自由な言論に関する考察 | 国政報告 おおさか佳巨 福島県[県中]の生活

国政報告 おおさか佳巨 福島県[県中]の生活

世の中に必要なものは必要になります。
例え、今は笑われてもです。
限界が来るものについては、捨てなければ生きていけないからです。

代議士秘書の時代にブログを更新するのをやめろと言われたので、何の変哲もない法案の採決結果のみを記したブログを更新させ、微かな抵抗をしたのでありました。

 

だけれども、そのうちそれが癖となってしまい、延々とこのブログでは法案、予算案、条約などの賛否について客観的に記してまいりました。

 

そのうち、その腐った政治家から解放されたあとは、自由な言論をくわえて批評しようと思ったのでありますが、なかなかそれに戻らない。

 

政治というものは意見を述べるのが政治なのであって、だんだん元に戻していきたい。こう思うわけであります。

 

ここ数週間では、今村復興大臣の発言、山本(幸)大臣の発言が物議をかもしておりますが、これらは彼らの本音であり、それが出てしまったものでしょう。

 

かつて中曽根内閣時代だったか、江藤隆美大臣が「日本は侵略戦争をしていない」との発言をし、大臣を更迭されたときがありました。それでクビになったから満足した国民、それは正しい発言だったのではないかという国民の声などありました。私は小学生だったか、中学生でありましたが、はっきり言って、その内容いかんについては、どうでもいいという考えが明確であったことだけを覚えています。

 

その後も失言で失脚した政治家は多々あれど、それらはすべて彼らの本音だったんだろうと思います。

 

それで私は今までの政治人生の中で、細川内閣とか村山内閣とか、あるいはその後の民主党政権などで与党というものを経験するのですが、そうしたなかで、大臣で居続けられることを目的とするがために、官僚の書いた文章を読み上げ、己の意見を殺すという政治家を多数見ました。

 

ということは、我々国民は、誰に投票しようが、何党に政権交代させようが、彼らが大臣や与党になったら意見を変えるということも肌身で感じました。

 

だから、安保法制反対だとか、TPP反対だとか、それを期待して民進党に投票して、政権交代で自民党を引きずりおろしたところで、やることは自民党政権と変わらないのです。これを我が国は何度か実験的になされています。しかし、日本国民は学習能力がないのか、こんなことを何度やっても気づかない。喉元過ぎれば熱さを忘れるのか、野党に投票すれば実現可能だと思っている。これが非常に大馬鹿なものであるということです。

 

私は27歳のときに、これを見越して、「政治家は誰がやっても変わらない」「政権交代してももっとひどくなる」と思って、また、民主党が自民党と相乗りする首長選挙であったので、民主党を離党して無所属で直接民主制なるものを掲げ立候補したことがありました。

 

しかし、有権者はまだ当時においては理解しておらず、これはもう、一回民主党政権などを経験してその馬鹿さ加減を知らないとわからないのだろうなと思っていましたが、民主党政権時代を経験してもまだわかっていない国民は少々ながら存在します。

 

それで話は元に戻りますが、今村大臣、山本大臣の発言でありますが、大臣だからこういう発言はよくないとの国民的意見があります。私は果たしてそれはどうかと思うのです。政治家の発言は、飲み屋で言うのと違うというのでありますが、官僚は確かにそれでいい。しかし、政治家というのものは、選挙区の中から飲み屋などを通じて、民意の本音から議席を得たものでもあります。

 

もしも大臣の発言が、「大臣だからそういう発言をしてはいけない」というのであれば、政治家を国務大臣に任命する必要性はないでしょう。選挙で選ばれた国民の代表者が大臣になるのだから、当然そういう意見があってもいいと思うわけであります。

 

それを抹殺するような国民の雰囲気がとても危険であると感じています。

 

私は自分が福島県に住む中で、今村大臣の被災者の理解を得るわけがないと思うと同時に、被災者を理由にしていろいろと役所に要求して不当に利益を得ている事実も把握しています。だからその怒りはわかると同時に、そうではないし、全く今村大臣が被災者の実情を理解しようとしていない姿勢に対して怒りを持つ気持ちはわかります。今村大臣は単に大臣になりたいがためになっただけの人であるとも思います。その誠実さは足りないでしょう。

 

山本大臣については、まず学芸員というものがなんであるのかよく知りませんが、とにかく本音でしょう。だからそれを強制的に謝罪させることによって、隠れた民意を握りつぶしていると思うのです。

 

それがその学芸員なるものかは確認していませんが、そういう効率の悪いことが存在するのは確かです。

 

だから、大臣の発言だからと言って叩き始める世論は、全ての民意を反映しておらず、なんだかわからないが自分がいい子ちゃんになるために叩く世論形成や、野党が有利になるための手段としてしか考えられません。

 

私は、昨今の社会が自由な発言を許さないこと自体に、危険性を感じます。それは政府の規制ばかりではなく、反政府的な立場にいる人たちからもそれを感じます。

 

自由な言論があるということは、自分とは違う意見に対して共存しない自由をも持っているということです。