科学雑誌と「学問の自由・倫理」 | お手伝いさんたちのブログ

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中部大学 武田邦彦先生のブログの中で、音声収録のみのものをテキスト化して掲載しています。
テキスト化及び掲載にあたっては先生から許可を頂いています。

科学雑誌と「学問の自由・倫理」 (2/25)



東京化学同人というところが出している「現代化学」という学術誌は、学会誌などとは違いやや一般人も興味を持って読むことができ、かつ学術的にも高度で、日本の科学雑誌としては価値が高い伝統のある雑誌である。



この雑誌の2012年3月号に、馬場宏先生のご執筆になる「食品放射能の許容値を考える」という論文が掲載された。著者は東大理学部を卒業後、原子力研究所に勤務、その後大阪大学の教授で、この道の専門家(以下で定義する)か学者(以下の定義)である。雑誌の記事の情報を読者からいただいた。



内容は、放射線の基礎、人体との関係、ICRPの勧告、食品の暫定基準値などを説明した後、セシウムを中心として人体に対する影響と許容値、事故時における許容値について学術的に詳細に述べている。そして、文章の終わりには、この論文で一貫して述べているように「規制値が厳しすぎる」、「反原発グループが危機を煽っている」ということを総まとめして締めくくられている。



論文に書かれた内容には著者自身の問題と、この論文を掲載した東京化学同人の見解の問題の二つを含んでいるが、学術内容の適否ではなく、学問の自由と専門家の倫理という視点から本論文と論文掲載の犯罪性と倫理違反の有無について論じる。



日本国憲法第23条は学問の自由を、また同第21条には表現の自由が基本的人権として規定されている。しかし、これは社会の公序良俗を前提としたものであり、「殺人の勧め」や「脱法行為の教唆」などを含むものではなく、そのような内容の論文を発表、あるいは出版することは逆に学問や自由な言論に対して脅威となる。



日本の法律では、一般人に対して「外部被曝と内部被爆を合計して1年1ミリシーベルトの被曝を限度とする」とされており、原子力安全委員会指針では「1万年から10万年に一度の事故の場合、1年5ミリシーベルトまで上げうる」(法律や規則の改定は必要であるが)とされている。



しかし、本論文では日本の法律(現在までの公的に認められた数値)について明確に解説をせず、また基準値が低いことについて批判的見解を述べている。また、ほぼセシウムのみに限定し、事故直後の放射性ヨウ素の被曝についての加算も明確な計算値が示されていない。


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これらの論調はこの論文ばかりではなく、事故後に発表された多くの新聞、雑誌などでの識者のものと同じであるが、この際、このようなものは「学問の自由」にも「表現の自由」にも入らず、犯罪性や倫理違反の可能性があることを指摘し、関係者の熟考に期待したい。



【結論】 被曝限度は法律で明確に決められており、事故時の上限も指針が存在する。従って「1年1ミリ以上被曝しても良い」という論文は、現に福島県を中心として被曝中の多くの人が存在する現時点では、「酒酔い運転をしても良い」という論文と同じ法律違反と倫理違反の可能性がたかい。



血中のアルコール濃度が0.15(ミリグラム/リットル)以上が検出されると法律違反で罰せられるが、世界各国が0.15に統一されていることもなく、学問的にはさまざまな考えがある。しかし「0.15以上であっても運転しても良い」とか「酒を飲んでいる方が決断力が高まるから運転には望ましい」という「呼びかけに近い論文」を出すことについては注意を要する。



このような見解は学会などの専門家集団の中で検討され、専門家集団の合意を得たら社会に発信できるものとするべきであろう。



【第一:学問の自由との関係】 学者は「人の健康や命、財産に直接、関係のない場合に限って」、学問の自由のもとで自由な著述が許される。直接、人の健康や命、財産に関わる場合、発表形式、文章表現に制約が加わる。



つまり、研究者は直接、社会に呼びかけることができず、教師、啓蒙家などのように社会に科学的なことを伝える役割を持つ専門家は「自らの意見を控え、社会の合意を説明する。必要に応じて若干、諸説を紹介するのは許される」と考えられる。これは安楽死が社会的に認められていない時に、医学的に学者が安楽死の研究を行っても良いが、医師は患者に安楽死を施してはいけないことと同じである。





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この図はこのブログで再三、紹介しているが、社会に直接的に影響を及ぼす行為には制限があり、裁判官は自ら法律を作らず、牧師は聖書を改編してはいけない。今回の論文に同意し、1年1ミリ以上被曝し、病気になった人は著者および出版社に賠償を求められると考えられる。




【第二:表現の自由】 表現の自由はきわめて重要で、安易に制限するべきではないが、放送法第3条の2に示されているように、「議論のある論点については、考えが異なる双方の意見を示すこと」、「公序良俗に反しないこと」などが求められていて、今回の場合は著者に法律で定められた数値やその内容の解説を求めるか、もしくは法律の数値を決めた委員会の委員に執筆を依頼するかが必要である。


また、「どのぐらい被曝したら5歳の子供が15歳で発症するか」が不明な現状で、このような論文が公序良俗に反さないかについての出版元の見解表明がいると考えられる。


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いずれにしても、学問の自由や表現の自由を守り、育てていく上において、「論理を詰めず、まあまあ、なあなあでいく」や「反論を無視する」というのではなく、真正面からこの問題に取り組む真摯な態度を要すると考えられる。


(平成24年2月25日(土))



--------ここから音声内容--------


えー、「東京化学同人」という出版社がありまして、大変に伝統のある良い出版社ですね。あの、立派な本をいっぱい出しております。ま、その学術誌の中に「現代化学」というものありますが、これも非常にあの、化学の方でですね、高く評価されている学術誌です。どちらかと言いますと、学会誌のように論文を掲載したもんではなくて、現代化学の編集を担当してる、まぁ非常に偉い先生方がですね、今度はこういうことを書いてもらったらどうかと、まぁいうことを通じて個人の学者に依頼する、っていうのが普通ですね。






今度の記事も、そういうことで多分作られたというふうに思っとります。で、この2012年の3月号にですね、大阪大学だった馬場先生が執筆されたと考えられる「食品放射能の許容値を考える」という論文が掲載されています。これはですね、大変にあの、ある意味ではきちっとした論文と言いますか、解説を含んだ論文でですね。







えー、私はこの論文について極めて、その激しく批判するわけではありません。しかし、この論文に書かれたことがですね、本当に「学問の自由」もしくは「表現の自由」とどういう関係があるかということは、執筆の先生には大変に悪いんでありますが、申し訳ないんですが、十分に検討させて頂かなきゃいけないんじゃないかというふうに思うところがあります。







一つにはですね、この論文は解説などをきちっと含んでおりますが、ま、それでもですねかなり、ある考えがございます。それは「規制値が厳しすぎる被曝」に対するですね、もしくは「反原発グループが危機を煽っている」ということが全体を覆ってます。これが悪いと言うんじゃなくて、やや準学問的というかですね、若干の方向性を持った論文である、ということですね。だからどうってことありませんが、一応そういうことであります。







それで、これについて、まぁ学術的な内容もちょっとあることはあるんですね。えー、例えば、セシウムだけに割合と論文が偏してるとこがありますが、これについてはですね、著者の方のご意見もあるでしょうから、ま、それについては今回あまり触れません。むしろここでは、日本国憲法第23条の学問の自由とか、東京化学同人がこれを出すに至った元ですね、憲法第21条の表現の自由というのが、良いのか?特に、社会の公序良俗とかですね、そういった倫理の問題に反しないかどうかっていうことですね。







例えば、学問の自由とか表現の自由を守るためにはですね、逆に言えば「殺人を勧めたりですね、脱法行為を教唆するようなもの」は、むしろ脅威になるんですね。やはり自由を守るっていう事は、ある節度を保つということが重要であります。で、この論文がですね、殺人の勧めとも言えませんが、脱法行為の教唆であることは、まぁ間違いないわけですね。この脱法行為の教唆が、その許されるもんであるか、ということを少し考えてみたいと思います。








というのは、日本の法律ではですね、一般人に対して「外部被曝と内部被曝を合計して1年1ミリシーベルトという限度」が決まっておりますし、また事故時についてもですね、原子力安全委員会の指針で、「1万年から10万年に一度の事故の場合、1年5ミリシーベルトまで上げ得る」と、まぁいうようなことがあります。これはあの、ただちに上げられるのか、それとも法律や規則の改定を必要とするかってことがありますが、通常に考えますと、何かの国会における、つまり国民の合意が必要だろうと思います。







ですから、まずはですね、法律があるんだということと、その法律にはこういう根拠があるんだということを、明記する必要があるんではないかというふうに思います。ていうのはですね、ええと、法律で決めてることは学問と違うというふうに言う人もいますが、この法律における数値はですね、学問的根拠に基づいて決められております。従ってですね、それは必要じゃないかと思います。








ま、ちょっと学術的な内容に入りますと、事故直後の放射性ヨウ素で被曝した人が多くおられますが、その人もこの論文を読んでよろしいのか?というような問題もあります。えー、しかしですね、この論文に書かれたことは、多くの新聞・雑誌に事故後から書かれているもんでありますが、私の見解は下に述べたいと思いますが。







被曝限度は法律で明確に決められていて、しかも事故時の上限も指針が存在します。従って、「1年1ミリ以上被曝しても良い」というこの論文はですね、現在福島県を中心として被曝中の人が多く存在する現時点ではですね、ま、「酒酔い運転をしても良い」というような論文と同じような、法律違反もしくは殺人につながるですね、倫理違反の可能性が高いと思います。







というのはですね、例えば血中のアルコール濃度が0.15以上が検出されると法律で罰せられるということになるんですが、もちろんこれには異論があるんですね。世界的にも統一されておりません。だから論文を出すことができます。えー、「0.15以上であっても運転しても良い」とかですね、「これは適当じゃなくて0.3が良い」とか。もしくは「酒を飲んでる方が決断力が高まるから良い」と言うことはいいんですが。







こういったことはですね、おそらく例えば、交通安全学会とか、そういったところでですね、専門家同士で十分に議論する。この専門家同士の議論にはですね、一般人がそこに参加しててもいいんですけど、ちょっと直接、現代科学のような雑誌ですね、つまり一般書店に売っているような雑誌、これに載せるっていうとですね、これはかなりの問題点があります。まぁその、どういう問題点があるかってことは後に示しますが、そういうふうに考えられます。








えー、「学問の自由」との関係を次に述べますが。これはですね、学者っていうのは「人の健康や命、財産に直接的に関係が無い場合に限って」、学問の自由の下で自由な著作が許されるわけで、非常にオカルト的と言いますかですね、そういったものは学問の中にちょっと入りにくいわけですね。で、まぁそういうことやってもいいんです、あの、それはもう学問は自由であります。








しかしそのときには、私は発表形式とか、例えば学会で発表する、もしくは文章にですね、ちゃんと現在の法律やら倫理もしくは正義というのは書いてあって、それに加えてですね、「私は、実はこういう考えを持っております」と、これはある程度許されると思いますね。というのは読んでる人は、通常例えばアルコール濃度が0.15じゃなくちゃいけない、それはどういう根拠に基づいているんだと、今んとこそれが正しいとされているんだ、とまぁいうふうに書いて、それを「実はこういうふうに違う」と、「私個人は思ってるんだけども、公にはまだ認められておりません」という、そういう書き方ですね。これは、まぁいいんではないかというふうに思うんですね。








私なんかがよく、「地球温暖化」違うと、こう言ってるわけですが。これは何かって言いますと、世界中で日本だけがやってるわけですから、日本社会からいえば、温暖化っていうのは割合多くの人の合意なんですね。ところが世界はですね、とにかく日本だけが削減で、ま、それがどうしても違うと言うんなら、まぁあの少しの数カ国を入れても良いですけど、いずれにしても世界の国の大半が違う、と。これはですね、どうでしょうかね、私なんかは、まぁいいんじゃないかというふうに思うわけですけども。ある程度、日本社会もしくは世界ですね、これをきちっと書いてあればいいんではないか、というふうに思いますが。えー、そういう場合はですね、私は伝える専門家っていうのが違うんじゃないかと思うんですね。









これはまぁ、私がいつも言ってる安楽死の問題なんかもありますし、ここに貼った、例えば医学者と医師ですね、それから研究者と教師のようにですね、社会に直接携わる裁判官とか医師とかそういう人たちはですね、やっぱり自分の意見を一つ後退させないと、倫理という問題に反するとまぁ考えられるわけですね。えー、従ってですね、倫理を求める…例えば裁判官とか医師っていうのは、常に賠償問題とかですね、社会的な制裁にさらされるわけですが。今回の論文の場合、その読んだ論文に動揺した読者が、1年1ミリ以上被曝して病気になった場合ですね、この場合は著者および出版社に、金銭的な賠償責任もあると一応考えられますね。えー、私はそう思います。








それから、出版社についての「表現の自由」ですけども、これもですね、非常に大切なんで、「私はこういう考えだから、こういう意見を発表しなさい」と、これをやったらいけないんですが。放送法第3条の2に示されてるようにですね、「議論のある点については、2つの意見を出す」と。これはやっぱり出版元としては大切なことだと思いますね。そいから「公序良俗に反しない」、つまりこれは片方に法律がありますから、今回の場合は著者にですね、法律で定められた数値とか内容について十分に解説して下さいね、というふうに依頼するかですね、もしくは、法律の数値を決めた委員会の委員にですね、執筆を依頼するということが大切ではないか、というふうに思います。








というのはですね、「どれくらい被曝したら5歳の子供が15歳で発症するかどうか」ってことは、現在医学的に不明なんですからね、とにかく。不明なことをですね、書く…書くときは、もちろんいいんですよ、学問ですから不明なことを書くんですが、それが不明であるっていうことをですね、やっぱり書かなきゃいけないかな、もしくは出版元がですね、この論文は片方だけ出したんだけど、どういう理由で片方だけ出したのか、ということを書いとく必要があるんではないか、というふうに思います。








ま、私の感じではですね、学術的体裁をとっているけども、ま、「反原発」とかですね、それから「神経質」とか、少しそういうですね、被曝を心配してる人たちに対して感情的な表現が見られますが。これは、まぁ著者がどうしてもそこまで筆が滑ったんであればですね、やはり査読はないと思いますけども、ま、査読に近いチェックをされる方がですね「どうか?」と。もしくは巻末にですね、編集者意見としてですね、述べる…とまぁいうような自由な感じがいいんではないかと、まぁいうふうに思いますが。








私はこの問題をあえて取り上げたのはですね、学問の自由とか表現の自由について、私はまぁ、ここ15年ぐらい大変に長い体験をしてきました。そのなかで私が感じたことは、多くの国民はですね、学問の自由や表現の自由というのを教科書とかそういうんで習いますが、必ずしも体験的に学んでるわけではないわけですね。その意味では、日本においてこういった自由を守り育てていくという点ではですね、「まぁまぁ、なぁなぁ」ではなくて、論理をきちっと詰めていったりですね、それから「反論をちゃんと無視しないで、正面から取り上げる」とこういったですね、見識が求められるだろうと思います。








まぁしかし、ちょっと危ない論文なんですよね。ていうのはですね、この論文をほんとに正直に信じてですね、法律違反をした場合、罰せられるんでしょうかね?今の日本政府ですからね、罰しないってことありますけど。もしかしたら裁判所がしっかりしてるかもしれませんよ。裁判所が非常にしっかりしてて、「この論文は法律違反を教唆してる、教唆罪に当たる」って、そんなことないでしょうけどね、日本では。








それからこう、疾病者が出た場合にですね、10年後に。甲状腺ガンとか色々出たときですね、法律を守らなくていいという論文を書いた責任というのはどのようになるんでしょうかね?えー、あんまりこれを言いますとね、やっぱり「学問の自由」や「表現の自由」はびびりますからね、それもいけないと思いますけど。







やっぱここら辺でですね、一回やっぱりこういった問題を真正面から取り上げるということをですね、東京化学同人もやられたらどうでしょうか?っていうのは、そのせっかくここまで踏み込んだんですからね。これを、“このままで、まぁいいよ”と、“私たちは政府側に立ってんだから、守られてるよ”というようなことじゃなくてですね。やっぱり学問というものは、非常に自由な魂を持ったもんでありますから、一つお考えいただければと思います。


(文字起こし by danielle)