人間はいくら怒りの念を持ったところで、怒りは長くは続かない。一瞬の怒りで人生を台無しにするわけで、常に真剣勝負に生きている人間は、他人の怒りなどをいちいち相手にしない。実に馬鹿らしい行為であると受け流すことができるわけで、特に政界においては、このような精神が非常によく失われている。
戦わずして勝つことについて、学べる機会が少なくなったからなのだろうとよく考えさせられた。
自民党が支持されなくなったが、野党の支持は上がってない。維新の会は確かに伸びてはいるが、頭打ちになるだろう。3党とも、いや国民民主党・共産党・れいわ新選組・社民党・参政党その他の小さい政党も含めて、資本主義という基軸で物事を計っており、すべて同じ土俵での議論がなされており、らちがあくまでにまだ時間を要するだろうと思われる。
お互いに足の引っ張り合いをする理由は、それぞれが無力であり、自信を喪失しているからだ。
自信と覚悟がある者は、他者に何を言われようとも、どんな苦難に直面しようとも揺るぎない自覚があるために、他者の叱責など気にする必要など微塵もないはずである。
自信喪失の現代政治、そして自信喪失経済。これに答えを出せていれば、個人のワガママなどとるに足らない話である。
非寛容は実に無力であり、寛容なるは至上最強なり。
なぜならば非寛容は自ずから限界を設けているから視野は狭く、寛容なる者の手の内に動かされるからである。
寛容になることができるのは自らに中心力があるからで、己に中心力があると、人は思い通りに動いてくれるし、動かされる。動かされている人間は、まさか自分が動かされているとは、よもや感じていない。それこそが手の内に置かれている証拠でもある。
政治力とは対決するパワーではなく、寛容から生み出される自在な操作能力であるのだが、政策ばかり勉強して頭でっかちになったり、自我が強いと何一つ実行はできないものだ。
なお、この文章は13年前の民主党政権時代に書いたもので、政党名を現在に合うようにアレンジしただけである。
つまりあれから何も変わっていないということだ。