(文字起こしをお手伝いして下さった方からの投稿です。danielle(ダニエル)様、ありがとうございました)
福島県民は日本人ですか?(1/11)
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大変、失礼な言葉ですが、福島のある首長さんが言われた言葉なので、そのまま表現しました。日本人は、日本の法律で1年1ミリシーベルトを被曝限度とすることで、「日本人」を被曝から守ってきました。
その点では、1年1ミリシーベルトを超えている福島に政府は除染もしないのですから、論理的には福島県民は日本人ではないと言うことになります。また安全委員会は「1年5ミリ以上を「著しい被曝のリスク」として、10万年に1度なら5ミリにする」という決定を自らしていたのに、それは国民全体では無かったと言うことです。
その意味では、東京の人が日本人で、福島県民も新潟県民も日本人ではありません。日本人にA級(東京)、B級(福島と新潟)と区別するからこそ、東京で使う電気を福島と新潟で作っているのです。
東京に原発を作ると、東京の人を1年1ミリで守ることができず、それは法律で日本人を守るということにならないからです。
今回、セシウムの降下物量が50倍にも増えても政府は警告を出さないのですから、ハッキリと国民をA級とB級に分けて、それを報道も容認していることを示しています。イヤな日本になったものです。
「絆」などという怪しげな言葉が出てくるのは、国民を二つに分けたことを隠すためでしょう。また、1年1ミリが法律であること、ICRPは任意団体でECRRと同じであることを隠していた人も、早く「日本人の絆」を感じて、修正してください。(音声あり)
(平成24年1月11日)
--------ここから音声記事--------
ええと、福島県の首長さん、ある人がですね。確か、首相に対してだと思うんですけども、「私たちは日本人ですか?」という質問をしました。非常にですね、はっきりと分かる言葉ですね。
つまり日本人は、法律で守られてきました。法の下で平等ですね。それは「1年1ミリシーベルト」です。我々は、法律を自分たちで作ったんですよ。国会が作ったんじゃないんですよね。我々は、国民で民主主義で、自分たちで法律を作り、自分たちを守ろうとしました。それは「1年1ミリシーベルト」でした。しかし、「1年1ミリシーベルトを超えても除染しない政府」ですから、これはある意味ではこの首長さんが言われたように、福島県は日本人ではないということになりますね。
憲法で、法の下での平等が決められ、法律で1年1ミリシーベルトが決まってるにもかかわらず、福島の人は20ミリシーベルトでいい、とこう言ってるわけですから。これはもうそういうことになりますね。
そのときにも安全委員会の話が出ていましたけども、ええと、安全委員会、今までですね、1年5ミリ以上を「著しい被曝のリスク」と言ってたんですよ。これは、安全委員会が出しているものにはですね、全部5ミリ以上を「著しい被曝のリスク」と書いてあります。普通に考えれば、「著しい被曝のリスク」つったら、「危険だ」っていうことですよね。だから、これはやっぱりおかしいわけですね。
それでまぁ、事故の時には多少は上げられるよといってるけど、それでも10万年に1度はですね、原子炉が壊れるだろう。そのときはまぁ、5ミリでいい。それはまぁ、日本人の民族が多少5ミリそんとき1回浴びてもですね、何とか10万年の時間があれば回復するだろうと、こういうわけだったんですね。
ところが、それを福島県の人に被せたということは、日本全体のことではなかったということですね。首長さんが原子力安全委員会の人を、その、「1年20ミリのとこで住んでくれ!」といった気持が分かりますね。その意味では実は、東京の人が日本人であって、福島県民も新潟県民も日本人じゃないってことになりますね。
というのは、東京で使う電気を福島の人と新潟ならいいということで、福島の発電所と新潟の刈羽発電所を作ったんですからね。ま、そういうことになります。ということは東京に原発を造ると、東京の人を1年に1ミリ守ることができないんで、だから遠くに造るっていうわけですね。
また、私のブログにここ2、3日書きましたけども、セシウムの降下量は50倍にも増えても、政府は警告を出さないわけですから。これはもう、なんか東京に住んでない人はいいや、と。報道もそれを容認してるということですね。ま、いやな日本になったと僕思いますね。
今日、実はあるところに出ていましたらね、官僚の人が「絆」っていう言葉を使いましたよ。いやだなぁと思ったんですね。私は「絆」という言葉はですね、国民を2つに分けて、「A級とB級」に分けたので、それを隠すためのもんだと私思いました、その話を聞いてて。やだなぁと思ってました。思いましたね。「絆」なんていうですね、美しい言葉を使うとき、怪しいんですよ。えぇ。だけどもまぁ、前向きにいきましょう!
「1年1ミリの被曝限度が法律である」。日本人はその法律で、被曝から守られてきた。ICRPがどうだ、なんて言ってますけども、ICRPもですね、それから非常に厳しいからもっと減らせと言ってる「ECRR」というヨーロッパの機関も、両方ともNPOの任意団体でお医者さんの集団ですね。
都合の良いときはICRP、また別のときにはECRRなんて使い分けるんではなくて、やっぱりですね、日本人の絆ですよ、それこそ。「1年1ミリは法律である」と。だから「福島の人は20ミリでいい、東京の人は1ミリだ」って言うんじゃなくてですね。やっぱりここは、そういうこと言ってる学者さんが多いんですし。何か、私はもういくらバッシングされたってどうってことないですよ。
あ、何かおかしいことあるんですよ、実は。ええとこの前ね、「武田邦彦批判」っていうのがあったからですね、それをちょっと読んでみたらですね。「武田邦彦批判」じゃないんですよ、実は。私が言っていることの批判なんですよ。それはね、「武田邦彦批判」と違うんですよね。「1年1ミリが法律である」と私が言いますでしょ。それは、「1年1ミリが法律ではない」という反論だったらば、これは「武田邦彦批判」じゃないんですよ。ただ単に「見解の相違」なんです。
それはお互いに、私が「1年1ミリが法律だ」っていうことを示しますから、「それが法律でない」ってことを示してくれればそれでいいんですね。ところが1年1ミリが法律なのに、法律でないといってるので、それをごまかすために「武田邦彦批判」って書いてあるんですよ。
で、別段、「武田邦彦批判」って、何か私の人格かなんか批判してんのかなと思ったら、全然そうじゃなくて。私が言ったこととか、ブログに書いたことを批判してんですね。それは「事実の批判」ですから。全然、武田邦彦の批判じゃないんですよ。変なもんですよね。だから、私が言ってることの何が問題なのか、何が間違いなのかと、まぁいうことですね。それをはっきりしなきゃいけないわけですね。
ま、「1年1ミリ」というのは、別段、医学的に決まってるわけじゃなくて、“判らないので合意で決めた”んですね。で、1年1ミリ以上が危険である、と。そういうふうにして運用しよう、と。実はそれが成功して、5ミリ以上が危なかったんですけど。1年1ミリから5ミリがグレーゾーンだということも判ってきたわけですけどね。1年1ミリは危ないと決まったわけじゃないんですよ。危ないと判ってないんですから。
ただ、それは危ないとして注意をしようということで「1年1ミリ以上は危険だ」ということにして、法律を作り守ってきたわけですね。それで日本人は被曝から守られてきたわけです。そういうことなんですね。
ですから、これが違うというのは、これは「武田邦彦批判」じゃないんですよ。単に、何ていうんですかね、事実の批判なんですね。それはいいんですね。あの前向きに日本を良くするためには、個人の批判をしてもいいんですよ。それは個人の批判は、個人の人格だとか、何かそういうの批判したらいいんですね。明らかにそういう証拠があればそれを出して、批判するのは構わないです。
ただ、事実を批判するときは、これはあの、人間を批判してもしょうがないんですね。私があんまり人間を批判しないのは、ほんとにその人を批判しなきゃなんないときは批判しますけども、普通はそうじゃないんですよ。その人の言ったこととか、そんなことですからね。それはこういうふうに違いますよ、と…いうことを言うということですね。ま、ちょっと色々なことを一緒に言いましたけども。
ま、大変に福島の首長さんが、ある首長さんですね。・・・「しゅちょう」というのはですね、「首長」と書いて、「くびちょう」と普通、呼ぶんですけども。「くびちょう」といったほうがいいかもしれない・・・首という漢字がちょっと悪いんで、今ここ「しゅちょう」といいましたけども。ま、知事さんとか市長さんとか町長さんとか村長さんとか、こういう人たちを言うんですけども。ま、大変に良いご発言がありました、勇気のあるご発言がありましたので、それをちょっとコメントしたくなって、コメントいたしました。
えー、この首長さんの発言についてもですね、もしもご批判があれば、お話になった事実を批判するべきで、その方の批判ということになりますと、その方を十分に研究して、そして自分よりか少なくとも人格的に劣るということが判ったときに、その人を名指ししてご批判することができると思いますが、それはあまり前向きではないと思いますね。私たちは被曝を防ぐのが目的であって、ある人をやっつけるのが目的じゃありませんからね。そこのところもよく、多くの人が、この原子力関係者が考えたいというふうに思います。