平和は憲法に優先する | 国政報告 おおさか佳巨 福島県[県中]の生活

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悪さしながら男なら 粋で優しい馬鹿でいろ

憲法改正が国会であがってきている。与党だけで衆議院では三分の二を越えているが、参議院の問題もあるので民主党の協力は必要になってこよう。国民投票法の整備も始まった。

 

だが、ここでみなさんに知っていただきたいことは、日本国憲法及び戦前の大日本帝国憲法は、ほとんど守られていないということである。

 

憲法が他の法律と違う部分は、国の基本法というだけではない。

 

他の法律は、国が制定し、国民を支配下に置くが、憲法はその国の権力をけん制するものである。

 

したがって、国は都合のいいようにするためには、憲法を守らない場合がある。

 

学問上、あるいは理想上、憲法とは国家権力に先立つものであるが、実際には国が憲法を封じ込めてしまうのである。

 

憲法について、口角あわを飛ばすほど議論しているのは右翼と左翼と、本当は左翼なのに市民派を自称する人達だけである。

 

戦争のない国づくりをしたければ自衛隊法でそうすればよい。

 

天皇を国民の象徴にしたければ皇室典範ですればよい。

 

人権を保障したければ諸々の法律に規定すればすむことである。問題は姿勢なのだ。

 

姿勢もないのに基本法をつくりかえようとしたり、維持しようとしたりしても何も意味ももたない。

 

憲法では規範を規定しながら、守られていないことは山ほどある。

 

自衛隊の存在や死刑制度の存続については、各々に違憲かどうか賛否両論があるとしても、明確な憲法違反はあちらこちらにある。

 

まず、法律を作るのは国会の任務としながら、実際は内閣が作っている。この論理で行けば、裁判所にも法案提出権があると拡大解釈できる。また、私学助成を憲法では規定しているが、どんどんやっている。憲法を守れという共産党は、各地方自治体議会で共産党所属議員がしきりに私学助成を要望することはしきりである。

 

これら、憲法無視の姿勢は日本国憲法時代だけの話ではない。

 

旧憲法即ち明治憲法においても議会制民主主義や言論の自由が保障されながら

 

いっさい破られている。順法精神豊かな日本人は、なぜか抽象的な規定である憲法に関してだけは守らない風習がある。これは日本人というよりも国家権力は憲法に従わない習性を物語っている。

 

どうせ守らない憲法であるならば、どう改正してもらってもかまわないし、そのままでも一向にかまわない。

 

わが党の目的は、戦争をなくすこと、貧富の差をなくすことである。

 

憲法がこれらの政策に優先することはない。

 

国会議員には憲法尊重擁護義務がありながら、その憲法自体を変える発議権を持っている。

 

これも一般国民には理解できないことだろう。

 

これは法学を学んだものでなければ理解できないといって学者にとってなんらかの屁理屈があるのなら、それは国民にとってわかりづらいものであり、直接国民には関係のないものであるから棄ててしまったほうがよい。

 

なにしろ、国会で審議されている憲法問題は、理念が見えてこないのである。

 

単に学術上の討論をしたくて、自分たちが大層なことをしているのを国民にアピールしたいだけならとっととやめてほしい。

 

だが、彼らに言わせれば「郵政民営化」だの「小さな政府」だの「官から民」だのというのが“理念”だと答えるのだろうか。では、それを憲法に書き込んでみてはいかがだろうか。

 

それがあなた方の基本理念であるのなら、政権をとった暁にはあるいは現政権でさようにすればよい。

 

いつの時代でも普遍で、あなた方の説く政策が続くというのであれば、憲法にぜひ盛り込んでもらいたい。もしもこれを憲法の条文に書き込んだならば、あなた方の唱える内容がいかに基本的理念ではないかがわかるだろう。

 

もし、それでも何の疑問も抱かないのならば、こう言おう。

 

そのような規定を憲法で規定すること自体がおかしいのだと。

 

政府が関与しないことを理念としながら、わざわざ政府が関与する憲法で規定するというのは大きな誤りを犯している。

 

では政府がある程度、あるいは全面的に関与すべきとするケインズ派や社会民主主義、共産主義を持ち込んでみたり、あるいは軍縮、軍事による国際貢献を憲法に盛り込みたいという政治家や政党はどうだろうか。

 

経済政策をどうせよなどというのは、その時々の政権が決めることであり、自由主義ではなくなる。

 

軍事的にいかなる規定をしようともやはり時の政権は都合のいいように解釈するだろう。

 

何しろ憲法を守らないのが、国家権力を握った政治家・官僚だからである。憲法は権力を抑制する力を持っていないのは歴史が明確に示している。憲法は百害あって一利なしなのである。

 

社会民主党党首の福島瑞穂参議院議員は、彼女の勉強会で次のような発言をした。

 

「自民党や民主党の議員は『憲法では国民の義務よりも権利について多く書かれているのはおかしい。

 

国民の義務をもう少し入れるべきだ』と言っているが、憲法とは国家権力の横暴を抑制するためのものであり、国民に義務を強要する憲法改正はおかしい」と。

 

成る程、もっともな意見である。

 

憲法とは暴君を生み出さないためにヨーロッパから生まれてきたものだ。

 

今では『君臨すれども統治せず』の英国国王や象徴となっている日本の天皇制であるから、現在抑止すべきは議会・行政・司法などの国家機関である。

 

しかし、憲法がきちんと抑止力を持っているかどうかというのは

前述の通り、私学助成は例外であるとか、内閣の過半数は国会議員であるから内閣提出法案は許されるとか、自衛のための軍事力はかまわないとか、解釈改憲がいくらでも成立するのである。

 

共産党ですら解釈改憲しているのにいったいどんな抑止効果があるというのか。

 

福島瑞穂党首はこうも言った。「野中広務氏は、憲法を条文として改正しようとする明文改正派、宮沢喜一氏は解釈改憲であるが明文改正はしないという護憲派。

 

だから宮沢氏は改憲しないという意味では仲間」こうなってくると“憲法オタク”としかいいようがない。文章を変えるか変えないかを問うているのは全く無意味だ。

 

野中氏も宮沢氏も軍縮志向であり、さきの大戦では戦争の悲惨さには、身をもって経験した政治家であるから同じような軍縮論を持っている。

 

「とにかく憲法を変えない」というのが政治信条であるなら単なる“憲法信者”であり、戦前の天皇崇拝主義者とあい通じるものがある。天皇を憲法に置き換えたに過ぎない。

 

要するにどの政治家も「憲法」というそのものに捕らえられて、

 

表面上の体裁や面子のことだけを考えている。

 

わが党の主張は「平和は憲法に優先する」である。

 

改正しようという方もする方で、とくに民主党は「今のままでは駄目だ」という思いが強いが、中身は全くない。

 

あったとしてもそれはすでに自民党内にも同じような意見がある。

 

変えることがいつも主眼であり、変える内容については二の次という考えを持っている。

 

とにかくなんとなく変えようとするため余計に悪くなる。それが民主党である。

 

公明党にいたっては、9条が改正されたとしても、平和を名乗る公明党は「私たちが与党にいたからこそ、ここまでで食い止めることができた」と言える言い訳探しに必死なほど中身はない。

 

自己満足のために国家の基本法をいじくるべきではない。

 

各政党は所詮、資本主義の範囲内でしか物事を考えられない呪縛に陥っている。

 

改憲と護憲、右翼と左翼という対立を生み出してしまう憲法はもはや平和理念を達成するためには、むしろ妨げであり、憲法は一刻もはやく廃止するのが望ましい方法である。

 

しかしながら、憲法改正には国民投票が必要で、「国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする」(96条)とあるが、これは投票者の過半数と読むべきか、全国民の過半数か、全有権者の過半数かでかなり違ってくることとなろう。その投票率はいったいどれくらいになるだろうか。

 

そこまで国民的議論がされているのだろうか。

 

どうしても政治家同士の趣味・娯楽・言葉遊びにしか見えないのである。