生物多様性というのはなぜ必要なの? | 国政報告 おおさか佳巨 福島県[県中]の生活

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世の中に必要なものは必要になります。
例え、今は笑われてもです。
限界が来るものについては、捨てなければ生きていけないからです。

地域における生物の多様性の増進のための活動の促進等に関する法律案(213国会閣43)

 

3月15日 (金)に伊藤信太郎環境大臣より趣旨説明。22日に与党が質疑、29日に野党が質疑し委員会では全会一致により可決すべきものとしたが、4月2日に本会議では賛成多数により可決した。反対したのはれいわ新選組のみである。

 

2022年に「昆明・モントリオール生物多様性枠組」が採択され、2030年までに「自然を回復軌道に乗せるため、生物多様性の損失を止め、反転させること」という宣言を踏まえて、法律が必要となった。これを改善するためには、国立公園等の保護地域の保全に加え、自然共生サイトでの活動をはじめとする民間等による生物多様性の維持、回復又は創出に繋がる活動を促進していく。

 

このために陸と海の30%以上を保全する「30by30」の目標を掲げている。

 

以下は概要。

 

(1)増進活動実施計画等の認定制度の創設

①企業等が、里地里山の保全、外来生物の防除、希少種の保護といった生物多様性の維持・回復・創出に資する「増進活動実施計画」を作成し、主務大臣が認定(企業等は情報開示等に活用)。

②市町村がとりまとめ役として地域の多様な主体と連携して行う活動を「連携増進活動実施計画」として主務大臣が認定。

①又は②の認定を受けた者は、その活動内容に応じて、自然公園法・自然環境保全法・種の保存法・鳥獣保護管理法・外来生物法・森林法・都市緑地法における手続のワンストップ化・簡素化といった特例を受けることができる。

 

(2)協定制度の創設

②の認定を受けた市町村等は、土地所有者等と「生物多様性維持協定」を締結することができ、長期的・安定的に活動が実施できる。

 

 

この新法により生物多様性地域連携促進法は廃止される。他に、(独法)環境再生保全機構法の一部改正も行う。

 

ところで生物多様性というのはなぜ必要なのだろうか。

このことについて衆議院環境委員会の中で松木けんこう委員が質問したのだが、なんとも言えないような役人答弁しかなかった。

「国際条約で決められたからやってんだよ!」というのが心にあるだけだろう。

 

自分ならこう答えると思う。

 

生物の進化というのは、様々な多様化された種類の生き物があって生きながらえてきた。強いものが生き残り、弱いものが滅びたわけでもない。むしろ強い生物が死に絶えて、弱い生物で生き残った種はたくさんある。

 

なにがどう勝ち残るかは全くわからない不透明なのではあるが、ただ一つだけ言えることは、多種多様であればあるほど、生き残る種は多くなるということだ。予測できない自然環境の変化の中で、予測できない生き物がこれまで生き残ってきた。

 

だから、多様性を認める社会というのは大事なのだよという、社会意識にもつながるわけだ。

 

この前あった自民党和歌山県連青年局の露出女性ダンサー問題を考えてみよう。

 

「ダンスは多様性」口移しでチップも…自民会合で不適切行為? ...

自民党和歌山県連青年局長・川畑哲哉県議:「多様性というテーマにかなうかどうか、和歌山とのゆかりであるか、問題提起としてインパクトがあるかどうか、いろんな面から検討して、くだんのダンサーを招いた」

 

その時の研修テーマは「多様性」だったという。だからそのダンサー問題については、これもまた多様性という言い訳をしてのがれようとしていたわけだ。

 

そこで報道やSNS上では、「そんなことを多様性なんて言うのはけしからん」と、そういう風潮だったように思う。

 

しかし、ここで考えるのは、生物の多様性というのは本当にありとあらゆる多種多様な生命があり、そこには他の生物に危害を与えたり、餌として独占したりする生き物もいる。一方で、群れを率いて助け合うのもあり、おしどり夫婦の生き物もあり、乱交まがいの交尾ばかりするものもいる。そうした様々な価値観の中で、予測できない何かが生き残り、何かが絶える。

 

だが、我々ヒトが社会の中で多様性を唱えるとき、「人を殺してはいけない」「動物を殺めてはいけない」「物を盗んではいけない」「姦淫してはならない」「侵略戦争をしてはいけない」などの制約があったうえでの多様性としなければ社会倫理上、よろしくないのである。

 

したがって、社会の中の多様性では和歌山の女性ダンサー問題にもあるように、なにかの制約がかかっており、狭義の多様性なのである。だから安易に多様性を認めるなどと口走るのはどうなのかと思う。

 

本当の多様性というのは自然界にあるのであって、そこには倫理もくそもない。

 

それを社会に適用しようとすれば、悪も認めることになる。この世界、正義が必ず勝つわけではない。悪がのさばることもある。実はこれが自然の法則なのではないか。善悪を決めているのは人間個人に他ならない。人々が理解しあえない理由というのもここにあるだろう。

 

神というものが本当にいるのならば、どうして困っている人を助けないのかなどとよく言われる。神というものがあるならば、善も悪もすべての存在を認めて生かしているというのが正しい解釈なのではないかと思う。その中で、どうやって生物を大事にし、自然を大切に扱い、人間たちが生きていけるかということを考える必要があるのだろう。

 

ということは生物多様性の本来あるべき姿から考えると外来種を退治せねばならないとか、害虫は殺していいとかいうのは人間の都合である。それは良いとか良くないという問題ではなく、自然環境を破壊するのも、自然環境を保護するのも人為的なことであって自然の行為とは言えないし、またヒトが行うというのも自然の中の生き物がしているということでもあるからヒトの行為も自然そのものであるとも言える。すべては人の心次第ということではなかろうか。