知の侮辱(3)・・・ゴミの量は環境に無関係 (2/5)
学問というのはそれほど簡単なものではなく、一つの法則や現象が認められるためには、厳密な観測や理論、考察を経て専門分野の人が繰り返しても同じ結果が得られることが確認されたものが、一つ一つ組み立てられていきます。
もちろん、学問は常に新しいものですから、これまで体系化された学問に対してそれと異なることが出てきた場合は、従来の学問と比較して、これまた厳密に検討されるのです。
ところで、「ゴミの量と環境」に関わるもっとも基礎的な知は「質量保存則」です。人間が生活するには色々なものが必要ですから、それを生物や鉱物、それに空気や水から得ます。たとえば「暖炉で薪をくべる」という比較的単純なことでも、空気中のCO2と根からの水を使って樹木が育ち、それを伐採して薪にするのですが、その時でも山に入るための道路、道路に敷く砂利、そこを走るトラックなどすべてのものを考える必要があります。
また薪をくべると灰がでたりCO2がでたりしますが、それ以外に暖炉を使えば暖炉は少しずつ劣化していきます。これら普通には「無数」とも思われる膨大なことをすべて計算すると、「暖炉で薪をくべる」ということが、環境にどのような影響を与えるかが判ります。
このときの計算の大原則が「質量保存則」で、「地球上にあるものは、何をしても増えも減りもしない」ということです。
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さて、国家が経済成長をはじめて、そこに生活する人が使うものが増えると、それと同じゴミが発生します。成長をはじめた直後には、社会に投入されるものは「ストック」という形で蓄積されることもあるのですが、成長が一段落すると「フロー」、つまり社会に滞留しているものの量は変化せずに、入ったものだけ社会から出るという状態になります。これを学問的には「定常状態」と表現するのが普通です。
江戸時代の日本は定常状態であり、現在の日本も定常状態です。ただ、そこに蓄積されているものがかなり違うのと、物質の流れが大きく異なります。これを一言で言うのはなかなか難しいのですが、江戸時代を基準とすると現代は約2000倍といったところです。
一つ前の定常状態から、次の定常状態に移るときには、物品の生産量、蓄積量、廃棄物の処理量などが増えていくので複雑な状態になります。その時に、いろいろ思いがけないことが起こります。その一つが「ものが増えると環境が悪化する」ということです。
ヨーロッパでは1950年、日本では1970年、中国では1990年にこのことに基づく環境破壊が見られました。この原因は簡単に言うと、「ゴミが増えたのに、かたづけない」と言うことが原因しています。
社会が経済成長していく過程で、人間はそれまで自分たちのゴミを誰が片付けていたのか忘れてしまいます。もちろん片付けていたのは自然で、自然は人間がゴミを増やしてもそれに合わせてゴミを片付けてはくれないので、その結果、環境が破壊されます。それは大気、水質、ゴミ・・・何でも同じです。
つまり、「ゴミが増えたら環境が悪くなる」というのは間違いで、「ゴミが増えても人間が片付けなければ環境が悪くなる」ということで、「部屋に物ばかり持ち込んで、さっぱり片付けないどら息子」ということです。
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「ゴミが増えると環境が悪くなる」というのではなく、「ゴミが増えた時に片付けなければ環境が悪くなる」ということですから、経済成長の過程で痛い目に遭うと、人間はゴミを片付けるので、現在のヨーロッパや日本のように成長が一段落するとかつてより環境は良くなるのが普通です。
これは人間も同じで、成長の過程で思春期(反抗期など)を迎えますが、これは「歳を取ったから」ではなく「歳を取る過程で、身体と心の成長にアンバランスが来るから」です。だから「思春期が来るから歳をとるな」というのが間違えであることは誰もが判ることです。
教育では「論理性」というのはとても大切で、子供には「情緒」ばかりではなく、「論理的思考力」も同時に身につけさせる必要があります。「ゴミが増えたら環境が悪くなる」のか、それとも「ゴミが増えた時のひずみで環境が悪くなる」のかを見分ける力は日本人が持つべき力の大切な一つです。
また、質量保存則は「目に見えるところだけを考えずに、総合的に見る」という心を持つためには無くてはならないことで、工業では「マスバランス」、エネルギーでは「エネルギーバランス」、経済では「マネーバランス」などすべての面で大変、重要な概念です。
道徳的に「ゴミを出さない方が良い」ということと、「ゴミを出したら環境が悪くなるか」ということは違うので、その点でも子供たちに「思想と科学」を混同しないように教育する上でも大切なことです。でも、現代の日本では「思想と科学」を混同する子供がほめられ、キチンと科学の心を持っている子供が、時に先生に怒られていることがあり、残念です。
(平成24年2月5日)
--------ここから音声内容-------
ええと、放射線の被曝についてですね、多くの「学者」といわれる方が出てきてですね。そいで、「私の研究では、福島に行ったけどこうである」とか、まぁこれ、一番ひどい例ですけど。「診察をしたけど、あまり障害者がいない」と、こう言うようなお医者さんがいたりですね。医者は、学者ではないですから、それでもいいのかもしれませんが。
それから学者の方でもですね、「ここにこういうデータがあるので、あまり被曝は関係がない」とかですね、逆に「チェルノブイリのときにこういうことがあったが、非常に被曝は危険である」とまぁ、いうようなことをお話になる先生がおられてですね。これについてマスコミは多くの場合ですね、それが「学問的なことである」という伝え方をしました。
しかしですね、学問っていうのはまぁそれほど簡単であるんじゃなくてですね、一つの法則とか現象が認められるためには、いろんな厳密な観測、理論っていうのがあってですね。同じ結果が得られて、言えば論理的に合意できるものが組み立てられる場合ですね、これが学問であります。
ある人が学問的手法を使って、ある結果を得てもですね、それだけでは学問的結果ではありません。それはまぁ、その人の「説」のようなもんですね。「学説」のようなもんであります。で、もちろん学問っていうのは、新しいものですから、いったんその法則であるとか、認められた現象というものも、また新しい発見とかそういうもので覆されることあるんですが、覆されるというのは、また覆す手続きが必要なわけですね。
ですからまぁ、簡単に言いますと、「現在、被曝でこういうことが起こるとか、起こらない」とか言っておられる方は、全部学問ではありません。学問で言えば、「判らない」ということが学問ですね。被曝と健康についてはそうです。これはまぁ、いずれにしてもいっぱいありますね。
それで、ここでちょっとお話しする「知の侮辱」については、「ゴミの量と環境」という問題ですね。
これについての基本的な「人類の知」というのは、「質量保存則」というものがあります。人間が生活するにはいろんなものが必要ですから、生物とか鉱物、まぁ空気とか水っていうのがありますね。
それの一つ、例えば「暖炉に薪をくべる」というような、非常に単純な人間の行為というものを考えてもですね、これは空気中のCO2と、根から水を吸って樹木が育ちます。それを伐採して、薪にして、それをくべるわけでありますが、「伐採して薪にする」って言ってもですね、庭の木を自分の手で切ってくるのもありますが、平均的にまぁ考えますとですね…常にこういうときは、平均を考えないけませんから、特別な例を出してはいけません。
えー、普通はトラックに入って行って、山に入ってって木を切って、製材所で薪にする、と。そうしますと、山に入るわけですから道路が必要ですし、道路には砂利を敷かなきゃいけませんし、トラックも作らなきゃいけませんしですね。まぁ様々なものが必要です。そこに、トラックに乗っている人間と、その人間が食べるもの、もしくは住む家、人間ですから楽しむためのテレビ、テレビを制作するテレビ局のタレント、これも全部「質量保存則」に入ります。
これを、どのように評価するかって言うのは別ですね。まずは「質量保存則」に入ります。また、これ(薪)を燃しますと、CO2が出たり色々する、と。この膨大である無数のことをですね、どのようにそれぞれなるかということを計算するっていうのが「質量保存則」でありまして。「地球上にあるものは何をしても、増えも減ったりもしない」っていう原則を使って、実施するわけですね。
で、こういったものを、頭の一番根元に置いとくというのがまぁ人間の知恵、これまでの「学問」ということであります。で、あの実際上、国家が成長を始めてですね、あるときに原始的生活をしてるわけです。例えば江戸時代のようなものを考えますね。そっから、こうずーっと成長していって、だんだんだんだん社会にビルが建ったりしまして、それでいきます。
そういうときには2段階ありますね。まずは「定常状態」って言うんですけど、まぁ、あまり社会が変わらない状態ですね。江戸時代の260年は、そういう状態だと言っても良いかもしれません。それから2000年後の社会というのを、10年ぐらいを取って、これを定常状態にすることができます。あまりビルも増えてないしと、まぁいうふうに一応考えてですね。絶対そういうことがないって時代はありませんから、適当なとこで取りますね。
ところが、その間にはずーっと成長しますから、成長してる間は、「ストック」と言われるんですけど。こう例えば、ビルがなかったところに、ビルが建つというようなことがあってですね。それはあの、うーんと、その社会に持ち込んだやつが、その社会の中にあるわけですね。その社会の中に無いものは「フロー」といって外側に出て行く、とこういうことですね。
ま、江戸時代は定常的、現代も定常的としますと、そこでまぁ大きく違います。例えば、だいたい私の計算ですと、江戸時代と今とは物の流れ、ま、エネルギーもものですから、エネルギーもものとして考えますと、大体2000倍ぐらいかなという感じですね。2000倍と言われますと、皆さんビックリすると思いますけども、江戸時代の生活と今の生活を個人レベルで考えれば、100倍とか200倍ぐらいのレベルですね、個人だけ考えますと。
しかし、個人っていうのは、例えば我々は自動車を使う。そうすると、自動車を作るためのものっていうのは、もうものすごい大きいんですね。ですから、それを全部足し合わせますので、まぁ2000倍ぐらいになるわけですね。で、そうしますとですね、「ものが増えると環境が悪くなる」って言うのは、一体この「質量保存則」的に考えると、どうかと言いますとですね。物がいくら増えても、それを全部片付ければ、別段、環境には影響ないわけですね。
じゃあ、片付けないと言うのは、どういうときに起こるのかということですね。非常にそれ、歴史的にはもう簡単で、ヨーロッパの1950年代、日本の1970年代、中国の1990年代、ってのは典型的ですけどね。えー、成長途中に環境破壊がありました。
これはですね、まぁ簡単に言うと、「ゴミが増えたのに、それを片付けなかった」と言うことですね。まぁあの、もちろんその、よく世の中で言う「ゴミゼロ」なんていうのはですね、これはまぁちょっとトリックに属するもので、「知の侮辱」というほど、ま、大したことない、たわいないもんですね。
例えば、あるビール工場が「ゴミゼロ」を達成しようとして、それまで工場にトウモロコシをそのまま入れてたんですけど、そうするとトウモロコシの毛だとか皮とかいうのが全部、ゴミとして出ましてね、その身だけしか使えませんから、ビールには。
それで、ビール会社の社長が悪知恵を働かせて、工場の隣に子会社を作るんですよ。ほんとにこれ、あった話なんですけどね。子会社に今度はトウモロコシを運び込んでですね、そこで毛を取って皮をむいて、それでキレイにもうこのままビールの中に入れられるよという形にして、ビール工場に納めるんです。それ別会社なんですよ、形式は。そうすっとこのビール会社、突然「ゴミゼロ」になったわけですよ。
つまり、ビールを生産しても、ゴミは出てこない、と。じゃ、ゴミはどっから出てんの?つったら、その横に作った子会社からゴミが出てるわけですね。そういう、トリックが多いんで、こういったトリックのことを一々言ってますとですね、世の中には悪知恵の働く人はいくらでもいますから。ま、こういう「知の侮辱」なんて話をするときにはですね、ちょっとここまでいくと何とかしてくれと・・・。
沼津のあるですね、環境を表号してる事務機メーカーがですね、今までそこの工場から出てたゴミをほとんど全部を、ゴミ屋さんにリサイクル資源として引き取らせることをしてですね、伝票の名前を変えたんですよ。「ゴミを出す」という伝票を、「資源を出す」と、こういうふうにしたんですね。
それからもう一つは、食堂から出る野菜とか、それと生ゴミはどうしてもそこ上手くいかなかったんで、従業員に“堆肥として家庭で使ってくれ”って言って、持たせるんですね。もちろん従業員は、それを家庭で捨てるだけなんですけど。これで、そこの工場は「ゴミゼロを達成した」という宣言をし、NHKが朝のニュースで放送しましたんで、私が「ちょっとその工場の事情を知ってんだけど、こういうことなんですけども、ほんとにNHKさんはそれを『ゴミゼロ』と言うんですか?」つって、一回言ったことあるんですね。
まぁ、そういう犯罪とは言え・・犯罪ですかね。厳密に言うと犯罪かも知れません、詐欺かもしれませんね。そういったことは、ここでは除きたい、外して話をしたいと思います。
えー、とにかく生産が増えれば、ゴミが増えるわけです。生産を増やして、ゴミを増やさないということはできないんですよ、今んところね。もちろんあの、ゴミを焼いてしまえばCO2になりますが、CO2もゴミとして計算した場合なんですけどね、この場合は。だから、ゴミというのは、人間が、役に立たないものという意味では、そういうふうになるわけですね。
で、社会が経済成長していく過程ではですね、人間はそれまで自分たちのゴミを片付けてたのは、自然であるということを気がつかないわけですね。だからゴミを増やしても、最初は人間はゴミを片付けないんですよ。そうしますとね、やっぱり環境は汚れるわけですね。
だから、これは何を言ってるかっていうと、当たり前なんですけども。ま、6畳間にどら息子の部屋があってですね、次々次々と持ち込むんですけど、全然片付けもしないし、掃除もしないし、ゴミも出さない、とこれはもちろん、そこの部屋荒れてくるわけですよね。これなんですね。だから「ゴミが増えると環境が悪くなる」というんじゃなくて、「ゴミが増えたときに、そのゴミを片付けなければ環境が悪くなる」と、まぁいうことなんですね。
で、経済成長の過程で各国共に、痛い目に遭うんですよ。ヨーロッパの環境運動、日本の環境運動、中国もこれから環境良くしていくでしょうね。そうすると、どうもゴミを片付けなきゃどうもダメだと、これ以上成長できないと、こういうふうになってですね。ゴミを片付け始めますので、現在のヨーロッパ、日本のように成長が一段落しますと、環境はまぁかなり良いというか、むしろもちろん日本の成長の前、江戸時代なんかよりかはるかに環境は良くなっております。こういった論理の不整合はやっちゃいけないわけですね。
例えば、よくあの人間でもですね、赤ちゃんからずっと成長していく間に思春期を迎えますね。これはあの、「歳を取るから」思春期を迎えるんじゃないんですね。「歳を取る過程で、体と心のバランスが崩れる」ので、そこが…あの、思春期だということなんですね。ですから「思春期が来るから、歳を取るな」というのはおかしいわけですね。これはあの「ゴミを増やすと、環境悪くなるからゴミを出すな」っていうのと同じでですね、ええと、その問題をすり替えちゃってるわけですね。
で、まぁこういった問題はですね、実はなぜ「知の侮辱」なのかっていうとですね、これを教育問題で考えますとね、子どもに「情緒」を教えるのもいいんですけど、情緒…深い情緒っていうのはどういうものか、人間って言うのはどういうものかっていうのを、教えるのは良いんですが、同時に「論理性」というものも教えなきゃいけない、「論理的な思考力」。
つまり、「ゴミが増えたら環境が悪くなる」んではなくて、「ゴミが増えたときのひずみで環境が悪くなる」と。どっちであるかということをですね、事実をよく見ながら、自分の思想を後退させて見る、ということですね。こういうときに「質量保存則」なんか非常に重要なのは、人間はどうしても目に見えるところだけを考えるわけですが、「質量保存則」をきちっとやるということは、「全体を見る」わけですね。工業では「マスバランス」、エネルギーでは「エネルギーバランス」、経済では「マネーバランス」など、まぁこういったバランスという名前がついてんのは、これは内容的には質量保存則なわけですね。
それからもう一つ、これは教育とか科学、もしくは知という意味で重要なのは、「道徳と科学」を混同しないってことですね。「ゴミを出さない方が良い」っていう道徳があるとしますね、これはほんとに道徳かどうか判りませんが、ま、道徳があるとしましょう。質素であるとか、買わない方が良いとか、節約が良いとかね、もったいないというのが、もしかしたら大切かもしれません。そういうことと「ゴミを出したら環境が悪くなる」というのをリンクさしちゃいけないわけですね。
「思想と科学」をリンクさせるっていうのは、まぁ「魔女狩り」に代表されるわけです。これを混同しないように、ちゃんと子どもたちに、「思想は、思想だ」と。「科学は、科学だ」ということを教えるのが、ほんとは大切なんですが。現代の日本では不思議なことに、「思想と科学」をわざと先生が混同して教えてますね。
そうしますとですね、私、実はある子どもの経験があるんですが、科学の心を持っている子どもがですね、科学は科学としてきちっと理解して、先生に怒られてるところ、見たことあるんですよ。いやぁ、ま、ちょっと複雑な気持ちでしたね。
先生はですね、例えばこの例ですと、「ゴミを出しちゃいけないんだから、ゴミを出したら環境に悪いと言いなさい」と、こう言ってるわけですよ。その子どもがですね、「ゴミを出したから環境が悪くなったかどうか、判らないですが。」とこう言ってるわけですね。これはね、先生の方はある強引にですね、何か教育委員会に怒られるからかもしれませんが、教科書にそう書いてあるとかですね、そういうことで子どもを教育してるわけですね。これはまぁもちろん、子どもは次世代の人で先生よりかずっと優れてるから、それはそれでいいんですけど。非常に私は残念に思った経験があります。
(文字起こし by danielle)