日本だけ(4) 長崎造船所と機械に取り組む侍 | お手伝いさんたちのブログ

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中部大学 武田邦彦先生のブログの中で、音声収録のみのものをテキスト化して掲載しています。
テキスト化及び掲載にあたっては先生から許可を頂いています。

日本だけ(4) 長崎造船所と機械に取り組む侍 (5/26)




ペリーが浦賀に来て数年。日本はオランダの技術的援助を得て勝海舟らが黒船を長崎から江戸に単独回航出来るまでになります。これはアジア、アフリカ諸国にはなかったことでした。



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(平成24年5月26日)





--------ここから音声内容--------




ペリーが浦賀に来まして開国してですね、日本はもう大急ぎでヨーロッパの技術を入れます。大急ぎでヨーロッパの技術を何故入れなきゃいけなかったか?これはですね、当時、アヘン戦争なんかがもう中国では行われておりまして、大体アヘン戦争って、大雑把に言えば1840年ぐらいなんですね。日本が・・・ペリーが来たのが1853年とか、まぁ大体1860年ぐらいなんですね。





このシリーズはですね、私、あの本を見たりなんかしないで、全く私の記憶だけで話してるわけですが、それは私の・・・その何と言いますか、考えをまとめたいという気持ちもあります。それから一つ一つ勉強してるよりか、大きな流れを理解するということをですね、主眼にしておりまして、そういう数字とかですね、そういうのは時々間違えますが、ま、大きくは間違えません。





えー、そのまぁアヘン戦争の影というのはですね、日本にもひたひたと寄せて来たわけですね。「非常にヨーロッパは怖い」ということを良く知っておりましたので、大至急ヨーロッパに追い着くように、例えば兵隊も刀を捨ててですね、どんどんどんどん近代的な洋服を着、鉄砲を持って、小銃を持って戦う、というような形にどんどん変わっていきます。





特に佐賀藩などはですね、大変に進歩的でしたから、アームストロング銃っていうですね、当時、まぁヨーロッパでも非常に持てはやされた・・・こう、それまでの大砲っていうのはね、弾が真っすぐポーン!と出るんですよ。ところがどうもポーン!と出るとダメだってことで、ネジが切ってありましてですね、回転しながら弾が出るっていう方法に変わるんですね。





この空を飛ぶってなかなか難しくて、ゴルフボールのポツポツした穴なんかもそうなんですが、色々工夫をしないとですね、上手く飛ばないんですね。ま、そういった工夫の1つが「アームストロング銃」なんでありますが、それをその自力で作ったりしとりました。





その1つにですね、長崎造船所っつうのを造ったわけですね。これ造ったのは幕府のですね、永井玄蕃頭(ながいげんばのかみ)つったですかね、のちにこの永井っていうのは非常にですね、優しい顔をした、まぁ文官なんですけど、文科系なんですけどね。ええと、非常に不思議な人物で、幕府の役人からですね、この長崎造船所で勝海舟らを使ってですね、スームビング号というのをまぁオランダから買いまして・・・貰ったんですけどね、これは。





えー、オランダ皇帝の好意(厚意)で貰ったわけですが、貰ったものをその…訓練に使い、それからやがてですね、榎本武揚(えのもとぶよう)と一緒に函館まで逃げて、函館でですね、五稜郭(ごりょうかく)の戦争に関わるという、ま、非常に幕末の幕府側のですね、数奇な運命を辿った1人でありました。ちょっとここに写真も貼っときました。





えー、この長崎造船所でですね、オランダからカッテンディーケっていう技師が来まして、それで勝海舟らを鍛えるわけですね。ま、カッテンディーケの回顧録を見ますとですね、ビックリしてるんですよ。オランダはですね、もちろん日本とは付き合いが長いんですけども、まぁ他の諸国もですね、オランダはまぁ色んなインドネシアとかそういうとこ植民地にしとりますが、普通まぁ、いわばアジアのその当時の民族はですね、みんな文明がまだ無かったもんですから、蒸気機関なんていうのはもう近づかないんですね。





もう、これはもう恐ろしいもんであるということで、遠巻きにしてるっていうのが普通だったんですが、まぁ日本人はどういうことだったんですかね・・・解体新書で人間の解剖っつうのは平気でやったわけですね。それから自分たちで蒸気機関を試作したりしました。アームストロング銃もそうですね。それからあの、鉄を溶かす炉なんかも造るわけですね。ま、この東京の近くでは伊豆の韮山(にらやま)がそうなんですけども、そういったものがある、と。





ほいでエンジンもですね・・・あの蒸気機関も怖くないんですよ、日本人は。大体ね、この何と言うか浴衣みたいの着てですね、そいでその、二本差しで刀差してですね、スパナを握ってやったんですよ、ねじ回しとかですね。全然その、すごいんですね。だけどもその頃の日本人ですからね、オランダ人がビックリするようなこともあるんですよ。





例えばあの、おしっこしたくなるとですね、トイレに行かないで甲板(かんぱん)でおしっこするんですね、日本はそんなんだったんですね。ま、衛生観念もそんなに高くなかったわけですね、やや野蛮人的なところも残ってたわけです。ほいで酒を飲んでは喧嘩をするしね、「一体これ、何なんだ?」という風にオランダの技師が言っておりますが。





しかし日本人はすごくてですね、ガンガン勉強したんですよ。そして実に、確か僕の記憶では、そのオランダの皇帝からですね、スームビング号を引き受けて訓練を始めて2年後にですね・・・間違ってても3年後ぐらいですが、勝海舟らがですね、長崎から単独で日本人だけでですね、実は船を回航して江戸に回るということをするんですね、「江戸回航」ですね。





ま、すごいですねー。何故がすごいかって言うとですね、ヨーロッパ文明に触れたことがない、元々蒸気機関とかですね、そういったものとか船の操舵(そうだ)…舵取りですね、そういったものをほとんど慣れない、その日本人がですね、もう2年か3年経ったら、もうこれ自分たちでやっちゃったんですよ。そいで、オランダの技師はそれをただ見てるだけと、まぁ後半はそういう風になったんですね。オランダの驚きもすごいですけども、日本もすごかったですね。どんどんどんどん追い着いていきます。





まぁこのときにですね、実は薩英戦争っていうのが起こるわけです。生麦事件ていうのをきっかけにですね、ま、日本の乱暴者がその、イギリス人を切ったもんですから、イギリスがこれの「報復しなきゃいけない」っていうんでですね、鹿児島に攻め入ります。大英帝国ですからね、七つの海を支配した大英帝国が「薩摩を攻めよう!」って言って、鹿児島湾に入ってきます。まぁちょうど折りしも、ものすごい台風みたいな大雨・・・この時もやっぱり、ま、「神風」ってなもんですけどね。





えー、陸上にある薩摩藩の砲台がよく見えないんですよ。射程距離はですね、大英帝国の方が長いもんですから、ほんとに狙いを定められますと、薩摩の大砲が届く前にどんどんどんどん攻撃されて、艦砲射撃受けましてですね、砲台が全部ダメになっちゃうのが普通なんですが、実は雨がものすごく降ってて風も強かったもんですから、うろうろしてるうちに薩摩藩の兵隊が撃ったですね、大砲がジャンジャンとこの大英帝国艦隊に襲うんですね。ま、ビックリしたわけですね。





ま、大英帝国艦隊がアジアの国にやられるなんていうのはですね、もうほんとに考えられませんでした。ま、あの一応この、町の方は砲撃して火災を起こして、そして大英艦隊は引き上げるんですけども、ま、“勝敗は半(なか)ばした”というですね、そういうビックリしたことも起こりましたが、当時の日本人の精神力の高さ、技術の取得する速度の速さ、こういったものがですね、その後、日本を救う原因になったと、まぁそういうことであります。これも有色人種では「日本だけ」でありました。



(文字起こし by danielle)