対立の構図 対立は恥ずかしいこと(理科系) (8/15)
人間には「対立」というのがある。自分の意見が正しくて、相手が間違っているという論理をたてるのだが、理科系の私にはなかなか理解ができない。もし自分が「何の意図もなく、先入観も無い」状態で、相手も「ウソをついていない」場合は、「違う意見になる」ということがあり得ないように思うからだ。
多くの人は「そんなことはない。事実、この世は意見が違う事ばかりだ」と言われるだろう。でも「理科系」の私には「意見が違う」と言うこと自体がおかしいように思われるのである。
第一の問題は、自分が正しくて相手が間違っているのか、自分が間違っていて相手が正しいのかは、自分とその相手がいくら議論しても決まるものではなく、お釈迦様に聞いて見なければならない。「なぜ、ご自分のご意見が正しいと思うのですか?」と聞くと「私がそう思うから」という自信たっぷりの方がおられるが、ある人間が「正しい」と判断したことが「本当に正しい」かどうかは本人には分からないはずだ。
「自分の生きているうちはごまかせる」というぐらいはいけるだろう.
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この「対立の構図」で整理をしてみたいと思っているのは、このことではなく、第二の問題:「意見が対立するというのは、分からないことか、隠していることがあるから」ではないかということだ。
自然科学(普通には科学ということが多い)は「自然現象を解明する」ことが主な仕事で、ついでに「それを応用して工学、農学、医学などを発展させる」という仕事もある。自然現象というのは太古の昔からある原理原則で成り立っているので、「人間が分からない」ということがあっても、「意見が存在する」と言うものではない。
たとえば、かつて人間は「宇宙の中心は地球だ」と信じていて、科学もそれを支持した。でも、これには前提があり「人間の目で見る限りの空」ということであり、かつ「ある種の星(後に惑星であることが分かるが)が逆行することがあること、太陽は往復運動をするはずなのに毎日東から出てくる・・・などはまだ解けない疑問として残すという仮定に基づけばということである。
しかし、望遠鏡が誕生すると「地球は太陽の回りを回っていて、太陽も宇宙の中心ではない」ということがわかる。でもそれも「望遠鏡でみるという前提つき」である。でも今のところ、それが科学なので「地動説」に異議を唱える学者はいない。
ガリレオが「地動説」を唱えたとき、有力な科学者がガリレオに反撃を加えたのではなかった。聖書を信じる教会が彼をバッシングした。科学者は事実を明らかにしようとしているので、ガリレオの地動説が事実ならそれは進歩であり、なにもバッシングする対象ではないからである.
ダーウィンが「進化論」を唱えたとき、それにバッシングを加えたのはこれも牧師であって科学者ではなかった.もし科学者がダーウィンを批判するなら、ダーウィンのデータの科学的な解釈に誤りがあるか、あるいは自分がダーウィンと同じように世界一周をしてきて、つぶさに生物の生態を観察し、反論をしなければならない。
でも、科学者は基本的には「自然を明らかにする」と言うことだから、反論をしても意味が無い。「そんなこともあるのですか!」と感心するのが普通だ.
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科学の論文というのは、実験データ(理論でも良い)を示し、それを整理し、専門家なら誰でも合意できないと結論にならない。実験や理論で合理的と(誰もが)判断できる段階にないと結論は出せないのだ。それまでは単に「酒場の独り言」にしか過ぎない.
私たちは良く仲間や学生と飲んで話をする.その時には「あのデータはこんな風に思うのだけれどどうだろうか?」と話す。そうすると、そこで議論になり、不足が分かり、研鑽を積む.私たちはただ「自然を明らかにする」というのが目的だから、別にいがみ合う必要などない。
若い頃から私がやってきた分離工学、資源、材料などの分野で、「科学的論争」などはなかったし、まして「バッシング」などを経験したことなかった。議論して私が不十分だったら、頭をかきかき再登場するだけである。
ところが、忘れもしない1998年のある学会で、私と学生が「リサイクルは資源を余計に消費する」という計算結果を発表した.そうしたら、私は会場から「売国奴!」とバッシングを受け、学生は攻撃を受けて真っ青になって帰ってきた.その頃、私はリサイクルでお金をもらっている訳でもなく、先入観もなく、ただ社会がリサイクルを始めようとしていたので、それを分離工学と材料工学の手法を使って解析したに過ぎなかった.
正直言って、当初はなにを非難されているのかということ自体が不明だった.そこで、慌てて関係した文献を調べ直してみたら、やはり学問的に計算しているものは「リサイクルは消費を高める」というものがほとんどだった.
ただ、当時、「ライフサイクル・アセスメント(LCA)」という新しい学問の手法が登場して、私たちのような伝統的な学問で計算した結果と違っているものもあった。そこで、LCAで計算している人と何回も研究会をしたが、結局、どちらが正しいかはなかなか分からなかった.新しい学問は大切なものだが、まだ未熟なので、これまでの学問と内容を合わせるということができなかった。
それでも、お互いにバッシングするとか、そういうことは無かった.ただ、伝統的な学問で計算するとリサイクルは資源を余計に使い、LCAで計算すると有効な場合があるということがわかり、「研究を続けましょう」と言うことになっただけだった.
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ところが、そのうち、雲行きが怪しくなった.私が書いた最初のリサイクルの本は「フランケンシュタインの息子たち」という題名が、出版時には「リサイクルしてはいけない」となった。私がフランケンシュタインを出したのは、自分が科学の力で作ったものが、自分を襲ってくる(フランケンシュタイン博士が作った怪物が博士を襲う)ということと、現代の環境問題が類似であるという解釈を題名にしたのだった。
それからというもの、私も世の中の動きに巻き込まれ、対立の中に入っていく。それから程なくしてある本に「武田邦彦はウソをついているのか」という題名がついたとき、「ああ、科学者でもウソをつくとみんなが思っているのだな」ということを知った.
(平成24年8月15日)
--------ここから音声内容--------
対立というのはなぜ起こるのだろうか。実は対立という内容はどうだろうか、これですね、ちょっと興味を持ちましてそれを整理をし始めました。だいたい5回分ぐらいをだいたいの筋道と言いますか、考えを整理したんですが、実際に字を書いてみるとまたもう少し進むわけであります。
第一回は「対立は恥ずかしいこと」という理科系の考え方をここで整理を致しました。人間にはもともと対立というのがあるわけで、よく自分の意見は正しくて相手は間違ってるという論理を立てることが多いんですけども、これは理科系の私にはなかなか理解ができないわけですね。もしも自分がなんの意図もなく先入観もないという状態で、相手もウソをついてないという場合は違う意見になるっていうことが有り得るんだろうかと、こう思うわけですね。普通の生活をしてますとですね、この世は意見の違う人ばかりですから、「そんな対立がないなんてことはないじゃないか」ということですが、私にはどうもそこが理解できないわけですね。
もちろん第一の問題は簡単な問題で、自分が正しく相手が間違ってるという言い方はですね、自分が間違ってて相手が正しいのかわからないわけですね。これはお釈迦さんに聞いてみなきゃわかんないわけですね。自分は自分の考えが正しいと思って、自分は相手の考えが間違ってると思う。相手はまた相手の考えが正しいと思って、自分の考えは間違ってると思うと…こういう関係ですからね、ややこしいんですが。まあキリがないわけであります。
しかしかここで議論しようとしてんのはそれじゃなくてですね、第二の理由、つまり意見が対立するというのはなんで対立してんだろうか。わからないことがあるからか、隠し事をしてるからか、何がこう…そうなってるのかということですね。例えば、例で少し示しますと、かつて人間は宇宙の中心は地球だと信じてたわけですね。科学もそれを支持しておりました。しかしこれには前提があって、「人間の目で見る限りの空」という限定がありますね。
ま、ちょっと疑問がありました。例えばある種の星…これはのちに惑星であることがわかるんですが…は、時に逆行することがあるとかですね、太陽はどうも往復運動するはずなのに、毎日東から出るとか、わからないこともあったんですが、とにかく人間の目で見る限り、宇宙の中心は地球だと…こういう結論だったわけですね。意見が一つだったんです。
しかし望遠鏡ができますとですね、地球は太陽の周りを回っていて、太陽も宇宙の中心ではないということがわかります。これでも「今の望遠鏡というものを見た限りでは」っていうことなんで、限定的ですけど一応現在の正しいこととなってるわけですね。そこで現在はですね、全員が望遠鏡で見た空というものを認めて、その上で「地動説」に異議を唱える学者はいないと。こういうことですね。
こういうプロセスを経るんですが、ガリレオが地動説を唱えた時には、有力な科学者がガリレオに反論を加えたもんではないんですね。当時望遠鏡をオランダから手に入れたナポレオンが詳細に最初に検討したんで、ほかの人はついて来られなかったということもあるわけですが、コペルニクスなんかが先行しておりましたしね。
彼をバッシングしたのは聖書を信じてる教会だったんです。科学者ではないんですね。科学者は別にガリレオをバッシングしたってしょうがないんですよ。「おぉ、望遠鏡で見たらそうでしたか」と、「なるほどね、今までとはちょっと違いますから、私もそれを勉強します」というのが、これで終わりなんですけどね。別にバッシングの対象にならないわけです。
ダーウィンもそうでしたね。「進化論」を唱えた時に、やっぱりこれもバッシングを加えたのは牧師さんであって、科学者ではありませんでした。科学者はダーウィンを批判できないんですよ。批判するならですね、ダーウィンの示したデータを自分なりに解釈して、別の解釈をダーウィンに言うか、それとも自分自身でダーウィンと同じように世界一周旅行をして、生物を観察して反論を言うか、ってことなんですね。ですからバッシングをする意味ってのはないんですよね。別にあの…自然を明らかにするわけですから。「ああ、なるほど」と感心するのが普通なわけですね。
で、このことからですね、自然科学の学者っていうのはですね、私はその…そうだと思うんですけども、違うと言う人もいるかもしれませんが、例えば科学の論文を出す時には…実験データ、これ理論でもいいんですけども、今実験データ…実験に基づくことだけ言っときますとね、理論もあるんですが、それを整理して専門家なら誰でも合意できるということになんないと結論にならないんですよね。
実験や理論で合理的だと判断できる段階にないっていう時にはですね、普通は論文出さないんですね。それとも自分はハッキリわかったっていう時は論文出して通る時もあるんですが、それはみんなはですね、それバッシングしません。「ちょっと理解できないけれども、そうなのかな」と、こういうふうに思うわけですね。
で、多くはですね、日常的には、まだわからない段階の時多いんで、それは仲間とか学生と酒を飲みながらですね、「これ、こう思うんだけどどうだろうか」、「いや、これ違うんじゃないですか」という議論を経てですね、欠点を直していって、大丈夫だなと思うところで論文を出すと…こんなことになるわけですね。
私はですね、若い頃から分離工学、資源、材料などの分野だったわけですが、「科学的な論争」などはなかったですよね。「バッシング」なんかもちろんありません。私が例えば学会で発表して、なんかヘマがあったらですね、「いや、すいません、ちょっとそこ、まだ実験的な押さえが足りなかったので、今度までにやってきます」と頭をかくっていうようなことがあったとしてもですよ、そんな論争が起こるはずないですからね。
ところが、これは忘れもしない1998年、学会でですね、私と学生が「リサイクルは資源を余計に消費する」という計算結果を発表したことがある。そしたら私の場合は会場から「売国奴!」と呼ばれましてね、私の人生で初めてのことでした。びっくりしました。何が売国奴なんだろうか、私は単にですね、「リサイクルは資源を余計に消費する」と言っただけでですね、なんかそれが日本にとって困ることなのかどうかってことは、まぁ科学ですから関係ないですからね。自然現象を解析するだけですから。
で、学生はですね、今度はポスターセッションだったんですけども、攻撃を受けて真っ青になって帰ってきました。「先生、ひどかった」っつってですね、帰ってきた。で、そのころ私はリサイクルでお金をもらってるわけでもなく、先入観もなく、別に社会のリサイクルを止めようと思ってたわけじゃないんですよね。ただ私の専門の分離工学とか材料工学の手法を使って解析したら、どうも違うようだと、リサイクルはどうも役に立たないようだということの計算値を出したっていうだけなんですね。慌てて文献を調べてみましたら、やっぱり学問的に計算してるものがほとんどだと思いますが、「リサイクルは消費を高める」というのがほとんどでしたね。
ところが、当時ですね、こういった分離工学、材料工学といった従来の学問ではなくて、「ライフサイクル・アセスメント(LCA)」という新しい学問が登場しとりました。その新しい学問で計算してる人がですね、リサイクルは有効であるという結論に達していたので、何回か研究会を設けましたが、やっぱりなかなか議論がうまく噛みあわず、つまり古い学問と新しい学問と相当手法が違うんでですね、お互いに「研究しましょうや」ということになったんです。簡単に言いますと、伝統的な学問で計算すると、リサイクルは資源を余計に使い、LCAで計算すると有効な場合があるという、そんなところだったわけですね。まあ「研究を続けましょう」と。
ところがですね、だんだん雲行きが怪しくなるんですね。っていうのは私は最初に書いたリサイクルの本がですね、実は「フランケンシュタインの息子たち」という名称をつけて出します。そしたらですね、これが出版の時にはですね、「リサイクルしてはいけない」という題になります。私が「フランケンシュタインの息子たち」というのを出したのはですね、実はフランケンシュタイン博士が、ある怪物を作るわけですよ、生命を吹き込んで。その創造物がフランケンシュタイン博士を殺すんですね、最後。
つまり、「環境問題っていうのは、自分自身がやったことが自分自身に跳ね返ってくるものだから、難しいんだ」という意味を持ってたんですよね。私はここでリサイクルに対して、「あまり資源の節約になりませんよ」ということを言うけども、それは非常に難しいんだと。なぜかというと、自分でやったことを自分に跳ね返ってきてるので…ということで、メアリーシェリーのですね「フランケンシュタイン」という話を持ち出してきて、私の見解を述べたんですが、これがまた対立的になりましたね。
それで対立的な渦の中に入っていきます。ある時にほどなくして、本にですね、「武田邦彦はウソをついているのか」という題名の本が出たわけですね。もちろん私がOKしたんですけども、その時に私はですね、出版からそういう話があった時に、「ああ、科学者でもウソをつくと、みんなが思ってるんだな」と思いましたね。だって、「武田邦彦はウソをついているのか」という題名の本をつけるってことは、私がウソをついてる可能性があるということが社会の前提になってるっていうことなんですね。
いや、科学者はウソをつく必要性がないんですよ。これはねぇ、ちょっとなかなか理解ができないんですけども、科学者っていうのはウソをついても意味がないんですね。非常に難しいことやってるもんですから、だって、科学(音声が途切れていました)…人間の手に負えないぐらい難しいんで、それをやってるもんですから、ウソなんかついてて科学できるわけじゃないんですよね。
ですからもう必死になって物事をむしろシンプルにして、中身を出そうと思ってるんですね。これ、以上で終わりますが、科学者は対立は恥ずかしい、つまり自分の学問が未熟であるというふうに思うんですね。ですから、論争に勝つとか対立に勝つということは、私たち自然科学者にとってはとても恥ずかしいことで、自分たちの学問が未熟であるということを世の中に晒すと、こういうような感覚が私はあるわけです。