そのままの人生 (5/31)
ネットなどを見ているとやたらと批判的、挑戦的、けんかっ早い人が多いように思えます。相手の顔が見えないことで普通なら遠慮するところなのに、そのままストレートに感情をぶつけることが出来るからかも知れません。
また何か不満があって、そのはけ口にネットを使っているということもあるでしょうし、あるいは人を脅してそれを商売にするというのもこの世のことですからあると思います。
ところで、私も江戸っ子の気質が残っていて、かつてけんかっ早い方だったのですが、ある時から「心の底から喧嘩にならない」ようになりました。そのもっとも大きな理由は「自分は自分の意見が正しいと思っているけれど、相手は相手が正しいと思っていることを正しいとしている。相互に違うだけ」ということがわかったからです。
人は「自分が正しい」と思っていることを「正しい」と錯覚しています。本当はそれは「誰から見ても正しい」のではなく「自分から見ると正しい」と言うことに過ぎません。その時の「正しい」という根拠は、「自分の生い立ち、自分の経験、自分の頭脳構造、自分の利害、自分の将来、自分の家族のため、自分の国日本のため」などどちらかというと自分中心です。
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私の人生の一つの目標は「ありのままの自分」、「ありのままの人生」でした。考えてみると「こうなりたい」と思うことは大切ですが、それでも自分は自分で「日本人である」ということなど変えようもありません。少し努力をするにしてもできる範囲は大したことはなく、学者ならせいぜいノーベル賞を取るぐらいです。
ノーベル賞を取ることはすばらしいことで、それに至る努力や才能は尊敬すべきものですが、「たかがノーベル賞、されどノーベル賞」という域をでるものではありません。一人の人間の「そのままの価値」はそれを上回ります。
「ありのままの自分で、この世を生きていけないか? ウソをつかず、いつも誠意をもって人に接し、額に汗しただけの範囲で満足し、時に病気をしたら仕方ないと思う」・・・そんな自分が32歳からの自分の目標でした。
それまでは「少しでも得をしよう」と思って、いいわけをしたり、人を出し抜いたりしなかったわけではありません。でも冷静に考えてみるとどうも結局、その方が損をしていることにも気がついたのです。
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「人の意見は自分と違っていても「間違っている」とは思わない」、「ありのままの自分で良い。それで損をしてもそれは元々の自分の力だ」と思えるようになってからの自分は、心の底から腹の立つこともなく、テレビでアガることもなく、楽しい人生を送ることができるようになりました。
もちろん、子どもを被曝させるような政策には心底から腹が立つのですが、「どうしてそんなことを考えるのだろうか? 歳を取っても自分のことがかわいいのだろうか? もしかすると自分が間違っているのではないか?」と考えますから、少し余裕が出ます。
病気になると落胆はしますが、「気をつけているなら病気になるのは運命だし、気をつけていなければ自分の責任だから」と思うことができるようにもなりました。
最近、「普通の人なら、「これを言ったらどうだろうか? あれは・・・」と考えるのに、武田先生はいつもそのまま言って、それで普通にやっているのだからビックリします」と言われてこの文章を書く気になりました。確かに私の最初のうちは「ありのままの自分」というものに不安を感じていましたが、今では「正直で誠意があれば、周りは何とかしてくれる」と思っています。
その直接的なきっかけは原子力でした。原子力基本法で「自主、民主、公開」が原則になっていて、なんでもそのまま発表し、発言してみると、一部を隠していたときよりスムースに行くではありませんか! 一部を隠しているとそれが引っかかって考えが前に進まないのですが、隠しごとがないとスッキリして見通しがとてもよくなり、人の気がつかないところまで見えてかえって評価されるようになったのです。
(平成24年5月31日)
--------ここから音声内容--------
えー、ネットなんか見てますとですね、非常にこう批判的って言いますか、挑戦的と言いますかですね、喧嘩っ早いっていうような人が結構多いなぁと思うわけですね。まぁあの、相手の顔が見えないから、普通だったらまぁちょっと遠慮するんですが、そのままストレートに感情をぶつける事が出来ると、ま、いうことがあるわけですね。
まぁしかし、ネットをはけ口に使うっていうのも、ちょっとどうかなと思いますし、またあるいは人を脅して商売にするっていうのに近い例も見られるんですけども、ま、この世だからそういうこともあることはあるけども、あんまり感心しないなと思っていつも見てるわけですが。
私も実はですね、江戸っ子の気質がちょっとありまして、喧嘩っ早い方だったわけですけども、ある時から、見掛けは違うんですけど、「心の底からは喧嘩にはならない」という風になりました。その最も大きな理由は、このブログでもいつも書いてるんですけども、「自分としては自分の意見が正しいと思ってるけども、相手は相手が正しいと思ってるのを正しいと言ってるんじゃないか」と、それは当たり前ですよね。それはもう、「お互いに違うだけであって、自分が正しいと思ってるのは正しいってことはない」っていう風に解ったことなんですよ、まぁ極めて簡単な事ですね。
ところが多くの人は、「自分が正しいと思ってることが、本当に正しいと思ってる」わけですね。だけどもそれは、「誰から見ても正しい」というんじゃなくて、「自分から見ると正しい」というだけですよ。自分の生い立ち、自分の経験、自分の頭脳、自分の利害、あるいは自分の将来、もしくは自分の家族のためにそれが正しいとか、自分の国である日本のために正しいとか、まぁとにかく大体は自己中心的ですよね。
ええまぁ、そういうことで、それが一つ解ってきたっていうことですね。
そいからまぁ、私の人生の一つの目標にですね、「ありのままの自分」 「ありのままの人生」つうのもあったわけですね。まぁあの、人間ていうのは、「こうなりたい」っていうことが大切なんですけども、それでもですね・・・まぁ例えば、私は「日本人」なんですよ。こうありたいって思ったって、日本人以外にちょっとなることできないんですよね。で、どうも考えますとね、どうもありのままの自分以外に頑張っても、余り大したことないんじゃないか、と。
もちろんその、ノーベル賞取ればそれは大したことなんですね。それはもう、努力、才能、素晴らしいんですけども、やっぱり、まぁそれ以上ではないんですね。まぁそのことが少しずつ解ってきまして、ま、努力はするけども、それほどこだわらない、と。
そこでですね、一つのギャンブルをしたわけですね、私は。「ありのままの自分で、この世を生きていけないのか?」と。例えば、「嘘をつかない、言い訳をしない、額に汗しただけで良いやと、時に病気をしたら諦める」と、こういったですね、ことを少しずつ心掛けてきたわけですね。
ま、それまではどうしてたかったら、「少しでも得しよう」つって言い訳したりですね、人を出し抜いたりしたのも無かったわけじゃないんですが。どうもそんなことばっかしてて、どうもですね、“かえって良くないんじゃないかなぁ”と思ったわけですね。面白いですよ、人間は。目の前にこう、ちょっとだけ言い訳すれば上手くいくんじゃないかと思って、ちょっと言い訳したりですね、そういうことするんですけども。全体として自分の人生とか、それから自分ばかりでなくて周りの人も含めてですね、日本も含めて考えると、「いやあんまり、そんなありのままじゃなくてもいいんじゃないか?」と。
そこでですね、自分の意見を「人の意見が自分の意見と違っても、“間違ってる”と思わない」というのが第一原則、「ありのままの自分でも良い」と、「損しても、それがそのまま自分の力だ」と言うのが第二原則で、生活をすることがある程度できるようになってからですね・・・私もまぁ人間ですから、そんなスパッとそうできたわけじゃないんですが、心の底から腹の立つことも少なくなり、テレビでアガることもほとんどなくなり、まぁ人生は楽しくなりましたね。
もちろん、例えば今回の事で子供を被曝させるような政策っていうのは、もうほんとに腹が立つんですけども、「どうしてそういうことを考えるんだろうなぁ・・・?」 「文部科学大臣になって、そんなことを考えるのかなぁ?」と思ったりですね、「もしかすると自分の方が間違ってんのかなぁ?」と考えたりしますから、若干の余裕が出ます。
また、今回みたいに病気になるとですね、やっぱりちょっと落胆するんですけども、「自分が気を付けてて病気になるならこれは仕方ない、これは運命ですね。気をつけていなけりゃ、自分の責任ですから」、ま、仕方がないっていう感じがしますね。今回なんか私、はっきりと自分の責任ですよ。やっぱり自分の健康管理が怠って、腎臓結石が騒いだというかですね、発作が起きたっていうことですから。
えー、まぁあの最近ですね、実はこのブログを書こうと思ったのは、ある人からですね、「普通はですね、これを言ったらどうなんだろうか?どうだろうか?と考えるのに、武田先生はいつもそのまま言ってて、よくやっていけますね」という風にですね、言われたんですね。この文章を、それで書く気になりました。
いや実はですね、私もですね、今のように「ありのままでいくという自分」にはですね、不安があったんですよ。やっぱり“やっていけるのかな?やっぱりちょっとこう、色々考えて上手く立ち回るようにしなきゃいけないのかな?”と思ったんですが、今ではもう、「結構正直で誠意があれば、周りは何とかカバーしてくれる」という感じは、確信はありますね。
皮肉なことにですね、私がそういうことが出来るようになった一つが原子力だったんですよ。原子力はですね、「自主・民主・公開」つって、いつも公開なんですよね。で、私が会議で発言することを、もうそのまま外に出てしまう。だから、どうしてももう正直にしか発言出来ないわけですね。そうやってみるとですね、今まで、それよりか前は会議でちょっと隠したりなんかしてたやつが、そのままですね、言った方が良いような感じがしました。本当に、あの原子力関係の会議に出たというのはですね、私にとっての人生の宝でしたね。
えー、今度こんな事故が起こって、みなさんにご迷惑掛けて誠に申し訳ないんですけども、まぁあの、ありのままそれが言える、と。それでその隠し事をしてないとですね、物事がスッキリ見えるんですよ。今まで見通しが利かなかったことまで見えるんですね。で、かえってそれが評価されたりしましてね、人間分からないもんですね。「人生全て塞翁が馬(人間万事塞翁が馬)」(人生の禍福は転々として予測できないことのたとえ。)と言いますけど、本当にですね、人生というのは分からないもんだ。
ま、その中で私はですね、幸いある時点から少しずつ「ありのままの自分でいける」と、これで不安もあったけども、「ああ、いけた」という風に思った時がですね、私の人生の、あるいは転機だったかもしれません。
(文字起こし by danielle)