「アンネ・フランクとの再会」
中学の頃、読書に熱中したことがあった。
通学で歩いている時はもちろん、寝る時の布団にも、
お風呂にまで持ち込み、本を読んだ。
後にも先にも、その数ヶ月が全てだったけれど、
今でも、その時のことを思い出すことがある。
ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』が
本を読み出すきっかけになり、
続いてコナン・ドイルのホームズの連作にのめり込んだ。
さらにはヘミング・ウェイの『老人と海』や
トルストイの『戦争と平和』でさえ
意味もわからないまま、読み漁った。
小説の中では主人公と自分を置き換えることは容易い。
あの頃、僕はチェアマン島に流れ着いた少年十五人の一人、
その中でもブリアンだったような気がしていたし、
ワトソン博士を連れて奇怪な事件に取り組んだ
ホームズであったような気もしていた。
やがて、高校、大学受験で、読書というものと疎遠になるが、
大学卒業後、会社に勤めはじめ、通勤というものを経験して、
そこでまた本と再会した。
その文庫本を古本屋でたまたま見つけた時は、
表紙の懐かしさで、思わず手にしていた。
黄ばんではいるが、著者が印刷された表紙は当時のイメージのままだった。
内容もある程度わかっていた。
今となっては、さして興味を引くような内容ではなかったが
読書に熱中していた中学のあの頃と比べて、
今読んだなら、どのように感じ方が変わるのか? 知りたいと思った。
思えば、社会人となって、ちょっと懐古的になっていたのかもしれない。
本を持ち帰ったその夜、ベッドに横になり僕は改めてページを捲った。
その本は1945年4月30日にヒトラーが自殺する一年三ヵ月前まで、
ユダヤ人の少女によって書かれたものだった。
しかし、三分の一ほども読み進むことが出来なかった。
この本もまた、退屈なものになってしまったらしい。
僕は残りのページをパラパラと捲り、ベッドの隅に放り投げた。
少女とってみれば、その行為がアウシュビッツに送り込んだ密告と、
なんら変わらない罪悪であるかもしれないのだが。
僕のいったい何が変わったというのだろうか?
物語は変わることはない。
ページを捲れば主人公は同じように振る舞い、
あらゆる出来事は同じように、その結末を導く。
もし、そこに悲しみが待っているとしてもだ。
「私ではなく、あなたが変わったのよ」
と、少女は言った。
「あの頃と同じように、キミの話が聞きたかっただけなのさ」
「今のあなたには、とても無理ね」
少女はそう答えた。
それはまるで僕のガールフレンドが電話口で言ったそれと、そっくりの口調でだ。
「どうしてだろうか?」僕は蛍光灯に手のひらをかざしてみた。
この手も、顔も。すべてが、本当の僕ではないような気がしてならない。
少女はそれを聞くと、「仕方のない人ね」
といった具合に、ため息をついた。
多くのことを後悔しているのなら、それはそれで仕方のないことだわ。
でも、人は人生をやり直すことは出来ないの。
あなたはもっと現実的になるべきよ。
私が屋根裏部屋で考えていたように。
たぶん、人は現実を知ることで大人になっていくものなの。
生きるということは結局、そういうことだと思う。
「大人になることがいい事とは、僕には思えない」
大人になる事が悪いとは、私には思えないわ。
「十五歳のキミに、大人の、いったい何が分かるというんだい?」
突然、携帯電話のベルが鳴った。
僕は、はっとしてベッドから起き上がった。
電話の主は幸いにしてゲシュタポではなかった。
間違い電話なら、今の彼女の居場所を偽ることもない。
結局のところ、読み返して何の感慨も生まれなかった。
話の著者は1945年3月ユダヤ人強制収容所で死んだ。
今ではその土地を数センチ掘り起こすだけで、白骨が出てくるという。
僕はただの傍観者であり、すべての物事をあっさり受け入れ、
そして簡単に捨て去っている。
結局、僕が殺したようなものだ。