書評 「日本の弓術」 岩波文庫 | 武芸心術 シン・けん。

武芸心術 シン・けん。

私は武術とは、生きて行く上での、そして死生観に向き合う上での一つの智慧ではないかと思っています。
繊細でか弱い武術修行者の拙い気づきを綴っていきたいと思います。気が向いたらお付き合い願えれば幸いです。

 

amebloで私がフォローさせて頂いている、奈良宝将さんから本の紹介をして頂きました。

 

奈良さんは在家で得度され、真摯に仏教の研究と修行を重ねられていらっしゃるお方です。
その卓見とご経験は、本来であれば、先生とお呼びしないとならないお方なのですが、大変失礼ながら、同好の士の意味をこめて、ここでは、さんづけさせて頂きました。

「日本の弓術」 岩波文庫

著者は、オイゲン・ヘリゲル氏という方です。ドイツ哲学の研究者です。

そのヘリゲル氏が、日本に滞在する間、5年間、弓術の稽古を積み、師匠である阿波師範から、ついに開眼を認められたとも言うべき領域にまでになり、故国に帰える際には、阿波師より愛用の弓、そして日本武士道の理解者の証として、秘蔵の愛刀一振りを贈られるまでに至る軌跡が書かれています。

この本のハイライトはなんといっても、著者が悩み壁に打ち当たりながら、弓術を真に習得していく過程であると思います。
何せ、ドイツの哲学の研究者という、もう聞いただけで、自分など、ああ!難しいダメダメっと思ってしまうくらい、難しいことを言う人かと思いきや、理路整然と弓術から禅仏教までの全体像を考察する下りは、著者の頭脳明晰さに感心させられるます。

さて本題です。

「無になる。」

ヘリゲル氏の述べるところの根幹は、この無になるということだと思います。
ここからは完全に私流の解釈ですが、ここでいう無になるとは、こういうことだと思います。

矢をつがえる、引き絞る、放つという動作を意識から消し去る。的の存在も意識から消し去る。的を見る狙うということもしない。そもそも、それら全てを忘れた先に、さらにある境地。意図して行うのではなく静かにその状態に吸い込まれるように入っていく。
そして、弓もない、矢もない、的もない、その境地の中で、自分の意思ではないところで矢が放たれる。
武術では目つけといって、目を使う術があります。遠山の目つけという術は、対象に視点の焦点を合わせるのではなく、場とか空間に吸い込まれるような状態を作りだします。

阿波師範は暗闇の中にある的にさえ矢を的中させます。これは究極の遠山の目つけとでも言えるのかもしれません。

柳生新陰流の開祖、上泉伊勢守秀綱(かみいずみいせのかみひでつな)が述べたと言われる

「我が剣は天地とひとつ。ゆえに剣はなくともよい。」
の言葉にも共通するものがあると感じました。

この先500年かかっても、私が足元にも及ばない、達人の方々が到達した領域ですから、この所感はあくまでも自分の思考の中で作り上げたものです。ほんとうに分かっているわけではありません。
禅の考案も極限の思考訓練の先に、命からがら到達する境地なのだと思います。
「日本の弓術」は私程度の修行者に、こんなに簡単に語られてよいものではないことは、もとより承知しております。しかし、それでも今この時に語っておくことに、なにかの意味が何かあるのではないかと思い、今回は書評的なものを書かせて頂きました。

最後までお読み頂きありがとうございました。