約の必要性」ってのがあるんですね。日本人は節約好きな民族なので、節約は美徳であるということあるんですが、ここで書いたように、現代の貨幣社会では節約ってできないんですよね。30万円使うところを3万円節約した、と。タクシーに乗らないとか。その3万円でケーキを買ったっつぅんじゃ、これは使い道が違うんで(違うだけで)節約になりませんね。





銀行に預けたってことになると、預けた途端に銀行が(他の人に)貸し出しますし、それを(いずれ)下ろして使いますから、これも節約になりません。貨幣経済でなければ…山から薪を切ってきて、それを節約すれば長く使えるんですが、貨幣経済における節約はですね、30万円をもらって27万円使った後の残りの3万円ですね、一万円札3枚。これをね、破かなきゃいけないんですよ。それはまぁできませんからね、事実。ですから、節約はできないんです。





これはまぁ個人の節約ですね。これは将来に備えて老後のために貯金するってのは別にいいんですけど、これは節約にはなりませんね。環境とかエネルギーの使用とか、そういう面じゃ、CO2とかそういう意味じゃ節約になりません。銀行に預けた時点で、銀行から中小企業に貸し出され、そこでCO2出しますから量は同じなんですね。





つまり貨幣っていうのはもう出してしまったら、その分だけ使われてしまいますから、これはもう仕方のないことですね。じゃあなんで国が節約を呼びかけてるのか。国が節約を呼びかける時は、戦争の前ですね。例えば明治時代にソ連がずーっとこっち来たから、これと戦わなきゃいけない、ということで国民は節約をして軍艦を買う、と。これは軍艦を買うために節約してるわけですね。





それから通貨が不安定になった時。例えば、ソ連が崩壊した時にルーブルがタダみたいになる。そうするとこれを立て直さなきゃならないんで、いったんですね、貨幣と活動の関係を切るという意味で節約をすると、こういう場合があるんですけど、それ以外にはないんです。





現在の日本のように、国を衰退させるために節約するなんていう国はありませんからね。現在の日本は戦争もしないし、通貨も安定しとります。むしろ対外純資産…対外純資産ってのは対外資産から対外負債を引いたもんなんですけども、これはですね、250兆もあって世界でダントツの1位である、と。従ってカネ余りである、と。しかも円高である、と。戦争もしようとしない、と。





だから絶対に節約しちゃいけない時期なんですよ。これ日本が今節約していけない時期なのに、節約してるから不景気から抜け出せないわけですね。日銀が通貨を刷らないとか色んな問題があるんですが、そういったことになるわけですね。じゃあこれらは解説者とか論説委員はみんな知ってるんですよ、この原理は。しかし説明しません。なぜかっていいますと、政府に遠慮してるからですね。





このような、報道が決して国民に伝えないっていう中でですね、一つが「事実そのものを伝えない」という場合と、それから「国の政策に反すること言わない」っていうことですね。これはかつでですね、まぁ良いか悪いかは別にしまして、自民党と社会党のようなものが非常に厳しく対立している場合は、社会党があることないこと全部言うわけです。この場合でもたぶん言ったでしょうね。「だいたい国は節約なんか呼びかけて、税金を増やして、市民はお金が足りないんだから、もっと景気を良くしろ」と言ったかもしれませんね。





そういった議論の中で、新聞の論説委員とか解説委員もですね、「節約というのは必ずしも必要じゃないんだ」ということを言うはずなんですが、今ではですね、自民党、民主党、それから今度できる更に三極、社会党、共産党、全部同じ政策ですからね。そういうことが出て来なくなったということですね。





実態はですね、日本人に貧乏だと思わせて、増税をするという…そういう一つの役人の作戦なんですけども、それに乗ってしまうということですね。報道が決して国民に伝えないものの中に、こういう解説的なものもあるということを今日は示しました。