対立の構図 論争に負けない人が優れた学者(文科系) (8/16)
(内容が挑戦的なので一言:ここでいう「文科系」とは文科系の学問の全体的な傾向を示していて、個別には異なる学問もあることを最初にお断りしておきたい・・・対立の構図を整理したら、新しい対立ができるというのも可笑しいので)
先回の「対立の構図」で「理科系の人間は対立を恥ずかしいと思う」と書いた。もし学問が進んでいればほぼ全員が同じ結論になるはずだし、結論が異なれば研究が足りないので、不明な部分があるか、誰かがウソをついているということになる。
いずれにしても、意見が対立したところで議論を中断し、なにが不足しているのかを検討し、「じゃ、もう少し研究してからもう一度、議論しよう」と言うことになる。人間は事実を確認して、人間の頭脳で論理的に導き出される結果が「知的財産」であり、論理的に考えて複数の結論があるときには「おれは・・・思う」というその人のワガママに過ぎないと理科系は考える。
それに対してどうも文科系の人(たとえば経済学、社会学、心理学など)は意見が違っても恥ずかしくないように見える。それどころか、むしろ意見が違うのが当たり前で、「論争」に勝ってこそ立派な学者だという雰囲気もある。
論争をよく見ていると、まず「事実を共有しようとしない」、そして「論理的に詰めていこうとしない」、さらに時によっては「人によって(学問とは別の)目的があるらしい」という感じがする.経済学や心理学分野では、学者同士で罵倒し合っていることがある。実に不思議なことだ。
いがみ合う前に事実を共有する努力をすればよいのに、なぜ、事実を共有しようとしないかというと、「事実」が余りに多くあって、どれが事実なのか分からない。もしくは、どれもこれも「事実」なのだが、どれが大切な事実なのか、なにが些末なのかということすら選択基準を持っていないように見える.
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また「論理的に詰めていく」ことをせずに、突然、飛躍する.私がこのことを強く感じたのは「世代間倫理」という倫理の分野が登場してきた頃、この分野で有名な哲学者の書いた書籍を3冊ほど読んだことがある.文章は難解だし、本は厚く、なかなか大変で、ものすごい量の文字が並んでいる.でも、私の知りたかった事は書いていなかった。
つまり「なぜ、現世代は未来世代に対して責任があるのか?」、「これまでの世代が未来世代に対して責任を取った例があるのか?」、「これからどうなるかを予想できる手段はあるのか?」といった基本的な事が書いていない.その代わりに、あるところに突如として「世代間には倫理があるから、現世代は未来世代に責任がある」という原理が登場する.
名古屋大学時代だったので(総合大学だからという意味)、哲学の先生にどうしてこのような論理が通るのですか? その人がなぜ有名になるのですか?とお聞きした.そうしたら「いやあ、その通りです.最も大切なことはえてして直感なんですね」と言われた.
学問分野が違うから、私が哲学の考え方を批判しても仕方が無いが、直感でもっとも重要なことを決めるなら、それ以下の小さいことを精密に議論しても意味が無いように思った。
もう一つ別の例: 今、南京事件というものに取り組んでいるが、おもしろいことに無限に議論がある。いわば研究者一人に一つの意見があるといっても言い過ぎではない.また研究者と違っても、この事件に関心のある人が多く、その人達がまたいちいち違う見解を述べておられる。
南京事件の本は大量に販売されているし、事件を扱った雑誌の論評などを入れると膨大な数に上る.それらの多くが「同じ事を別の表現でくり返している」に見える.それらを読んでいるとなんとなく「時間を無駄に使うのを楽しんでいる」ような感じさえするのだ.
上海から南京への日本軍の進撃と中国軍の後退、その間における日本軍の増強と南京政府の動向、南京攻撃の直前の南京城内の動き、人間の数などは、研究者によってほとんど差が無い.さらに南京攻略戦が始まってからも、おおよその戦闘時間、戦闘の様子、結果なども明らかで、紛れがない.
問題なのは南京が陥落して大量の投降兵(投降したからと言って捕虜ではない)が出たあたりから2,3日のことだけが問題だが、これも、両軍と市民の動向を追っていくと、人間の動き自体にはそれほど事実認識に差が無いようだ。問題は最後の最後、つまりその人達が「どうなったか」というところで、無限に発散する.そして、どこが問題なのか「差を示す明確な比較表」すら作られていない.
「理科系」である私はここで唖然とする。問題は最後の最後にあるのだから、そこを整理するために研究しているはずなのだが、その結果が見当たらないのである。これを「世代間倫理」と同じように解釈すれば「明確な比較表を作ると議論が単純になって、論争が終わりになり、ケンカができない」という感じすらする.
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理科系の私が言うと文科系から激しいバッシングが来るかも知れないが、自然科学でいうところの「科学」ができるのを待っていると現実の社会に役立たないのでフライングしているように見える.つまり「まだ墜落の可能性のある航空機だが、どうしても飛ばさなければいけない。悠長なことは言ってられない」という感じだ.
「ニューヨークに行く必要があるのだから、墜落するという人も居るし、墜落しないという学者もいるから、飛ばしてしまえ!」と言っているようだ。経済学なども特にそうで、バブルが起こったら、それまでバブルのバの時も言っていなかった経済学者が悠々とバブルを解説しているのを見て、強い違和感をもったものだ.
自分の学問が間違っていたのだから、しばらくは発言ができないはずだが、そうでもない。政治学者などが選挙結果を予測し、まったく外れているのに、再び同じ人がテレビに出てくるなども同じである.予測が当たらないのは学問が完成していないからだから、その人が話すことは学問ではなく、素人と同じという事になる。
文科系の学問が、理科系が考える学問ではないかどうかについては、また機会を見て文科系の人に聞いて見たいと思う.まだ、だれも学者としてなにも語れない初歩的段階にあるのか、そんなことを言っていたらいつまでも学問的成果をあげられないので、少しのフライングを承知で苦労されているのかもしれない。
ところで、理科系と文科系がハッキリ分かれている国は少ないが・・・
(平成24年8月16日)
--------ここから音声内容--------
今回はちょっと挑戦的な内容なんでですね、ちょっとあのみなさんが色々なことを考えるんじゃないかと。このブログはそれがある目的なんでいいんですが、ここで言う文科系という言葉を使うんですが、これはバカにしてるんでもなく、なんでもないんですね。理科系とおそらく考えが違うでしょうっていうことと、文科系とひとくくりに言うのはおかしいんですよ。これ理科系もそうなんですが。だけど一応ですね、対立の構造をはっきりさせる意味で、ある意味での整理をしてるということですね。責任をどこが取るとか、言い方が悪いとかいうことはあまりちょっと問題にせずに、ものの本質の方を見て頂きたいと思います。
先回の対立の構図はですね、理科系の人間は対立を恥ずかしいと思うということを書きました。つまりもし学問が進んでいれば、全員が同じ結論になるはずだし、結論が異なってれば研究が足りないと、こういうふうに思うわけですね。いずれにしても意見が対立したら、そこで議論はやめてですね、何か不足してるのかを検討して、「じゃあもう少し研究してから、もう一度議論しようや」とこういうことになりますね。事実は一つですから、できるだけそれを確認する。それから人間の頭脳で論理的に考えるっていう結果が知的財産ですから、それを使うということになるわけですね。
で、色々考えられるのに「俺はこう思う」とかですね、こういうふうに言われますと、意見が紛糾しちゃってですね、じゃあそれで飛行機飛ばしてみようっつったら、落ちてしまったとか、こういうことになるんで、ちょっとできないわけですね。しかし、それから見るとですね、どうしてもですね私にはですよ…これ間違ってるかもしれませんが、私には文科系の人…例えば経済学、社会学、心理学みたいなものですね、意見が違っても恥ずかしくない感じを持つんですよ、僕は。話している人を見ますとね。
ところが、もうそれどころかむしろ意見が違うのが日常的であって、そこに論争があり、論争に勝ってこそ立派な学者だっていう雰囲気も感じられるんですね。論争があること自体が恥ずかしいんじゃないかと思うんですが、「いや実は論争に勝つ学者は立派なんだ」と言う人もいると。で、私から見るとですよ、これも全部。事実を共有しようとしてないことが多いんですよ。これ理論的に詰めていこうとしようっていうこともないことが多いような気がするんですね。
で、時にはよってはですね、どうも話してる人に目的があんじゃないかなぁと思う場合もあるんですね。目的ってのは学問的目的じゃないですよ、お金を儲けるとか、地位を保つとか、相手に勝つとか、そういう学問とは関係ない目的があるんじゃないかと思うこともあるんですね。いがみ合う前に、論争する前に、まず事実を共有すればいいのに、事実を共有しない。なぜかったら事実があまり多すぎるんですかね…かもしれません。
またですね、私はこう一つまぁここで色んな方とこれから議論をしてこうと思うんですが、私が見る「論理的に」という点ではですね、突然飛躍されることがあるんですね。それを私がもう…人生で一番強く感じたのは「世代間倫理」というのが登場したんですね。環境の問題が出てきてからですね、「自分たちの環境は次の世代まで引き継がれる」と、こういう話があって、世代間倫理ってのが出てきました。
この分野で世界的に有名な哲学者の書いた書籍を2,3冊読んだんです。非常に難解でしたし、本もぶ厚かったんですが、しかしですね、私がそこで知りたかったことは書いてなかったんですね。それはなぜかっていうと、「なぜ現世代は未来世代に対して責任があるのか」と、それから「これまで歴史的に、過去の世代が現世代とか未来世代に対して責任を取ったことがあるのか、どう取るのか」、「これから取るとしたら、未来を予測する手段はあるのか」といったですね、基本的なことが書いてなかったんですよ。
で、そのかわりですね、その本にはある所に突如として「世代間は倫理を守らなければならないから、現世代は未来世代に対して責任がある」という原理が登場するんですよ。で、僕はその当時名古屋大学におりまして、総合大学でしたから哲学の先生がおられるので聞きに行ったんですね。「ええっと、どうしてそんなことが突然書いてあるのに、その先生が世界的に有名なんですか」と聞きましたらね、「いやぁ、まぁ、その通りなんですよ」と。「最も大切ことはえてして直感なんですね」と、こう言われたわけで、非常にこうビックリしたんですね。
もう少し深いだったかもしれません、哲学的に深い意味だったかもしれません。学問分野違いまして、私が哲学の批判はできないんですが、直感で最も大切なことを決めるならですね、それ以下の小さいことを精密に議論してもどうも意味がないように思われるわけです。
もう一つの例は、これ歴史ですけどね。南京事件というものに取り組んでるわけです。これがねぇ、私から見たら、科学者から見たら、とても面白かったですねぇ。まだ今途中ですが。ええとねぇ、全然いちいち物凄く違うんもんですよ、人によって。「ほとんど誰も虐殺してない」っていうのと、「うんと虐殺してる」って人とものすごくあるんですね。本は大量に販売されてるんです。
ところが、読むとですね、同じことを別の表現で繰り返してるってのが多いんですよね。極端に悪口を言えば、時間を無駄に使うのを楽しんでんのかなぁと思うような感じもするんですよ、暇だから。例えばですね上海から南京への日本軍の進撃、中国軍の後退、その間における日本軍の状況とか南京政府の動向、南京攻撃の直前、もしくは南京城内の動き、人間の戦闘の数、人間の数、こういったですね、ほとんどのものは、ほとんどの研究者によって差がないんですよ。南京攻略戦が具体的に始まってからもほとんどないんですね。ほとんど議論する所がないんですよ。
議論をするとこと言えばですね、南京が陥落してから投降兵が出たり、逃げる人が出たりした2,3日のことだけなんですね。そこをどういうふうに事実認識が違うのかっていうですね、比較表みたいなのがないんですよ、実は。いやぁこれは私もちょっとびっくりしました。これだけ議論しててね、「何月何日に何時にこれが起こった」という人と「これが起こった」という人が二通りいると。それはこっちからこう考えると成立しないけど、こっち(別の方向)から考えると成立するということが整理されてるっていうふうに、理科系である私はそう思うんですね。理科系はそういう整理をするっていうだけのことなんですけどね。そういうことなんです。
それでまぁ、それはもうそういうふうにしてですね、「あぁ、ここんとこだけがわかんないですね」と、「じゃあ、ここんとこ一つ古文書で調べてみましょう。もし調べられなかったらわからないってことですね」と、人間にはわからないですから、過去のことですからね。「また新しい証拠が出てきたらまたみんなで検討しましょう」っていうことになるだけなんですが。
私が理科系ですので、理科系がこう言うとですね、文科系から激しくバッシングされるかもしんない。だけど学者がバッシングするってこと自体がおかしいんですけどね。まぁ、バッシングが来るかもしれません。しかしですね、これは私今度のことで随分そう思ったわけですが、自然科学で言うところの科学というものはですね、未完成なものをやらないっていう特徴があるのかもしれないですね。
例えば墜落する可能性のある飛行機を飛ばさない。ところが文科系ではもしかすると、飛ぶ必要がある時は飛ばせって言ってんのかもしれませんね。例えば経済学者がですね…これまた文句言われるかもしれませんが、バブルが起こったら、それまでバブルの「バ」の字も言ってなかった経済学者が悠々とバブルの解説をしてるわけです。ちょっとね、理科系ですとね、そういうこと言えないんですよ、ええ。自分が墜落しないと思うから飛行機を飛ばすから、その説明を充分にさせられちゃうわけですけどね。やっぱり自分が間違ってたらしばらく発言はできないわけです。
政治学者なんかはもっと短い時ありますよね。選挙結果を予測して…学者じゃなかったらいいんですよ、コメンテーターが選挙結果を予測してとか、時にはプロ野球選手が選挙結果を予測すんならいいんですけど、学者が選挙結果を予測して間違ってたのに、まだ話しているっていうのは、学問っていうのはどういう力を持ってんのかなぁと思いますね。
ただ、もちろん文科系の学問と理科系の学問違うわけですから、どういうことなのかよくわかりません。まあそんなこと言ってたらきりがないので、フライングしてもいいよということかもしれません。
最後にオチをつけますと、理科系と文科系がはっきりと分かれてる国は少ないわけですね。その人たちはどうなのかなぁと思ったりですね、するわけです。哲学でもですね、「我考える、ゆえに我あり」と。不可解なこと、結論が出ないことを全部切り捨てて、きちっとした結論の出るところだけをスタートするという考えもありますんで、必ずしもここで言った文科系、理科系なんていう区別は不適切かもしれませんが、一応これは対立の構図…どこで対立が出て来るのかということを明らかにする一つの過程として、まぁご勘弁頂きたいとこういうふうに思います。