【権威編】可決しない内閣不信任案の討論になぜ力を注いでいるのか | 国政報告 おおさか佳巨 福島県[県中]の生活

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立民 内閣不信任決議案を提出 - 衆議院

立憲民主党は、岸田内閣は政治改革に後ろ向きで、国のかじ取りを任せられず、直ちに総辞職するか衆議院を解散すべきだとして内閣不信任決議案を提出しました。

 

その後に衆議院議院運営委員会の理事会が開かれ、午後2時から本会議を開き、立憲民主党が提出した岸田内閣に対する不信任決議案の採決を行うことで与野党が合意しました。

 

自民・公明両党は反対する方針で、決議案は否決される見通しです。

 

 

というわけで午後から内閣不信任案が提出され、否決される見込み。

 

否決されるのになぜ出すのかということがあるが、あくまでも決議案であり、野党はポーズを見せておきたいところ。

 

一方で、野党は与党切り崩しの政治工作をすべきであって、決議案を可決させる努力が足りなすぎる。

 

 

毎度毎度、国会の会期末に内閣不信任案が出され、儀式のようになってしまっているが、これまでこの不信任案が賛成多数で決議されたことが四度ある。これが可決された場合、内閣は総辞職するか、衆議院を解散せねばならないが、その四度とも必ず対抗措置としてか、衆議院を解散している。

 

 

●第一回目 1948年 (昭和23年) 12月23日  第2次吉田内閣

 

吉田内閣の与党は民主自由党(日本自由党と民主クラブが合併)で少数与党であった。まだ新憲法下であって、内閣不信任案が可決したときでないと衆議院は解散できないのか、あるいは天皇の国事行為として解散できるのかが議論されている時代で、前者の考えが主流であった。そのために衆議院を解散したくなっていた吉田茂首相は意図的にではないが、不信任を可決させて衆議院を解散したともとれるため「馴れ合い解散」と呼ばれる。政治的議題としては国家公務員法改正案があって賛否に分かれていた。

 

●第二回目 1953年 (昭和28年) 3月14日  第4次吉田内閣

この時の吉田茂は自由党総裁としての内閣総理大臣。野党である日本社会党の西村栄一議員が衆議院予算委員会で質疑中に、吉田首相が小声で「馬鹿野郎」と発したことから内閣不信任案が提出され、与党の非主流派である鳩山一郎らが決議の採決で欠席をしたことから可決された。これにより吉田は衆議院を解散した。バカヤロー解散と呼ばれる。

 

●第三回目 1980年 (昭和55年) 5月16日  第2次大平内閣

前回の総選挙から議席数が減ったことにより、大平正芳首相に対する不満が自民党内で高まり四十日抗争というのが繰り広げられたが、内閣不信任案は否決される見込みだった。ところが、自民党の非主流派が党本部に集まっていたところ、本会議場では内閣不信任案の採決が始まったことにより議場が閉鎖されたために、入場できなくなり、野党の議員数の方が多かったために不信任案が可決されるというハプニングが起きた。このことにより大平内閣は衆議院を解散したためにハプニング解散と呼ばれる。なお、この解散により総選挙前に大平首相は死去した。

 

 

 

 

●第四回目 1993年 (平成5年) 6月18日      宮澤内閣

政治改革をやると宣言したが、一切できなかった宮澤喜一首相の時代。参議院には細川護熙代表の日本新党が台頭しており、自民党内では政治改革グループとして離党した新党さきがけがあった。それに引きずられる形で、自民党の竹下派が分裂した後の羽田派も新生党を旗揚げした。これにより新生党を結成したグループは内閣不信任に賛成したことにより可決され、衆議院の解散後は非自民連立政権による政権交代が起きた。政治改革をやらなかった宮澤内閣であったので噓つき解散と呼ばれる。 

 

 

 

これら四回の前提を見てみると、馴れ合い解散、バカヤロー解散のあとには保守政党は新たな枠組みを作って政権を作り直している。大平内閣のハプニング解散はまさにハプニングであったので、その後の変化はあまりない。大平派の後継者・番頭である鈴木善幸が後継総理・総裁になっているためにこれだけは継承と考えられる。宮沢内閣の噓つき解散はその後に政権交代が起きているので枠組みは変わっている。

 

このように考えると、内閣不信任案が可決するときというのは与党内に反乱者が出て、欠席か賛成をする場合である。そのような努力をするのが野党の国会対策としての仕事ではなかろうか。

 

なにしろ、今回の政治資金規正法改正案について与党は、公明党はもちろん自民党の中にもおかしいと思っている議員が何人もいる。このままでは次の選挙は戦えないとして、実のところは法案にも反対し、不信任案にも賛成したいところだ。

 

また、麻生太郎副総裁は岸田文雄総裁に対しては不信を抱いている。その理由は、先に述べたのとは逆で、「政治資金パーティー券購入者名の公開を5万円以上にするのは絶対にいかん」と言うもので、岸田総裁は公明党の言う通りに5万円で了承してしまったために、麻生副総裁はお怒りである。かといって、じゃあ麻生副総裁や麻生派の議員たちがこの法案に反対するかと言ったらそうはしない。党で決まったことだから従うわけだ。

 

そこに党議拘束という、害悪があるのだ。

 

党の方針に反していようが従っていようが、罰せられないのが自由闊達な議会を作る第一歩なのではないか。これがないと、結局のところズルズルと岸田政権のような悪政をひきずって、いつまでもどん底状態に留まることになるのだから、まずはこの党議拘束なるものを外すべきである。そのことによって、内閣不信任案が可決されやすくなり、衆議院と内閣に緊張関係がもたらされ、国民の近い立場の国政に近付くのではないか。

 

したがって必要なことは内閣不信任案で、野党支持者をうならせる名演説をすることではなくて、与党を切り崩して内閣不信任案を可決させることではないか。

 

そしてついでにもう一つ。内閣不信任が可決された上記三人の総理大臣は派閥の系統に一貫性がある。

 

まず吉田茂の自由党系列であること。吉田茂自身も内閣不信任を二回受けているが、その吉田直系たる池田勇人の作った池田派こそが宏池会の初代である。

 

池田派は、前尾繁三郎という政治家に引き継がれ前尾派となる。前尾は衆議院議長を務めた。次の後継者が大平正芳であり、大平内閣で不信任を受けた。大平死去後に鈴木善幸(現在の鈴木俊一財務大臣の父)の後に宮澤喜一で、これまた不信任を受けている。

 

その後、宏池会は離合集散を繰り返し、そして今は宏池会の最後の会長となった岸田文雄総理大臣である。系統からしても内閣不信任が可決されるジンクスがあっても不思議ではない。