小説 愛食家な彼女 38
外に出て大きく吸い上げる。
嗅げ
幸い雨も降っていない
負うことはたやすいはずだ。
この街の地図は頭の中にとうに入っている。
大気の組成は窒素と酸素と二酸化炭素で大半を占める。
その他は微量と言っていい
臭気乱れるこの京都という場所においても
匂いを放つ物質の量は微量。
それもわずかな体臭ともなればそれはほどなく拡散され
人間が感知するにははるかに超極小(ミクロ)な世界。
いや、ミクロにも及ばぬ世界。
警察犬でも難しいーその世界。
人間が世界を認知するとき、それは感覚器に頼ることでしか行えない。
つまり、人間ひとりひとり感覚器の能力に応じて世界はまったく別個のものとして見えていることになる。
当然、そうなれば、警察犬の見ている世界は視線の高さ以上にのその人類をはるかにしのぐ嗅覚により、人間にはけして立ち入れない独自の世界を保有していることになる。
特別な器官を待たぬ人間には立ち入れぬ世界。
そこに―
俺は―高柳啓司ならば!!
踏破し!その先に行ける!!
瞬間、得られた情報は半径10KMの匂いという情報、その細かな位置、強さ、特異性、同位性!
それを脳の大脳新皮質が、視覚で得られた映像情報と、彼の脳内にある知識をリンクし、新たな世界を視覚的に構築する―
―それはもはや、千里眼だ!
彼は、これを父と母の死、その殺人者への憎悪が原因で開花した。
ゆえに、死の匂い、血の匂いを纏うものなら、どこにいようが追ってみせる!
これが、刑事になった高柳がわずか数カ月のうちに幾つもの事件、殺人犯を逮捕したという奇跡にも似た事実を現実に変えた能力。
知覚、知覚、知覚
脳内にて高速で組みあがる三次元の地図。
それを光よりも速いスピードで相手の匂いを追う。
―追い付いた.
◆ ◆ ◆
蓋山敦之(ふたやま あつゆき)は、普通の小学生だった。
ごく一般的と言っても差支えない。
得意な科目は算数、苦手な科目は国語という、いわゆる理系タイプだった。
かといって理屈で考えるタイプというわけでもなく
単に、算数にゲームやパズルと似たものを感じていたから好きというだけで
仮に、そういった要素がないのならば、算数だって嫌いだったに違いない。
趣味は、ネット。
インターネットの有名掲示板サイトにコメントしたりするのが彼の趣味。
基本的に荒らし行為などをしたことはない。
ネットの世界でもごく一般的と言って差支えない。
総合的に見て、やはり表裏はなく、蓋山敦之の『行動』は、まったくもって普通の小学生だった。
ただし、内面的なものまでが一般的といったことはない。
それが個性というものだし
人ひとりのアイデンティティとはそうやって自然と形成されていくものだ。
だから、彼の心の中には常に人とは違う欲求が渦巻いているー他の人と同様に。
彼はごく普通の行動をなぞるように行うことで、反面、それと全く外れた行動をとりたいという欲求が常にあった。
理屈で動く法ではない―彼は『なんとなく』犯罪行為に手を染めたかったのだ。
それは、同時に、今まで積み上げてきた普通というレッテルの山貼りをすべて取り除くことになる。
そう言ったちょっとした破壊願望、自傷願望もあった。
やってはいけないことをやってみたい。
背徳感に浸りたい。
そう言うことが彼には理屈としてではなく『なんとなく』常に心の中にあった。
だからだろう。
美作(ハンドルネーム)というネットで知り合った同じ年代を名乗る子供の提案に、彼は一切の迷いもなく乗ってしまった。
それは必然的だったが、彼の『普通の行動』という山貼りのレッテルだけを見てきた両親を含めた、自己という個体以外の他人たちは、「彼に限ってそんな!!!まさか!!!!」などという的外れの感想を持つことだろう。
とにかく、美作の提案、メールをクリック、内容の読了、理解。
それを冷静に淡々と行った上で
彼はYESの返信メールを書きあげ送信ボタンをクリックした。
「コンビニ強盗かぁ・・・」
蓋山は、自分の乗った計画をテレビのニュースの感想を告げるように言った。
小説 愛食家な彼女 37
肩口から飛び散ったそれは
宙をたゆたっていた・・・・。
赤黒い血が、一滴一滴数えられるほどに・・・・・
撃たれたのは
沙―「えェッぁあぁぁあああ!!!!」
俺は取り上げた拳銃を入口のガキに向け
定まらぬ照準
かまうものかぁぁぁぁあああぁあぁぁ!!!
「馬鹿!!!高柳止めろ!!!!」
もう耳には何も届かなかった。
あまりにも軽いトリガーを
引く!
引く!!
引く!!!!
が、当たってはいなかった。
この距離で外すほど、おれの腕は震えていたのだ。
ガキは尻もちをついただけ
だが、与えた恐怖は本物だった。
―考えもしなかったのか?なんで震えてんだよ!?
撃ったら!!!撃たれるんだよ!!!!!!!!
ガキは悲鳴を上げながら、コンビニの外へと転がるように逃げていく。
俺はそれを追いかけようと―。
「馬鹿野郎!!!」
乾いた音と共に、頬が熱く燃えるような痛みが走った。
ふじ・・・・もと・・・・けい・・・じ?
藤本刑事・・・・?
藤本刑事は、撃たれた肩口を抑えることもせず
俺の頬に平手を当てていた。
その平手が、当たった状態から、おれの顔をぐいっと寄せて
「どうして撃った!!?」
藤本刑事は俺をにらんでいた。
睨んで・・・・泣いていた。
「どうして撃った!!?
自分が加害者になることを考えなかったのか!!?
私たちの仕事は、『被害者を増やさない』だけじゃないんだぞ!!
『加害者だって増やしちゃいけないんだ!!!』
それを何だ!?お前は!!
刑事が加害者になってどうするんだ!!?『加害者になって加害者を増やして』どうするんだ!!?
本末転倒だ!!
辛いんだぞ!!!
普通の人間である私たちにとって―
『加害者になること』だって十分に辛いんだ!!
すごく辛いんだ!!!!
恐ろしいことなんだよッ!!!高柳ッッ!!!!」
藤本刑事の泣く姿を見て、急に心が冷え込んだ。
突然寂しくなって、突然怖くなって、突然、涙が出そうになった。
唇が震えた。
俺は必死に涙をこらえて
「ご、ごめんなさい。先輩。ごめんなさい。」
と、子供のように呟いていた。
その時、バタンと、扉が開いて警官が一人入ってきた。
「すいません!!先ほどの発砲音を聞きつけてきました!!何がありましたか!!?」
藤本刑事は、涙をぬぐうと、警官に駆け寄り、俺は女子高生の止血を行う。
本当に手短な説明と、今後どうするべきかの最低限の指示をだした。
「私たちは、彼らの仲間を追います。」
「しかし、その怪我で・・・」
警察官は、青ざめる。
それはそうだろう。
肩口を打たれ、出血の止まらない藤本刑事が、あのすべてを見通すような眼光でその言葉を口にするのだ。
その気迫たるや、戦慄を覚えてもおかしいはずはない。
彼女の意志は本物だ―
「いきましょう。藤本刑事。」
「ああ、高柳。」
「病院へです。」
―だが、それを許すわけにはいかない。
「馬鹿!まだ、あのガキは、拳銃を持っているんだぞ。」
「先輩、加害者を出してはいけない、けど、被害者を出してもいけないんでしょう?。」
「こいつ・・・・」
「俺、一人で大丈夫です」
「どこに行ったかもわからないくせにお前はなァ!」
「ここから、北北西、約800mです。」
「なっ・・・・」
「全部話します。話しますから、俺を刑事にさせてください。藤本刑事。」
「馬鹿・・・・いっぱしの口をきくな・・・・」
「藤本刑事?」
「わぁかったよ!行く!行くからさっさと捕まえてこい!インドア派!追ってる途中で息切れするなよ!私はもうすぐ到着する救急車と一緒に病院に行く。・・・まぁ、彼女の応急処置は終わってるが・・・ほっておくことはできないからな。」
藤本刑事は、女子高生を一瞥する。
「行ってこい。捕まえろよ。」
「ええ。」
藤本刑事は、肩で、俺の肩をぴったりくっつけると
「それと、私の名前は沙世だ。『さえ』じゃない。名前を覚えろ高柳。」
と、不満そうにつぶやいた。
どうやら、俺は藤本刑事が撃たれた瞬間―不覚にも間違いだらけの絶叫をしていたらしい。
そう、だから今度は正しい行いをしよう。
小説 愛食家な彼女 36
◆ ◆ ◆
高柳啓司という記号をもったものが走り出していた。
藤本沙世という記号をもったものがそれに合わせて『動くしかなかった』。
仮にここで高柳が動くことがなければ、
ワンフロアにおいて
人質をとったガキは、高柳たちに銃口を向ける一人と弁当コーナーでサラリーマンに銃口を向ける一人で二人になる。
ならば、入口付近のガキに多少対応が遅れても、二人で同時に動けば鎮圧することは可能であり
彼らはその能力を保有していた。
その後、最後の一人が子のフロアに戻ってきたところを鎮圧するまでに
おそらく、180秒を要することはなかっただろう。
一瞬にして勝つ形はできていた。
だが、やはり問題は高柳啓司という記号をもつものが、『高柳刑事』という記号から外れた存在になってしまったこと。
気がつけば、彼は本来の自分を見失っていた。
彼の中にある『過去』が彼の中の『現在』を駆逐し
―思い出の夏に、回帰していた。
高柳は、すぐそばのガキを猛烈なスピードで突き飛ばし、
拳銃を奪い
みぞおちを打ちつけ
呼吸能力を一時的に奪い
―レジの少年へと駆けだす。
藤本沙世は弁当コーナーのガキのハンマー駆動域と、トリガーを抑え、ものの数秒で拳銃を奪い
合気道で言うところの『一教』にて、手首から肩までの関節を固定化し、肩口をけりこんで軽く脱臼させ
―やはり、レジ方向へと駆けだす。
―だが、レジにいる少年を鎮圧するためではない。
コンビニの形態にかぎらず、ほとんどのレジは、防犯上の問題と、客の流れをマネージメントするために入口とレジが一直線上に配置される。
一般的なコンビニエンスストアにおいて、レジと入口は近い。
この状況的符号と
元の計画より、一人子のフロアにおいて鎮圧する人間が多いという符号は
容易にこの先の未来を暗示した。
だから、藤本沙世は走るほかなかった。
彼女もまた、『藤本刑事』という記号を逸脱したところで行動を開始した。
高柳は、奪い取った拳銃のグリップ部分を少年にたたきつけやはり拳銃を手から離させるのに、一度目の鎮圧から、5秒を超えていた。
奪い取った拳銃を、突きつけ、手を踏みつけて動きを封じるまでに5秒
十分すぎたのが
再び発砲音が聞こえるにはーあまりにも十全すぎた。
―パンッー
血が宙を舞った。
180秒の鎮圧作戦において
わずか、8秒間の愚行は全体の4%ほどではあるが
4%は100%の愚行に等しく
―不幸に駆け出していたといってもよかったのかもしれない。