医と法:被曝を機会に深くやさしく考える(1)・・・法を無視する医 | お手伝いさんたちのブログ

お手伝いさんたちのブログ

中部大学 武田邦彦先生のブログの中で、音声収録のみのものをテキスト化して掲載しています。
テキスト化及び掲載にあたっては先生から許可を頂いています。

医と法:被曝を機会に深くやさしく考える(1)・・・法を無視する医 (5/26)




原発事故以来、緊急避難の方法として私は「被曝限度は法律を守ること」というのを第一にしてきました。この法律とは「事故後の特別措置」ではなく、「事故前に国民を被曝から守る日本の法体系」を信じようということでした。



でも、すでに原発事故から1年余が経ち、緊急避難というより「本当に、福島や関東は危険なのか? それ以外の土地はどうなのか?」を考える時期に来たと思います。つまり、法律ばかりではなく、本当の医療として被曝と向き合う必要が生じてきたということです。



これを「専門職」という点から整理をしてみたいと思います。


この世には「専門職」、もしくは「聖職」というものがあります。たとえば、人の魂を救う宗教家、人の体を傷つけて治療する医師、時によって人を死刑にする裁判官、そして、人の魂を育てる教師などです。これらの人が「人格の低い人」だったり、「自分のことだけを考える利権派」だったら、専門家に何かをしてもらう人はとんでもないことになります。



たとえば、医師が出血を止めれば命を救うことができる救急患者を前にして、「5時になったから帰る」と言って去ってしまったり、それほど極端ではなくても、「おそらく後、2時間でお亡くなりになる可能性がありますが、今日は私は会合があるのでこれで治療は止めます。治療を続けたらお亡くなりにならないかも知れませんが、私も労働者なので」などと言って帰ったらご家族はどんな気持ちになるでしょうか?



でも、その医師も言い分があります。実は重症患者が続き、昨日からすでに36時間も連続的に治療をしており、ヘトヘトです。世の中の人は退勤時間になれば帰ることができるのに、なぜ自分だけが仕事を終わることができないのか? そんなに給料も多くないのに・・・と思うのですが、それこそが「聖職」なのです。



私も教育者として、医師ほどではないのですが、学生の人生相談でどんなに疲れ切っていても夜、10時、11時と帰ることが出来ないことあります。目の前に悩んでいる学生を前にして離れることは出来ないのです。


・・・・・・・・・



このような専門家は、社会の尊敬を得ることができることと、その専門性から自分たちが守るものが決まっています。それが私がいつも使う次の図です。



お手伝いさんたちのブログ
詳しいことはすでにこのブログに載せたので割愛しますが、裁判官は「正義」、医師は「命」、教師は「知」が、その専門家の命令者です。国立病院の医師が野戦病院で治療に当たっていたときに、敵兵が負傷して担がれてきた。この敵兵を助けるのか、殺すのかという問題を考えてみるとすぐわかりますが、医師は「国家」の上に「命」がありますから、敵兵を助けます。



高等学校の教科書に「温暖化すると海水面が上がってツバルが沈んでいる」という記述があり、私が教科書会社に「これは「知」から言って事実ではない」と言いましたら、教科書会社は「環境白書に書いてある」と言い、私は「教育は「知」であり、政治は無関係」と抗議したことがあります。


・・・・・・・・・



これと同じ難しい問題は「医は違法行為ができる」という問題で、これを「医の法への不服従」と言います。ナチスドイツの時代に多くの医師が「ナチスの法律を守る、人の命を殺めた」と言うことがありました。今での「医は法に従うべきか」という議論が残っていますが、もちろん、「医の命令者は命だけ」ですから、命に反したら医師は法を無視しなければなりません。



その意味では簡単なことで、医師の最高指導者は「命と健康」だからです。それと法律が相反したとき、医師は無条件に「命」に従う必要があり、それを社会は批判できません。つまり、「足を切断するべき患者さんの足を切断するのは「法律に認められているから」ではなく、「医の命令者が命だから」なのです。


・・・・・・・・・



ところで、福島原発事故で、法律が1年1ミリ以下となっているのに、1年100ミリでも良いと言った医師がいます。この医師は医師を廃業するべきとブログに書きましたが、まず第一に医師は「命」の命令に反さない限りにおいて「医に関する法律」を守る必要があります。その上で、法律が不十分なら法律に反しても「できるだけ被曝しない方が良い」と言うべきです。でもこれも日本の法律では「被曝は可能な限り減らすこと」という法律がありますから、問題はありません。



さらに、「被曝を心配するより、気楽に思った方が良い」というのは医の倫理には当てはまりません。医というのは「直接的な治療を優先する」という原理があるからです。医師が安楽死をさせるのが認められないのは「その人がいつ死ぬのが幸福か」という判断を医師がするのは不適切であると考えられるからです。



医師から見ると、苦痛の中で生きるより注射一本で楽に死ねると思うけれど、医師は「直接的治療」が第一だから禁止されています。つまり「被曝を避けさせる」のが医師の役目で、「被曝を心配するより、気楽に構えていた方が病気にならない」というような論理を持ってくると、医師の専門性を放棄することになり、その結果、アドバイスも出来ないということになります。



インフルエンザが流行している時に「学校に行かないと友達関係が悪くなるので、インフルエンザにかかっても良いから学校に行かせなさい」というのは医師のアドバイスではありません。このようなことは教師にも常にあって「この学生にこのことを教えて何になるのか」と言うことではなく「この学生にこの知を教える」ということに徹する必要があるからです。


・・・・・・・・・



今回「医の倫理」として、正義を命令者とする裁判官(法を守る)と命を命令者とする医師の倫理が相反した場合(ナチスの殺人命令、あるいは福島の被曝を勧める医師の行動)について、倫理が相反した場合、専門家は自らの命令者に従うべきであり、それによって違法性を追求されないことを示しました。



日本の医師会が「法に従う」ことを宣言しているのは、日本がナチスのような歴史を経験していないことによります。でも、戦争前には日本軍部による人体実験命令などがあり、今回の福島原発による被曝は日本としては第2回目になります。日本の専門職の制度を正常に保つために、日本医師会がさらに研鑽されることを期待します。

(平成24年5月26日)




--------ここから音声内容--------




えー、医師の行動と法律、もしくは医療と法というのは非常に難しい問題なんですが、ま、ここではですね、できるだけ多くの人に分かっていただきたいと思いまして、深く、しかしやさしく考えてみたいと思います。この問題はですね、日常的にお子さんを治療されるようなお母さん方にもですね、どうしても必要な知識だと私は思います。





ええっとまぁ、それにもう一つはですね、私はあの原発事故直後は緊急避難という意味で、「法律をとにかく守る」ということを第一にやってきました。まぁつまり1年1ミリということですけどね。とにかくこれに従わないと後になってですね、「被曝してしまったけど、どうするの?」なんて言われてもですね、取り返しがつきませんからですね。しかしまぁ、これ1年も経って、「ほんとに福島に住めるのか?」とかですね、「その外の土地に大丈夫なのか?」ということをじっくり考える時期にきました。





ま、このようなことからですね、ええと、1年1ミリという法律ばかりじゃなくて、本当の医療としての立場から被曝問題を向き合う必要が生じてきたんではないかと思います。今回はその第一回としてですね、専門職という意味から整理をしてみました。





このブログにも再々書いておりますけども、「専門職」っていうのは、いわゆる「聖職」・・・ま、聖なる職であります。それはどうしてかって言いますと、人の魂を救うとか、人を傷つける・・・ま、治療するときにですね。時によっては死刑の判決をする、もしくは我々・・・ま、私、教師ですけども、人の魂に影響を及ぼす、こういう人はですね、「人格の低い人」があたるとひどいことになっちゃうんですね。例えば、「自分の事だけ考える利権派」なんかいったら、もうどうにもならないわけですから、専門家は自分を捨てなければいけないわけですね。





例えば医師がですね、目の前に出血を止めれば命を救うことができる救急患者を前にして、「あ、5時のチャイムが鳴ったから帰りますわ」つって帰ってしまったら、ほんとに困っちゃうわけですね。ま、それほど極端でなくてもですね、患者さんの家族に向かって、「おそらくこのままでは2時間でお亡くなりになるでしょうね」と、「今日は私は会合がありますから、これで治療は止めます」と、「治療を続けたらお亡くなりにならないかもしれませんが、私も労働者ですから」などと言ってですね、医師が帰ったらご家族はどんな気持ちになりますかね?





もちろん、その医師には言い分があるんですよ。例えば、「昨日の朝から治療を続けて、重症患者が続いて、昨日から既に36時間も連続的に治療して、ヘトヘト」と、「もう思考力も何も無くなって、体力も限界だ」と、「普通の人は8時間したら退勤するのに、なんで36時間勤めてまだ仕事が終わらないのか。給料もそんなに多くない」と思うわけですね。その通りなんですよ、お医者さんは過重労働ですからね。だけど、それこそが聖職なんですよ、ええ。それこそが聖職なんですね。ですから、やはりみなさんは我々をですね、お医者さんを尊敬しなきゃなんないと私は思いますね。





で、私もまぁ教育者ですから、医者ほどじゃないんですが、まぁ学生の人生相談だとか卒論のときとかですね、まぁ疲れ切っていても、夜10時、11時と帰ることができないことがあります。もちろん残業(手当)もつきません。だけど、目の前に悩んでる学生がいるのにですね、離れることはできないんですね。やっぱりこれもですね、ま、あんまり大したことないんですが、聖職の一部であります。





このような専門職は、社会の尊敬を得ることができます。それから専門性を自分で守らなきゃいけませんが、それが私がいつも使う、この図ですね。詳しいことはこのブログにも載せましたけども、裁判官の命令者は「正義」であり、医師は「命」であり、教師は「知」なんですね。これは専門の「命令者」なんです。





これは私のこのブログで説明しましたように、国立病院の医者、つまり国に雇われてる医師が野戦病院で治療に当たってるときに、敵兵が負傷して担がれてきた。この敵兵を必ず医者は助けます。つまり医者は「国家」の上に「命」がありますから、国家の命令とあろうと敵兵の命を助けるのが医師ですね。医師は断固としてそこで言わなきゃいけません、「私は医師だからこの患者の命を助ける。これが敵兵であるかどうかというのは医師には関係がない。その行為が罰せられるもんなら、私を罰して下さい」、これが医師ですね。





ま、私もそうです。私はつまんない例をいつも挙げますけど、高等学校の教科書にですね、「温暖化すると海水面が上がってツバルが沈んでいる」という記述があった。これは私は、教科書会社に電話をして、「これは『知』ではないから、削って下さい」と言いましたら、教科書会社は「環境白書に書いてある」と言いました。私は「教育は『知』であって、政治とは無関係です」と抗議したことがあります。





この問題を少し話を進めますと、「医師は違法行為ができるか」という問題ですね、これはあの「医の法への不服従」という問題で、もう世界的には定着しております。例えば、ナチスドイツの時代に多くの医師がですね、ナチスの法律を守って人の命を殺(あや)めました。





今ではこの「医は法に従うべきか」という議論が日本では残ってますが、もちろん「医の命令は『命』だけ」ですから、命に反したら医師は法も無視しなければなりません。つまり、医師は殺人ができません。





この意味ではですね、医師の最高指導者っていうのは「命もしくは健康」でありますから、それと法律が相反したときは、医師は無条件に「命」に従う必要があります。そしてそれを社会は批判したり、医師を罰したりすることはできません。





つまり基本的にはですね、「足を切断すべき患者さんの足を切断するのは、法律に認められてるから」ではなくて、「命令者が『命』だから」なんですね。命を助けるために両足を切断するっていうのは構わないわけです。





えー、ところで福島原発事故でですね、法律が1年1ミリ以下となっているのに、「1年100ミリでも良い」と言う医師がいます。ま、「この医師は、医師を廃業すべきである」とブログに書きましたが、これはですね、第一に医師は「命」の命令に反さない限りにおいては、「法律に守らなきゃいけません」。これは当たり前ですね、これは社会に対する責任ですからね。





例えば教育者でもですね、必要があっても・・・まぁこれ難しい問題で、と言うのも・・・まぁ「学生を殴っちゃいけない」みたいなもんですかね。その上で法律が不十分なら法律に反してもですね、「できるだけ被曝しない方が良い」と言うべきですね。ま、これは日本の法律では「被曝は可能な限り減らすこと」となってますから、これは「命」と「法律」とに矛盾はしません。





ところで、もっと踏み込んでですね、「被曝を心配するより、気楽に思った方が良い」というのはお医者さんの中にいますが、これはダメですね。「医」というのは、「直接的な治療を優先する」という原理があります。その一つが「安楽死」ですね。ま、お医者さんはですね、その相手になる患者さんが「いつ死ぬのが幸福か」という判断をしてはいけない、ということなんですね。医師から見ますと当然、「苦痛の中に生きるよりも、注射一本で楽に死ねるんだ」と思ってもですね、やっぱり医者の最高の命令者は「命」なんですよ、だから禁止されてるわけですね。





つまり、「被曝を避けさせる」っていうのが医師の役割であってですね、「被曝をしても良いですよ。気楽だから」って言うのはダメなんですよ。例えばインフルエンザが流行してるときにですね、「学校に行かないと友達関係が悪くなるから、インフルエンザにかかっても良いから学校に行かせなさい」と言うのは、医師のアドバイスじゃないんですよ。医師はどんなときでもですね、「学校に行かないと友達関係が悪くなります」と母親が言ってもですね、「いや、ま、そうかもしれませんが、やはりインフルエンザにかからないように、ここは登校しない方が良いでしょう」と、まぁこういう風に言うのが医師なんですね。





ま、これは教師でもそうなんですよ。「この学生にこんなこと教えて何になるのか」、こんなこと言う教師がいるんですけど、そんなことないんですね。我々は、「どんな学生でも『知』を教える」わけです。これはもう我々の任務って言いますかですね、だからこそ我々は専門職として特別な待遇を受けているわけですね。





ま、今回「医の倫理」と言うのがですね、正義を命令する裁判官、つまり「法を守る」っていう人と、「命」を命令者とする医師の倫理が相反した場合ですね、例えばナチスの殺人命令、殺人法律、あるいは福島の被曝を勧める医師の行動なんかについて見られるわけですが、法律と倫理が反した場合ですね、専門家は自らの「命令者」に従うべきであり、それはもう違法性が追及されないってことですね。





ま、この点ではまだ日本の医師会がちょっと甘いんですよ。日本の医師会は「法に従う」ことを宣言しておりますが、法がですね、ナチスの歴史を経験していない事にも因るんじゃないか…日本がですね。だけども、戦前に日本軍部には人体実験命令がありますし、今度の福島原発の事故は、医師については二度目の経験でしょうね。





私は日本の専門職制度っていうのが正常に保つために・・・専門職制度はですね、若干、法体系と違うんですね。それが例えば「学問の自由」だとか、「表現の自由」っていうのもそうなんですね。若干、法体系と違っても良いんですよ、それは良いんですね。それが命令者の・・・だから私なら学者ですからね、「事実」とか「真実」「科学」「知」というものに反したら、それはダメなんです、ええ。それは法律に従わなきゃいけないんですね。





ただ、私の目標が「知」であれば認められるんですね。これは医学もそうですね、医師も。医師の目指す行為が「命」であれば、法律に反する事も認められるんですね。これはあの、大きな社会的な合意でありますから、日本医師会も、もう少し研鑽(けんさん=研究)されてですね、議論を深めておいていかれたらどうかという風に思います。


(文字起こし by danielle)