小説 愛食家な彼女 31
「一週間だ・・・」
ぶっきらぼうに、藤本沙世はいった。
そう、彼女と出会ってから一週間たっている。
「お前が、呆けるようになって一週間!」
「いや、待ってください。藤本刑事。なんで、あなたがここに」
「本当に税金泥棒になるとは、情けないぞ!高柳!!それでも私を抱いた男かッ!!」
「何言ってんだ!!あんたは!昼間っから!!!」
そう、一週間
この生ぬるい怠惰な感覚を味わっていた。
―紗江との再会―
の後、一日ごとに12年前の夏の日が蘇り始め
その度に、仕事に身が入らずにいた。
そのたびに彼女に電話をする。
いつの間にか携帯電話に入っていた彼女の電話番号
その番号が、まるで麻薬にも似た作用を俺にもたらしていた。
気がつけば押している。
そして彼女の声を聞いている。
彼女は、そのたびに、今日思い出した12年前の夏の日の出来事を、
俺の思考をなぞるように話してくれた。
そして一言最後に、「ねぇ、覚えてる?」と、彼女はおれに聞いてくる。
当然、俺は「ついさっき、思い出した」と、こたえる。
二日前、彼女がおれの知っている紗江と同じ人間だということがわかった。
それからはさらに仕事に手がつけられなくなった。
まるで、夢の中の理想の女性が、目の前に現れたかのよう。
とても、普通の精神状態ではいられなかった。
一応の仕事(捜査、聞き込み)は、だいたい二人一組で行われるため
その度に、何かと都合をつけて、一時間から二時間、彼女と会う約束をつける。
本来ではありえないことだったが、独断先行ガ元から多かった(故に始末書も多かった)俺の行動を疑問に思う人間はいなかった。
そして
彼女と会って
会って・・・
あれ?
思考が霞む。
思考が・・・・・・・・・・・。
◆ ◆ ◆
気がつけば、藤本刑事に二人まとめて喫茶店まで引っ張っられていた。
お茶が必要なほど、今回の指導は長くなるのか・・・・。
「高柳、説明してもらおうか?」
「いえ、ですから・・・・」
俺はどこをどうまとめても、今までの自分の行動が正当化できるはずもないので正直に話すことにした。
「藤本刑事、俺は彼女と古い知合いで―その・・、時々会ってただけです。これ以上はプライベートなんで―」
「公務中にプライベートを持ち込むな」
「はい・・・・」
そりゃそうだ。
おれだって、自分で自分のことをどうかしていると思っている。
「すいません。ですが、なんで藤本刑事はここに?」
「思い人をほかの女に取られそうだから尾行」
「プライベート云々の話を撤回してほしい理由ですね」
「備考対象はお前、思い人といっても『恋の』ではなく、『疑念の』だ」
「申し訳ありません。」
「さらに言えば、薄野と私は知り合いだ。」
「初耳ですね・・・・ん?」
今何ていった?
「なんだ?間抜けな顔をして。もう一度言おうか?薄野と私は知り合いだ」
俺は、その間抜けな顔とやらのまま、無言で紗江に答えを求める。
「ええ、この間はどうも。藤本さん。助けていただいて感謝しています。」
にこりと笑う、紗江。
にやりと笑う、藤本刑事。
笑うしかないのは―どう考えても俺だ。
そんな話は聞いていない。
小説 愛食家な彼女 30
唇に残る彼女のぬくもり
このときは知らなかった。
近づくことは、消して温もりだけを与えるわけではないこと。
見たくないものまで見えてしまうこと。
そして、受け入れるということは、本当に勇気がいることだと
知らなかった。
―過去より現在へ
そのことを知った今も俺は・・・・・・・・・
俺は目を開けた。
ずいぶんと長い夢を見ていた。
いや、あれは夢じゃない。
記憶だ。
懐かしいほどに
悲しいほどに
切ないほどに
彼女が好きだった俺の記憶。
そんなことを思いながら、視界はいまだ現実の景色を認識するのに手間取り
ぼやけた景色が思考をさらにかすみがけていた。
「おはようございます。」
彼女がそういった。
「紗江・・・」
「はい、なんでしょう?」
「俺、紗江と出会ったことのころを思い出してたよ。」
「そう」
俺は、彼女の膝枕の上で目を覚ました。
いつのまにか、寝ていた。
まだ、昼間だというのに。
今朝の捜査会議からの記憶があいまいだ。
しかし、あいまいなままでいい。
俺は、刑事として最低なことをした。
「高柳さん、こんなところでさぼってていいんですか?」
「昔のようにけいじ君でいいよ。紗江」
「なら、けいじ君。こんなところでさぼってて怒られませんか?」
「いいわけないな。」
「なら、起きなきゃだめですよ」
「起きてるよ。」
「ふふふ、子供みたい。」
俺は、ぐぐっと背筋を伸ばし、大きな欠伸を一つすると
頭の中を整理しだした。
短い眠りだったが、その分深かったらしく
まだ頭の中は夢と現実が混同している。
どう考えても、京都にいるはずなのに、まだ、あの夏の白浜にいるような錯覚に陥る。
捜査会議の後、偶然彼女と出会って・・・・
それから・・・・・
その時、向かいからまっすぐ歩いてくるある人物を見て
俺の体温は絶対零度の局地-273,15℃の世界に送り込まれたかの如く冷え込んだ。
間違いない。
この状況下にして予想外の出来事
藤本沙世刑事。
小説 愛食家な彼女 29
一しきり遊んで、俺と紗江は海水で濡れていた。
肌に張り付いた服が、洞窟を吹き抜ける風のせいで少し寒かった。
その寒さを二人より添うことでちょうど良くして
俺たちは ただ この風景を見ていた。
「ごめんな、紗江。俺、自分ばっかり見てたよ。紗江のほう見てなかった。
でも
写真集を見て遠くを見つめる紗江を見てると、
俺の知らないところで遠くに行っちゃうんじゃないかって
不安で・・・・
遠くに行きたい紗江を俺が縛り付けているんじゃないかって
不安で
だから、紗江に嫌われちゃうんじゃないかって―すごく不安だったんだ。
いっそのこと、俺自身が紗江を遠くに連れて行けば、この不安が消せると思ってた。
独りよがりだった。
紗江はそんなこと一言も言ってないのに。」
ただそこにある、それだけで俺たちの心を満たした海と月と風は、おれの心をありのままに・・・素直にしてくれていた。
紗江は聞いてくれる。俺の声にこたえてくれる。
それだけでこんなにも不安なんて消えて無くなってくれるものだって
知らなかった・・・馬鹿みたいだ・・・・。
「ううん、遠くに行きたかったのは本当だった。
私、一言も言ってないのにけいじ君がそのことに気づいてくれたのはすごくうれしかった。
けど、私も不安だったの。
だって、私が知らない風景が今までにないスピードで私の前に現われて
私って、すごくちっぽけで
そんな風景をごく当たり前のように知ってるけいじ君が、私がとても近づけないくらい遠い人に感じて
私なんかじゃって思って
そしたら、あの長い坂で言うんだもん。
私が押そうかって言ったら―駄目だよ―て・・・
そしたら、もう駄目だった。わたし、けいじ君の足手まといになってて
助けることもできなくて
このままじゃ、けいじ君、私と付き合うのにいつか疲れてしまって
嫌いになっちゃうって
すごくすごく不安で
不安で押しつぶされそうで
涙を抑えるために、不安を抑えるために
殺した息で
胸が詰まって
不安が不安で
わがままを言ってけいじ君を困らした。
こんなにもけいじ君は私を思ってくれているのに。
ただ、怖かったの・・・・けいじ君に嫌われることが。」
怖かったの・・・・。
紗江は、少し体を震わした。
俺は紗江の手を握る。少しでも体温が紗江に伝われば気持ちも一緒に伝わるような気がしたんだ・・・・。
「なんだろう。俺やッぱりわからないよ―紗江。なんか暖かいんだ。紗江、教えてくれよ。これが愛ってやつ?」
紗江は、首を横に振った。
「恋だと思う。」
「紗江の言うことはやっぱり難しい。」
「教えてあげる。」
心臓が跳ね上がるかと思った。
その言葉で紗江に振り向いたとき
紗江は上目づかいで、僕をのぞきこんで、笑っていた。
またからかわれたと思った。
「私を受け入れて」
違った。
紗江の影が僕に近づいた。
これ以上ないほどに
甘い香りだった。
その瞬間、世界の価値がまるで変わった。
世界の価値が、俺と紗江だけになって
反転した
愛を一つ。
彼女がくれたのはキスだった。