男と女の深い関係(3) 愛と性 日本の男性 (6/16)
おとぎ話というのは、子どもが読むものですが、同時に人生や文化に対して深い含蓄を持っているものです。日本で有名な「竹取物語」もその一つかも知れません。
物語は単純明快、夫婦が光る竹の中に玉のような赤ちゃんを発見、後にその女の子が月のお姫様であることがわかり、かぐや姫は最後に月に帰るという筋です.
あまりにかぐや姫が美しかったので、多くの若者が求婚し、その中の5人の王子らがかぐや姫が求めるものを持ってきたら結婚すると言うことになりましたが、それが「仏の御石の鉢」、「蓬莱の玉の枝」、「火鼠の裘」、「龍の首の珠」、「燕の産んだ子安貝」とまるでこの世になさそうなものばかりというわけです。
ところがこの話のおもしろいのは、王子らがあまり真剣にかぐや姫が求めたものを探さないところです。仏の御石は山寺のタダの石を持ってきてばれ、蓬莱の玉の枝は職人に作らせたのに、その職人達に報酬を払わなかったので、それでばれるという有様です.
文学的にはさまざまな論評があって、それはここで紹介することはしませんが、この話は男と女、日本文化についてかなり深い意味を持っているように思います.
まず第一に5人の王子にしても、かぐや姫を愛した天皇陛下にしても「あまりに美しいから」という理由だけで、とうてい人と人の「人格的交流」があったようには見えません。中には屋敷に押しかけて塀をよじ登り一瞬見えた姫の姿に惚れているのですから、自分の頭の中で作り上げた幻想以外の何物でもありません。
そして第二に、かぐや姫に難題を出された王子達は「命をかけてまじめに探そう」という気はあまりなく、何とかずるく立ち回って偽物でごまかそうとしています.
この第二点目はかなり日本的で、類似のヨーロッパの話、「ドンキホーテ」、「ロミオとジュリエット」、そしてグリム童話の「あくまの三本の金のかみの毛」などと比較するとかなり違います(文学者は類似ではないと反論されるでしょうが、あまり真剣には考えないでください).
日本の男性はずる賢く、苦労せずに求めようとしますが、ヨーロッパの男性は「命をかけて女性の要求に応えるのが男子たるものの本懐だ」としています。ちょっと考えるとヨーロッパの男性の方がかっこいいし、誠実なような気がしますが、それは本当でしょうか?
日本人というのは俯瞰的に、抽象的に、概念的に物事の本質をとらえようとし、かつ捕らえています。それに対してヨーロッパは1596年にデカルトが誕生する前からどちらかというと還元主義で、物事を分解し、解析し、論理的に明らかにしようとする傾向があります。
「解析的、論理的」に考えると「女性に誠実」になるのですが、「俯瞰的、抽象的」では「物陰から一目見たら惚れるんだから、恋なんて幻想だ.そんなものに命をかけるなんてばからしい」と言うことになりますし、竹取物語の悲劇(最後に別れる)とロミオとジュリエットの悲劇(最後に二人とも死ぬ)の違いも人生や男女に対する洋の東西の違いとも思えます。
実は日本とヨーロッパの対比の中に、古来から数多くの文学に書かれ、人々を喜ばせたり苦しませたりする男女の関係、そして現代の夫婦の離婚問題に深く関係する、男女の愛と性の問題が潜んでいると私は思うのです.おいおい書いていきます.
(いらぬ話)私はプラスチックや繊維を「燃えなくする研究」を進め、数年前に「普通はボウボウ燃えるのに、全く燃えないもの」を発見しました。かぐや姫に「火鼠の裘」を持って行けたのに!!残念無念!!
(平成24年6月16日)
--------ここから音声内容--------
おとぎ話というのは子供が読むもんですから、易しいというか楽しいというか、そういうものあるわけですが、その中に人生とか文化に対して深い含蓄を持ってるものが多いわけですね。その中で「竹取物語」という日本の有名なおとぎ話がありますけども、それもその一つではないかと思います。物語はもちろん、日本人だったらほとんどの人が知ってる単純明快なもので、ある夫婦が竹藪の中で光る竹を見つけて、それを取り出すと玉のような赤ちゃんが出てきます。後にですね、この女の子は月のお姫様であるという事が判りまして、最後にかぐや姫がですね、月に帰るとこういう単純な筋ですね。
このかぐや姫はあまりに美しかったもんですから、多くの若者が求婚をします。その中に5人の王子が残るわけですね。で、かぐや姫は「まぁ、それほどまで言うなら」ということでですね、「こういうものを持ってきたら結婚します」という風に言うわけですね。それはまぁ「仏の御石の鉢」(ほとけのみいしのはち)(注1)だったり、「蓬莱の玉の枝」(ほうらいのたまのえ)(注2)だったり、ええとこれはあの「ひねずみのかわごろも(火鼠の裘)」(注3)って読むんでしょうかね?読むのも難しいようなもんなんですが。ま、“火鼠”ですから、火が点いてるんだけど燃えない衣っていうことなんでしょうかね。そいから「龍の首の玉」(りゅうのくびのたま)(注4)と、「燕の産んだ子安貝」(つばめのうんだこやすがい)(注5)っていうことなりますから、一番上には「仏」 「蓬莱」 「火鼠」 「龍」 「燕」と付いてましてですね、まぁなかなかのもんなわけであります。この世に無さそうなもんであります。これがですね、課題になるわけです。これを出題されますと、王子様はそれを探しに行くんでありますが、またこれが面白いんですね。
真剣に一所懸命、探さないんですよ。真剣にこの、世界の端から端まで行って苦労惨憺 (くろうさんたん/苦心惨憺=心を砕き苦労をすること)して・・・なんて話じゃなくてですね、「仏の御石」を探そうと思った王子はですね、まず探そうと思うんじゃなくて“どっかの石でごまかせないかな?”と思うんですね。ほいで山寺の石を持ってきましてですね、それで、これで頑張るんですけどバレちゃうわけですね。
もう一人の王子は、「蓬莱の玉の枝」なんつうのはもう到底ダメなので、それに似せたものを職人に一所懸命作らせるわけですよ。で、持って行きますとね、その職人にこの…お金を払ってなかったんで、それを文句言いに来た職人がいたので、それでバレちゃったというですね、誠に抜けた話なわけですね。
で、まぁあのもちろん、この話はですね、物語ですから面白く読ませると、あまり真面目にですね“懸命になって探したら死んじゃった”とか、それじゃあ哀しいから、この程度・・・ということもあるとは思いますが。私はですね、この話の中に男と女の問題、もしくはそれを日本文化としてどう捉えてきたかという問題について、非常に深い意味を持ってるように思います。
まず第一には5人の王子にしてもですね、そいからここに「帝」…つまり天皇陛下が出てこられますが、かぐや姫を愛した天皇陛下にしてもですね、「何故、かぐや姫が良いの?」つったら、「美しいから」という理由だけなんですね。到底、人と人との「人格的交流」があったとは思えません、ええ。中にはですね、屋敷のところに押しかけてってこう、入れてくれないもんですから塀をよじ登って、一瞬見えたかぐや姫に惚れてしまうっていうわけですから。これはですね、人間の愛とか恋とかいうようなもんではなくてですね、男性の頭の中で作り上げた幻想ですね。それに勝手に自分が反応してるという姿のようにも見えます。ま、こういったあの非常に単純なですね、恋愛の始まりというものも非常に面白いですし。
それから第二にはですね、かぐや姫に難題出された王子たちはですね、命を懸けて真面目に探そうなんて全然思ってないと、何とかズルく立ち回ろうと、こういう風に思ってるってことですね。この第二点目はヨーロッパとかなり違うような気がするんです。あの、ここに挙げる話が、「いや、全然違う」と文学者から文句言われそうなんですが、「ドン・キホーテ」、これはですね、中世の騎士の物語であんまりこう、「騎士物語」を読みすぎて錯覚に陥ったドン・キホーテがですね、村の非常にこう、あまり風采(ふうさい)の上がらない(=容姿がぱっとしない)女性をアイドル・・・今で言えばアイドルにしてですね、騎士道・・・その女性のために自分は命を落としたいと、こういう旅に出る話なんですね。この話はまぁ、それはまぁ話の筋でありますが、その中に文学評論あり、時代論評ありでですね、非常にこの、中身の濃いものになっております。
例えば、スウィフトの「ガリバー旅行記」なんかもそうなんですが、文章の筋とは違う内容をかなり多く含んでるという風な文章でもあります。竹取物語も非常にそういう点ではですね、地名とか言葉の由来なんかも入っとりましてですね、そういう点ではちょっと類似したところがあるかなと言うような感じで、ちょっと私の頭に思い浮かんだという風に思って下さい。
それから「ロミオとジュリエット」、これはあのシェイクスピアの有名な悲劇ですけども。これもですね、竹取物語とは似ても似つかないんですけど、何となく竹取物語を思い出すとロミオとジュリエットも思い出すっていうですね、そういうとこありまして連想ゲームみたいなんですね。直接的にはグリム童話の「あくまの三本の金のかみの毛」ですが、こういったあのヨーロッパの童話なんかは古いものはですね、内容がずいぶん変わってるものもあって、作る作家がですね、適当に変えてしまうっていうものもあるんで、元がどうだったかっていうのはちょっと判りにくいとこもあるんですが、まぁそういうものを思い出します。
これらはですね、いずれもですね、「命を懸けて女性の要求に応えるのが、男子たるものの本懐(ほんかい=本望)である。それこそ恋である。愛である」というですね、非常に強固な思想が貫かれてますね。「それは当たり前だ」と、最初っからですね、女性の出す要求に対してズルをしようと言うんなら、「恋するな」と、「愛するな」と、まぁこんな感じなんですね、実に違うんですよ。
そういう風に考えますとね、ヨーロッパの男性は非常にかっこいいし、誠実なような気がするんですが、いやこれが難しいとこなんです。これが、これからこの物語でも切り込んでいく、それがですね、現在の男女の関係を明らかにできるんじゃないか、っていうのが私の考えなんですね。
日本人ていうのは俯瞰(ふかん)的・抽象的・概念的なんですね、全体をざっと捉えるわけです。それで物事の本質を捉えるし、また私は捉える事ができていると思ってます。これに対してヨーロッパっていうのはですね、1596年にデカルトが誕生するんですね。デカルトっていう人は還元主義の教祖みたいに言われとりますが、まぁしかしその前からですね、還元主義・・・つまり、物事を一つ一つにこう分けて、「これはこうだ、あれはああだ」と、こう考えてやっていくっていう、そういうものですね。非常に論理的であります。
で、何故ヨーロッパのような「解析的、論理的」に考える文化というのが、「女性に誠実」であるということを要求し、「俯瞰的、抽象的」な日本の考え方ですと、「まぁ物陰から一目見てかぐや姫に惚れてるぐらいなんだから、恋なんつうのは元々幻想だよ」と、「そんなものに命を懸けるなんて馬鹿らしい」ということになるわけですね。これはもう物語全体にもそういう傾向があるんですよ。例えば竹取物語の悲劇・・・これは悲劇なんですけどね。まぁ最後にかぐや姫が車かなんかに乗ってですね、月の車に乗って月に帰っていくという悲劇なんですね。
これもあの、おじいちゃんや天皇陛下は大変に嘆かれて、色んな事をその後の話にあるんですけども。ロミオとジュリエットの方は、もう最後に二人ともですね、墓場かなんかだったと思うんですけど死んでしまうんですね。こういったあの、最後の悲劇の形にもですね、表れて、「人生にはどういうもんなのか、男女っつうのはどういうものなのか?」という、洋の東西の差になって表れてると思いますです。
もちろんですね、ここにですね、ちょこっとその…男女の愛というものを書いたわけですが、これはですね、もう文学の中はほとんどそうですからね。文学の8割ぐらい、もしかしたら男女の関係かもしれません。人を喜ばしたり苦しましたりする、ま、現代の夫婦の離婚問題、男女の愛と性の問題、この問題はですね、人類始まって以来の課題であり、かつ時代と共に変わり、かつ抽象的であると、そういう事を含んでおります。ここではですね、論理的かつ包括的なですね、整理をしていきたいなぁと思っています。
ということで、最後にちょっとオチをつけますとですね、私はあの、プラスチックや繊維を「燃えなくする研究」っつうのをもう20年来やってきました。数年前にですね、「普通はボウボウ燃えるプラスチックとかそういうものが、全く燃えなくなる」ということを発見しました。いやぁ、ビックリしましたね。長くこの研究をやってるある研究者がですね、私のその実験の写真を見て、「背筋がゾッとする」って言いましたね。いや、背筋がゾッとするということもあるし、いや「火鼠の裘」、ええ。私は何か、かぐや姫に持って行けた感じがしますね。かぐや姫の目の前で裘を見してですね、それに火を点ける、全然燃えない、と。ということで、えー・・・(もし見せることができたら)どうだったですかね!? 残念無念であります!!
<注>
(1)仏の御石の鉢(ほとけのみいしのはち/天竺(インド)にある仏様が使った器)
(2)蓬莱の玉の枝(ほうらいのたまのえ/根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)
(3)火鼠の裘(ひねずみのかわごろも/中国にある伝説の火ねずみで作った燃えない布)
(4)龍の首の珠(りゅうのくびのたま/龍の首元にあるという五色に光る宝玉)
(5)燕の産んだ子安貝(つばめのうんだこやすがい/ツバメが産むという宝貝)
(文字起こし by danielle)