小説 愛食家な彼女 25
俺は頭の中で、昨日の夜確認したことを反芻していた。
紗江を連れていきたい―紗江の望む遠くの景色を見せてやりたい。
その気持ちは、もはや使命感にも似た大きさでおれの心を満たし始めていた。
一度も見たことのない車用の地図を確かめて、赤いサインペンで印をつけていく。
いったい、どの程度の時間がかかるだろうか?
それとはなしに、伯父さんに聞いて確かめてみる。
思ったより時間はかかるようだった。
それも初めていくところだから―頼りにはならないけど―それでも、その時には漠然とした自信が俺にはあった。
なんだって出来そうな、思い道理になりそうなそんな予感。
この時間から出て、ここでご飯を食べよう。
そしたら、この時間には帰ってこれる。
ずいぶんと距離があるから、紗江は歩いていくといつもどうり、ダウンしてしまうだろう。
自転車を借りなくちゃ。
友人に夜遅くに電話をかける。なんとか、自転車のあてはできた。
よし、よし、よし、よし。
順調。だから―。
◆ ◆ ◆
漕ぎだしたペダルはスピードが出るまでの数瞬重たく足に乗りかかったが、すぐに緩い下り坂に差し掛かり、スピードに乗せて進みだしと、僕らをどこまでも運んで行く。
海岸線の道路から降りつける風が気持ちよく、僕らの目指す先は高く上った太陽で照らされ迷うことは考えられなかった。
よし、よし、よし、よし。
順調。だから―。
「紗江!今日は遠いところまで行こう!いつもの浜よりも遠く!」
紗江は、ギュッとおれのからだにしがみついた。
「うん・・・ゆっくりね」
振り落とされそうだよ。―紗江は、そういうと。急に。
「風!すっごく気持ちイイ!!」
今までにないくらい、明るい声を出して笑った。
潮風が僕らの向かいから吹いてくる。紗江の髪をなびかせて、おれの自転車のスピードをちょうど良くしていく。
本当に、本当に、本当に、
どこまでも
いけるような気がした。
◆ ◆ ◆
俺がペダルを漕ぎだして一時間。
所々で休憩をとって進む。予定では後二時間ほどの道程。
その先には、夕焼けが見える洞窟がある。
あの風景に似た風景がある。
彼女の幻想を本物にできる。
俺は、彼女の羽根になれるような気分でいたのかもしれない。
「紗江、大丈夫?」
「うん、座っていただけだしね。」
よし。
今日何度目かの「よし」。
家から持ってきたママチャリのかごにある水筒のお茶もまだかなりある。
さぁ、頑張っていこう。
◆ ◆ ◆
そして、最初の関門が着た。
急で長い上り坂。
ペダルはゆっくりとしか進まなかった。
足が鉛のように思い。
照らす太陽はアスファルトの照り返しと共に僕らをじりじり焼いた。
汗は馬鹿みたいに噴き出す。
―紗江、気持ち悪くないかな?―
でも、
がんばらなきゃ、がんばらなきゃ、頑張らなきゃ
その頭の中で叫ぶような「頑張らなきゃ」が一回一回のペダルを踏み込む足に力を与えていた。
「私、おりて押すよ?」
まずい、顔をゆがめていたのかもしれない。でもそれじゃ。
「それじゃ駄目だよ―、紗江が疲れてダウンしちゃ意味がなくなる」
「うん・・・・・」
紗江が腰にまわした手を緩めたような気がした。
俺は、こぐことに必死になって、いつの間にか、沈黙の中、じてんしゃはゆっくり、ゆっくりと進んでいた。
行かなきゃ、行かなきゃ、行かなきゃ
◆ ◆ ◆
いつの間にか、おれたちは一言もしゃべらず、沈黙中進んでいた。
潮騒の音が聞こえる。
もうすぐ、もうすぐのはず。
そう思って
俺は―先にばかり進んでいた。先にばかり進んでいて―紗江の変化に気づいてなかった。
小説 愛食家な彼女 24
だから―おれは紗江をそこに連れていくことにしたんだ。
◆ ◆ ◆
「それじゃ、乗って」
自転車の後ろのクッションを指差し俺は紗江にいった。
不思議そうに首をかしげる紗江。
「乗って、て」
どうやら困惑気味の紗江。
紗江をびっくりさせようとしてなにも告げなかった所為かも知れない。
目的も明かされないので紗江も不安だし、困るのは当然だった。
それでも―。
仕方ないので、僕は、自転車にまたがり
「ほら!」
といった。
多少、強引。
「重いよ?私」
「重くないよ。紗江乗せられなかったら、たぶん二人乗りようができる自転車なんて存在しないよ。」
そんな細い体一つ乗せることができないのなんて、俺としても男の意地ってものがつぶされるような気分だ。
「う、うん・・・」
紗江はやや深く帽子をかぶりなおして、クッションの上にのった。
「つかまって。」
「うん」
紗江の体重が自転車のタイヤの重心を軽く落として、その細い腕がおれの腰のあたりでぎゅっと締めつける。
俺は、紗江の体温と一緒に、ペダルを漕ぎだした。
小説 愛食家な彼女 23
空に入道雲がもくもくと綿菓子のように立ち上る日。
水平線の向こうにあるそれらはまるで夢の島のように浮かんでいた。
僕は、友達から自転車を借りてきていた。後ろのささやかな二人乗り用の座席の上にクッションを縛って取り付ける。
「どうしたの?」
紗江が不思議そうにこちらを見ていた。
太陽の光を浴びないように縁の広い白い帽子をかぶっていた。
紗江が白いものを着ると紗江の肌の白さを改めて実感する。
彼女の眩しいくらいの白いワンピースに負けないくらい彼女の肌は白いのだ。
この白浜の夏の太陽の下。
どうやったって太陽は僕たちを焼き付けていくのに
彼女だけは部屋の奥、それもタンスの中でじっとしていた人のように全くと言って日焼けしていない。
「もともと、メラニン色素が弱いらしくって」
ぼくはメラニンが何かすらも分かっていない。
その当時は、お肉を焼くと色が変わるのと同じ要領で、きっと僕らの肌は小麦色になるのだと思っていたような奴だったからだ。
「それじゃ、行こうか。」
「どこへ?」
紗江がきっと喜んでくれるところ。
◆ ◆ ◆
図書館での本を楽しんで読むにしても、大体にして往々、外でいつも遊んでいた僕は、紗江には悪いとは思うが・・・そろそろ外が恋しくなり始めていた。
そんな時だった。
あらかた本と言うものをほとんど読み終えてしまっている紗江が、最近ハマっているのは写真集。
富士山だとか、ヨーロッパの壮大ささえ感じてしまう建物だとか、太平洋を渡った向こう側にあるアメリカ大陸の想像もつかないような時間で作り上げてきた巨大な大自然だとか―そういう風景を映した写真集。
当時の僕には、なぜそんなものが面白いのか全くと言っていいほどわからず―ただの風景じゃないか・・・―などと思っていた。
「写真集ってさ、その人が一生懸命その風景のある場所を旅して、その時々にうまれた『これだ!』ていう奇跡の瞬間を集めたものなんだよ。
だからね、こうやって私もこういうの読んでると、まるで自分が旅をしてその奇跡の瞬間に立ち会ったようで・・・とっても好き」
なんか・・・そういうのがいいの。―紗江は笑う。
その目線の先はもうきっとここにはないのだろう。
紗江はきっと今意識の中でどこかを旅しているに違いない。
その言葉を聞いて、紗江が本当は何を望んでいるかわかったような気がした。
紗江は本当はどこか遠い所に行きたいのだ。
紗江は病弱だ。
―虚弱と言っていい。
きっと旅行というようなことはしたことはないと思う。
だから、遠くへ行きたい衝動を写真集の風景に見るのだ。
思えば、出会ったころの紗江は、異常なほど海へ行きたがっていた。
外へ出たがっていた。
きっと、それは俺と紗江が出会ったあの海が彼女にとっての精一杯の『遠いところ』だったんだ。
けれど
俺が紗江の体を心配して、彼女を図書館へ縛り付けた。
気づいてしまった。
俺が紗江に合わせていたんじゃなくて―紗江が俺に合わせてくれていたんだ。
俺が彼女を不幸にしていた。
彼女の自由を求める羽根を縛りつけていた。
彼女はめくる。
ページが変わるたびに、紗江は新たな旅に出かけた。
その一ページに。
あ・・・・。
俺の知っている風景があった。
正確には似ている。
ここ・・・・。
彼女の開くページに洞窟からのぞく、夜の闇に浮かんだ月とそれに照らされ一筋の道を作る海の風景が映っていた。
俺は一度両親に連れて行ってもらった場所に似ていた。
両親は、個々白浜で出会い―数年を経て、その場所で結婚の約束をしたと言っていた。
母は、はにかみながらそう教えてくれたことがある。
二年前のことだが道くらいわかる。
だから―。